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#08. いよいよ社会人だ

私は平成元年の入社組である。「新人類」と言われながら、花金、花金と叫んでいた時代だった。花金とは土日の休みが浸透し出したころの言葉で、「金曜日は 夜遅くまで思いっきり遊ぶぞ!  二日酔いで土曜日がつぶれてしまっても、日曜日に休めるから大丈夫!  仕事はつらいもの、がんばって夜遅くまで働くもの!」との定義があったからこそ、金曜日は朝からワクワクしたものである。

先輩いわく、私が入社する数年前にその会社は土日と祝日が休みとなったそうだ。それまでは土曜日が半ドンで、土曜日を休みにする代わりに、平日の終業時間を繰り下げ、お昼休み時間を短くしてトータルの就業時間を合わせたそうである。

土日休みのルールは製造業が先行して導入し、金融機関で働く人たちは相変わらず土曜日も出勤していた 。

いまとは違い、奨学金の借金を抱えて社会に出ていく人は少なく、入社したとたんに誰もが新車や高級車を購入していた。実際、同じ事業部に配属された大学や大学院卒の同期17人のうち16人が1年目で車を買っている。

乗っている車でその人を判断される社会だった。だから、女の子はいい車でないと横には乗ってくれなかった......。いま のように「軽自動車でもいいよ」と言ってくれる人は皆無だった。

三菱や日産の逆輸入車を買うものもいた。たしかに左ハンドルのTバールーフ車でのドライブは、助手席に乗っていても注目されているような感覚になった。他の車の爆音と風切り音が交差し、首都高のトンネル内はあたかも自分がF1のレースに出ているような錯覚に陥ったほどである。

みんなが浮かれていたなか 、ただひとりだけずっと車を買わなかった親友もいる。彼はその後どんどん出世し、いまではその会社の社長を務めている。当時から大人しやかで、社会人にまるでふさわしくなかった私の言葉の粗さも注意してくれたほどの人物だ。

一方、私はイケイケブームの巷の流れに逆うこともなく、何でもローンを組んで買いまくった 。ボーナス一括払いも多用した。

車、ステレオ、スキー板、スタッドレスタイヤ……。

「大丈夫、大丈夫、残業すれば、払える、払える」

「1日に2時間残業すれば4千円増しだから、楽勝でいけるな」

アホだった。でも、この時代、世間の誰もが浮かれていたはずだ。

当時はいまの就職状況とは異なり、とりあえず働く会社を決め、4月1日の入社日後に配属される部署が決まった。技術系に人事系、営業系の仕事、すべて就職ではなく就社だった。

約2週間の全体研修を受け、そのあいだに適性検査と面接が行われ、勤務地と職種が決められた。

勤務場所は決まっていなかったが、私は鎌倉市にある寮が割りあてられ、そこから本社がある渋谷まで通う生活がスタートした。4畳半のクーラーもない部屋で、学生時代にもっていたものをほとんど捨てなければならないほど狭かった。

入社前の3月末に千葉県から鎌倉市に引っ越しをした。引っ越し費用の全額を会社が負担してくれることになっていたが、私は友だちに手伝いをお願いして、レンタルのトラックで荷物を運んだ。同期の中には、すべてお任せパックで引っ越しをしてくるものもいて、それぞれの性格がでていた。

卒業前のアパートは和式のトイレだったし、「昭和の初期か?」と思われるほどのボロ家だったが、いちうおう部屋は2つあった。衣料とスポーツ用品以外のほとんどの持ち物を捨てたが、それでも4畳半の部屋に荷物を入れるのには苦労した。

とにかく、寮の 壁は薄かった! お隣のテレビの音がまる聞こえするほどだった。

渋谷までの慣れない満員電車が苦痛で仕方なかった。モノレールにも乗らなければならず、そこではぎゅうぎゅう詰めで左右に振られる。まじめにスーツのボタンを留めていたら、揺れたはずみで糸がぶち切れた。毎日、会社に着いたら 「はい、仕事は終了!」とつぶやいていた。通勤中はスーツのボタンをかけてはいけないことをそこで知る。

数年後には自分も新入社員の研修を担当することになるが、入社後の全体研修ではさまざまな部署の先輩たちや偉い方たちの話を聞いて勉強した。

ある事業部長が「みんなはどこまでの役職になりたいか?」と尋ねてきた。

「社長になりたい人は?  事業部長クラスになりたい人は?  部長、課長ぐらいの人は?もしくは、主任くらいでいいよという人は?」

それぞれが自分はこれだと思うところで 手を挙げた。

私が最後まで挙手をしなかったのを彼はしっかりと見逃さず、「君はどうしたいのかね?」と聞いてきた 。

でかい地声で、「10年経ったら、家業をつぐために辞めます」と 堂々と言うと、まわりから大きな笑い声が聞こえた。

「おまえ、バカじゃない? あの場でそういう ことを言うかよーー?」と。

同期たちからは冷ややかな目で見られた。私は、人間は正直じゃないといけないと心の底から思っており、「なんで、まじめに答えたのにあかんのだ?」と当時は不思議で仕方なかった。

数か月後に配属された部署でも、「しまったーー! 仕出し弁当を頼むのを忘れた!!」と部屋中に響き渡る声で叫んでしまい 、先輩たちから、「頭おかしいのか?」と言われることもたびたびあった。

まわりから見たら、TPOをわきまえない変なやつと思われていたと思う。小さな失敗を重ね 、赤っ恥をかきながら少しずつ社会人として成長していった。

職種は、技術系は向いていないと知りながら、いちおう、機械工学を学んできたといういらぬ自負があり、生産技術だの、ハードウェアの設計だの、設計にかかわる仕事を希望した。

2週間にわたる全体研修の最終日、新入社員にとって、運命を決める配属辞令が渡される日がやってきた。

大阪支店の勤務を命ぜられたもの、九州支店を命ぜられたもの、同期100人が順番に前に呼び出され、配属の部署が伝えられた。ひとりひとりの発表に大きな歓声や嘆声がわき起こった。

いよいよ、私の番になった。

「佐久真一殿、ビルシステム事業部、マーケティング部での勤務を命ずる」

みんなの前で大きくガッツポーズをした!

名前がかっこいい、誰からもあこがれる部署だった。私も含めて誰も仕事の内容をよく知らなかったが、かなり羨ましがられた。会社の名前や部署の看板がいかにも自分の姿であるように思っていた。まるでヒーローにでもなった感覚だった。

入社して10年間は、その会社で働こうと決めて いた。3年や4年では何も恩返しができなと思っていたからである。

何か特別な得意分野があった わけでもなく、各部署の調整役みたいなことを多く行った。最初に割り当てられたのは、メインフレーム(大型のコンピュータ)のデータ投入に分析、統計手法を用いた販売予測だった。卒論をまだ手で書き、青焼きのコピー機を使っていた時代で、私はワープロも使いこなせない状態だったが、専門書を山ほど 買い込み、IBMのマシンを相手に悪戦苦闘していた。

コンピュータの世界はまったくのど素人の私も 、OS やデータベースの仕組みをイチから勉強し、プログラミングも少しずつできるようになっていった。

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