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#03. オレ、機械科に向いていないんじゃないか?

私の代になってやってきたことの詳細については後述するが、河合電器製作所は、ハンダゴテやアイロンの修理業から始まった。ちょうど世の中に電熱線というものが登場したときだ。電熱線は、ニッケルとクロムを主とした合金であるニクロム線から作られており、電気を通すとニクロム線の抵抗によって、電気エネルギーが熱エネルギーに変換される。

渦巻き状の簡易な電熱器から始まり、コーヒーメーカー、パン焼き器、餅つき器、魚焼き器、ホットプレート、オーブンレンジ、洗濯機や食器洗い機用の乾燥機 などなど 、家電製品向けの部品として、数え切れないほどのヒーターを作ってきた。

ホットプレートの鉄板を開けると、蛇のように ぐにゃぐにゃと折れ曲がった黒いものが見つかると思う。このようなものを長年、作り続けてきた。

ヒーターは 電気と機械の知識を使った機能部品で、大学ではこの分野の 専門知識を得ないことには 、いまの会社を経営できないと勝手に思い込んでいた。

ときは1980年代のこと。日本の製品がアメリカで大ヒットし、ものづくり産業の躍進が日本の国力の増大に 大きく寄与していた時代である。理科系の専攻科目のうち、最先端の技術だった電気や電子系の学科を専攻した学生が、企業からは重宝された。

けれども、私は偏差値が非常に高かった 電気や電子の専攻を早々にあきらめ、 機械工学科を選択することにした。

当時の私は、とにかく愛知県の親元から離れたいとの思いがあり、父親の出身地である大阪や、首都東京にキャンパスがある大学を主に受験した。一浪したあとに 、いくつかの大学の合格通知を得ることができた。結果として、 偏差値で学校を選び、千葉県野田市にキャンパスがある大学に進学することにした。学力で針路が決まると考えることは 、当時としては常識でもあった。

偏差値で進む道を選ぶなんて、なんてコトをしたのだ……。といまではそう 思う。

人は不思議なもので、自分ができなかったことや後悔したことの経験から、同じような失敗をしないように、子どもたちや若い人たちを導き たくなってしまうことがある。

「人生のハンドルは自分で握る 」 「親や先生たちが満足すること で手を打つのではなく、そのとき、そのときで選択肢を広げる力を磨いてほしい」と、いま、愛知県内の大学や高校から機会をもらって、自分の失敗談を交えながら、進路についての話しをさせてもらっている。

話を私の大学進学時に戻そう 。

関東で育った人にはこの感覚はわからないかもしれないが、愛知から見たら、千葉も埼玉も神奈川も東京である。首都圏への進学や就職であれば、すべて上京である。

私も大学に入るときには、「おれ、東京に行くぞ!」と友だちに自慢していた。

実家から離れる日、私は ひとり暮らしができる嬉しさや、知らない土地に住むことができるワクワク感に満たされながら、新幹線に乗り込んだ。

会社をただただ継ぐためのステップとして、機械工学科に入学したのだが、1年のときから教養科目だけではなく、専門科目も 組み込まれていた。必死に勉強しないと、2年には上がれないほど厳しい学校だった。半期だけの授業で再試験もなく、たった 一度の試験だけで成績が つけられる科目もあった。これを落とすと即座 に留年が決定してしまうほどであった。

なんとかかんとか、ビリッケツぐらいの成績で進級することができたが、そのころから、なんとなく 「オレ、機械科に向いていない んじゃないか?」と思い始めていた。

同じ学科の友人たちは、好きなバイクの話に花を咲かせ、パーツをカスタマイズした自慢のマシンで、しょっちゅうツーリングを楽しんでいた。バイクで学校に通う者も多く、教室の長机やイスには、フルフェイスのヘルメットがずらりと並んでいた。

車にしても、彼らはおんぼろの中古のものを買ってきては、改造して運転していた。実際に、自分で身近な機械を触ることを心から楽しんでいたように見えた。

レーシングのピットでよく見かける、油いっぱいのツナギ服で学校に来る学生も多かった。みな、好きなことを学んでいるように思えて羨ましかった。

理科系の学科と いえば 実験が欠かせない、 ただ、私といえば、何のためにこの実験をして、レポートを出すのか、 まるでちんぷんかんぷんな状態だった。部活の先輩のレポートを参考にしながら、うなりながら、徹夜で考察を書いて提出した。

毎週、木曜日に実験があり、翌週の月曜日の 朝10時がレポートの提出期限だった。投入口が狭い 郵便ポストのような箱に自分のレポートを入れる決まりになっていた。 時間になると、准教授(当時は助教授といっていた)が、白紙の紙をその投入口に入れる 。

10時を過ぎて提出されたものは、その白紙の上に乗ることになり、期限遅れとされた。ここでは、わずかな遅れも許されなかった。

みんなレポートの提出に必死だった。

たこ糸にガムを付け、狭い投入口に垂らし、准教授の白紙をそーっと抜き取る者もいた。時間内に提出したように見せかける 悪知恵だった。期限どおりにきっちりレポートを提出するやつよりも、こんな悪知恵を使えるやつの方が、いまごろ創造力を発揮して、社会を変えているのかもしれない。

私は授業や実験では、大学の友人たちにいまでも大笑いされる失敗をよくやらかした。

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