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#06. もってない能力は、いくらがんばったところで身につかない

対戦校とエールを交換し、部員全員がコートの後方にそろ って校歌を歌った。部員たちの前でプレーをしている仲間たちを心からうらやましく思ったが、私自身、団体戦に出るチャンスは一度もやってこなかった。

春と夏にはそれぞれ1週間の合宿をおこなった。千葉県の白子や軽井沢の定宿でみっちりと練習する。この間、 とにかくさまざまな規則が定められており、とくに朝は6時に起床し、夜は10時に消灯するというルールは絶対に守らなければならなかった。

もちろん、1年生は多くの仕事をこなさなければならなかった。ご飯の準備とかたづけに、先輩たちのウェアの洗濯やボール洗いなど、みんなで分担して手際よくやらないと 10時の消灯にはまに合わず、風呂にも入ることができなかった。

合宿のあいだは、とにかくテニス漬けだった。テニス雑誌以外の本は持ち込み禁止で、当時、大流行したソニーのウォークマンもダメだった。

昼食後に休憩はあったが、社会人になったOBたちも遊びに来ており、彼らがプレーし始めると、貴重な昼休みでもコートに張りついてボール拾いをしなければならなかった。1年生は出入り口に見張りをたてておき、OBがコートに遊びにいくのを見かけたら、「OBが出たぞ ――!」と声を張り上げ、同期の仲間たちと一緒に走ってコートに向かった。

相手は車、我々はダッシュ。OBが着く前にコートにいなければならない。いま 昼食で食べたばかりのものが出そうになった。

合宿にかぎらなかったが、先輩たちと食卓を囲む際は、大皿には手をつけることが許されず 、一年生が食べていいのは、自分の前に置かれた小料理とご飯と味噌汁だけだった。 つねに、目の前に座った先輩のご飯のおかわりに気を配り、食べ終わったと思ったら、背中に隠し持っていた灰皿を差し出した。

新入生の歓迎コンパだけでなく宴会では、1年生の前には箸も用意されていなかった。我々に与えられた使命は、とにかく、飲むことだけだった。当時は一気飲みが大ブームであり、ビールや酎ハイに醤油が入れられることもあった。

みんなで合唱した。「今日もお酒が飲めるのは、○○くんのおかげです。それっ、一気、一気、一気…… 」

1年生を対象に、ジョッキに注がれたビールを早飲みするトーナメント大会も毎回、行われた。お酒が極端に弱い私は、 いつも早々に酔いつぶれ、戦線から離脱した。もともと、つぶされるのが目的なのだから、先 に吐いてしま うほうが、楽といえば楽であった。

とにかく、1年生は飲まさせられるのが慣例だった。私たちが2年生になったときも、変わらず飲ませる、飲ませられる伝統 は続いていった。

2年生になれば、1年生がつぶれたあとの面倒をみるという役割が待っていた 。下宿先にブルーシートを敷き詰め、下級生を看護する用意をした。汚い表現だが、ゲロまみれになった服でも、彼らを抱きかかえて運んだ。

戦場にころがる屍 ……。

次々とつぶれたものたちをリヤカーに乗せて運んだこともある。

当時の下宿先は、たいてい、寮のように 風呂とトイレが共同だった 。酔ったあげくに 、寝ぼけて廊下で小便をするものもいた。

朝方に目覚めたあと、私たちは雑巾で廊下を拭きながら、「家族でもないヤツのために 、なんでこんなことをやらなければならないだろうか――?」と 話し合った。

3年生の秋にはクラブを引退する 。4年生は社会に出ていなくてもOBと呼ばれていた。そのため、2年生の秋には来年 の幹部 を同じ学年のメンバー間で相談して決定することになっていた。

話は少し飛ぶが、我が校では、 毎年11月の勤労感謝の日から 4日間にわたって学祭が開催される 。

2年生の秋の大学祭では、「五武道の旅」と称して、幹部になったものは柔道に剣道に空手道…… と5つの武道の模擬店に一緒に挨拶にいく。一升瓶を抱えながら。

「おっす! 来年の幹部学年で副将を努めます佐久です!」

そう言って、けっこうな量の日本酒を酌み交わすはずなのだが、当然ながら、下戸の私が5か所をまわるのは無理だった ……。

最初のところでコップ2杯の日本酒 を一気飲みしたあと 気を失ってしまい、2つめ以降の武道まで 挨拶に行けたのか、そうではなかったのかは、まったく記憶にない。

孔子曰く、「上に悪む所を以て下を使う勿れ。下に悪む所を以て上に事うる勿れ。前に悪む所を以て後ろに先んずる勿れ…… 」

自分が嫌だったことは、先輩になったらやらないのが立派な人間である。

ところが、実際に3年になれば王様のような存在になり、つい気が大きくなる 。自分のペースで飲食もできるようになる。1年のときは苦しかったからこそ、後輩たちにそれを押しつけてはいけないのだが、いかんせん、まだ人間ができていない……。そもそも立派な人間になろうなんてこれっぽっちも思っていなかった。

同じように飲ませた!

「やば、血―、吐いた」

2年下の後輩が気を失って道ばたに倒れた。すぐに寮にあった唯一の公衆電話か119番にダイヤルして、救急隊を呼んだ。

「患者は何歳ですか?」

19歳と伝えると、

「未成年に飲ましたんか?」

と怒りの声が電話口から聞こえた。

当時、コンパなどでの「酒の飲まされすぎ」が原因で、大学生が命を落とすニュースがよく流れていたが、幸いにもこのときは大きな問題にならずにすんだ。

話を戻そう。

あたりまえが、我々の合宿には特訓もあった。そのひとつが、100本連続で スマッシュをすべてコートに入れるまで終われないという過酷なものだ。私は一度も成功した記憶がない。いつも夜に罰として正座させられた。いま考えれば、能力不足でできないものはできなくて仕方ないと思うのだが。

近距離ボレーと称する特訓もあった。相手がネットの近くから、思いっきりボールをひっぱたき、こちらはそれをボレーで打ち返す。 動体視力が弱い私は、早いボールにまったく反応できない。風呂場で「今日は、あんまり身体にボールが当たらなかった。よかったよ ――」と友人に話しながら、自分の身体を見ると、丸い黄色のあざがいくつも残っていた。

どれだけ気合いを入れて打とうとしても、見えないものは見えない。その一方で、涼しい顔をして、ボールをほとんどうしろにそらすことなく、ボレーで返す同期もいた。

サカナ、ヒョウ、サル、ネコ…… 。

サカナである私が、泳ぐことではなく、誰が早く木に登れるかをテストされているような感覚だった。

その後、彼は社会人になってからテニスで天皇杯を取った。もともとのモノが違っていたわけだが 、当時は彼の運動能力が心から羨ましかった。

ゼロに何をかけてもゼロのままであるように、もっていない能力は、いくらがんばったところで身につかない。これに気づけなかった。自分がもっている才能を伸ばすことを心がけるべきであった。

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