「現実」の対義語はなにか?(村上春樹「街とその不確かな壁」の書評あるいは考察のようなもの)
村上春樹の6年ぶりの長編小説が刊行された。
物語として面白いかどうかは人によるとして、「この本はなぜ書かれなければならなかったのか」を考察しがいのある本だと思った。
以下ネタバレを含むため未読の方はご注意ください。
逆に、既読で「結局どういうこと?」というモヤモヤを抱えている方には是非読んでもらいたい。
ここから本編
「"現実"の対義語はなにか?」
「この本は誰に向けて書かれているのか?」
街とその不確かな壁を読み終えて、僕が抱えたのは上記の2つの問いだった。
本書の中では、一見同じように思えるいくつかの概念が取り扱われている。
「意識」「無意識」「意思」「心」「魂」「壁」「街」「影」「卵」「夢」etc.
これらはそれぞれ何を意味しているのだろうか? なぜこんなにも似通った言葉(メタファー)を重ねる必要があったのだろうか? これは、"現実"の対義語とはなにか、という冒頭の問いに繋がっていく。
そして、本書は事前情報から明らかなように、1980年に執筆したほぼ同名の中編小説をリライトした第一部と、それを書き継いだ第二部・第三部から成る。なぜ、この物語は40年以上の時を経てこのような歪な形で書かれなければいけなったのだろうか? 「誰のために書かれたのか」という問いを置くことで、1つの答えを導き出せそうな予感がある。
しかしまずは、本書の内容にダイレクトに触れる前に、1つ参照しておきたい。
村上春樹が、エルサレム賞授賞式展で語った「壁と卵」に関する有名なスピーチがある。
壁・システム・意識・悪
ガザ侵攻のただ中にあるエルサレム市内で行われたこのスピーチは、基本的に、イスラエル軍やパレスチナ武装組織を非難するものとして受け止められた。あるいは、村上春樹の根本的思想の中にある政治性を露わにしたものだとして、ある種の人々からの不興を買うきっかけとなった。
ここでは、そうした政治性(とは何か、その是非、云々)には立ち入らない。ただ、本書の中で鍵となる「壁」「卵」という概念の、ある意味での解題が行われているように読めることに注目したい。
村上春樹にとっての壁とはなにか。
2009年、それは「システム」であった。
このスピーチにおける「壁」とは、「システム」であり、その1つの現れは、爆撃機や戦車など、市民に突如もたらされる武力やその背後にある国家・制度である。こうした現れはあくまで一例に過ぎないと明記しながらも、壁とは基本的に人(卵)の「外部」にあり、ときに私たちを守り、ときに意図せず誰かを傷つける仕組みだと規定されているように見える。そして、そうしたシステム=壁に抗い、個人=卵の中にある「魂」の尊厳に光を当てることが、虚構の物語を生み出す小説家としての自身の役割であると語っている。
村上春樹にとっての壁とはなにか。
2022年、それは「意識」である。
本書の中で、キーパーソンである「イエロー・サブマリンの少年」の兄はこのように語っている。
ここにあるのは「システムの内部化」、あるいは、善悪の二項対立からの明確な脱却だ。エルサレム賞授賞式展でのスピーチにおいて「あるときにはそれが独り立ちして我々を殺し、我々に人を殺させる」とされたシステム=壁は、私自身の中にあり、そして私が作り出したものであるという。
村上春樹にとって、「悪」という概念もまた、重要な位置を占めるものである。「根源的な悪」との対峙を描いてきた「羊を巡る冒険」や「ねじまき鳥クロニクル」の後、1995年の地下鉄サリン事件をはじめとするオウム真理教事件に衝撃を受けた村上春樹はその被害者や関係者へのインタビュー(アンダーグラウンド・約束された場所で)に取り組む中で、2005年において少なくとも自身が仮定してきた「根源的な悪」に対して疑義を抱いている。
その後、新宗教教団をフィクションの中で取り扱った「1Q84」において、教祖が自身を「代理人」と語る、いかにも「悪の根源」であるかのような「リトル・ピープル」という存在が登場する。
ここで示唆されているのは、「誰もが悪になり得る」という極めてシンプルな視点だ。どこかに絶対的な、打ち倒すべき「悪」がいるのではなく、私たち一人ひとりが、常に、そして自らも気付かぬうちに、「凡庸な悪」に陥る可能性があるということへの警鐘でもある。
この「1Q84」が刊行されたのは、エルサレム賞受賞とほぼ時を同じくする2009年〜2010年である。スピーチ単体では卵の「外部」にあるかのように読めた「壁」=「システム」と、実は人誰しもの「内部」にある「悪になり得る可能性」とが、ここで繋がる。
だからこそ、本書において、壁とは「意識」である。そこには、当人すらも気付いていない「無意識」も含まれる。本書で「壁とは何か」に明確に答える文章を再掲する。
また、先の「1Q84」からの引用において、「(光と)影」に言及されていることにも注目したい。「1Q84」の中では、光のない影はなく、また影のない光はない、とした上で、カール・ユングの言葉を引く形で、「影」について以下のような説明が行われている。
本書では、主人公は「影」とときに分離し、ときに入れ替わり、ときに合一する。はたして「影」とはなんなのだろうか?
その前に、本書における「街」とはなにか?を考えたい。
この壁の向こうにある「街」には、時間がない。正確には、時間が意味を持たない。時計台の時計は針を持たないが、基本的には日は巡り季節は変わる。しかし、その営みには終わりがなく、蓄積もない。ただ、自分がそこに「在る」ことが、分かちがたく世界の存続と結びつき、承認されている。主人公は、自身にだけ可能な「夢読み」の仕事さえしていれば、日々の生活に困ることもなく、安楽に生き続けることができる。
村上春樹にとって、自分のもっとも根源的なあり方は、誰かの卵の中にある魂(尊厳)を浮かび上がらせ、光を当てることである。それをただひたすらに、実直に、混じり気なく繰り返すのが、「卵」に保持された誰かの「古い夢」を読み解く夢読みの仕事である。だから、それは作家の仕事のある側面からのメタファーであると言って良いだろう。それを終わりなく許容し承認する壁の中の街。私自身の魂の中の世界。
この街に入るためには、「影」と別れなければならない。影とは、先の「1Q84」の事例を引けば、「よこしまな存在」である。人間が前向きな存在であろうとすればするほど、避けがたく生まれてくる「悪の可能性」である。個人の魂(尊厳)に光を当てる仕事を続けていくためには、当然そうした影と離れる必要がある。
一方で、「影」は現実の私、社会の中の構成員として生きる私の紛れもない姿でもある。ときに影と本体は入れ代わる。本書の中では都合三度、主人公の「声が別人」のようになる描写があるが、これはその入れ替わりの可能性を示唆している。そして本質的に、影と本体は区別がつかない。主人公は折に触れて「影のない」人間(それは自分自身も含めて)と出会うが、それが「影だから影を持たない」のか、「影と別れた本体だから」なのかは分からない。2つが分かれた時点で、どちらも、「影を持たないなにか」に過ぎない。魂の世界に没頭すると、影(現実の私)は衰弱していきやがて死に絶える。このとき、本当に消えてしまうのは影なのだろうか、それとも本体なのだろうか。本書の第1章から第2章への転換において、「私」の視点は本体から影に(あるいは逆から逆に)転移しているように読める。常にその境界は曖昧であり、「私が本体だと思っている私」は、常に、「実は影であり消え去ってしまう」可能性を孕んでいる。
ここでようやく、冒頭の一つ目の問いに戻る。
「現実」の対義語とはなにか?
これは逆説的に、現実とはなにか、という問いでもある。
本書の中で、「イエロー・サブマリンの少年」は以下のように語る。
そして本書のあとがきは、村上春樹自身の以下のような言葉で結ばれている。
冒頭から引用しているスピーチにおいて、虚構の物語を書く小説家の意義を「個人の魂に光を当てる」ことであるとされていることに注意したい。つまり、事実と異なる「真実」とは、ある「個人にとっての真実」であり、それはその個人の尊厳=魂と深く結びついているということである。
そしてこの「ある個人にとっての真実」は、紛れもない「現実」である。本書の主人公は、現実の痛みを伴うあまりに生々しい夢(のようなもの)を見た後で、こう語る。
本書の中で、「"現実"の対義語」となり得る概念は無数に存在する。
ここまでにも触れてきた「意識」あるいは「無意識」=「壁」や、「卵」にくるまれた「魂」の世界である「街」、その裏にある「影」などがそうだ。「意識」と明確に区別された「意思」という概念もある。
そして、さらに「意思」とは明確に区分された「心」が、本書における最も「自由なもの」の象徴としての「鳥」と重ね合わせられていることにも注目したい。
しかしおそらく、私たちに突きつけられているのは、「"現実"の対義語とはなにか?」「"現実"とはなにか?」という問いではなく、あなたは何を現実として選び取るのか?という問題だろう。
そう、私たちは自分で選び取らなければならない。事実とは別の、それぞれの尊厳や魂に関わる真実としての現実を。
蛇足だが、本書の主人公の口癖が「もちろん」であるとされていることはここにおいて興味深い。
村上春樹の特に初期の小説群においては、「やれやれ」という口癖に象徴される主人公のデタッチメント(無関心)の姿勢が、良くも悪くも特徴とされてきた。近年の作品を読み返す時間が取れなかったので断言はできないが、「もちろん」を口癖とするような主人公は初めてではないか。ここには、何かを積極的に選び取ろうとする、主体者としての主人公の姿が現れているように感じる。
なぜ、「耳を噛む」のか?
あなたは何を現実として選び取るのか?
本書の主人公の選択は、最終的に、壁の向こうの世界を抜け出ることだった。自身の存在に絶え間ない承認を与えてくれる、自らにとっての「善」に没頭できる、自身の魂の中だけにある世界に別れを告げる。影を持つ人、として。
この、ある時点における、暫定的な答えとしての意思表示は驚くほど平凡で、当たり前で、無意味だ。やっぱり自分の嫌なところとも、社会とも、ちゃんと向き合おう、というありふれた自己啓発本の結論と大して変わらないように思える。
だからここで問うべきなのは、主人公は、あるいは村上春期は、「なぜその選択をすることが可能になったのか?」という問いだ。
本書の中で、主人公は「イエロー・サブマリンの少年」と入れ代わることによって、壁の向こうの世界を抜け出たことが示唆される。少年が主人公の「耳を噛み」「ひとつになる」ことによって、夢読みという仕事を少年に委ねて。
どういうことだろう? なぜ、2人は元々「ひとつ」だったのだろう? なぜ、もう一度「一体になる」ことができるのだろう? そしてなぜそれは、少年が主人公の「耳を噛む」ことで起こったのだろう?
「イエロー・サブマリンの少年」は、自閉症かつサヴァン症候群であることが示唆されている。基本的に他者と言葉でコミュニケーションすることができない。本当に必要なときに、筆談をするのでも精一杯だ。そのかわり、生年月日から曜日を当てる特異な計算力と、あらゆる本を写真的に頭の中に記録する類稀な記憶力を有している。
こうした少年の特性は、もしかしたら、何の意味も持たないのかも知れない。このうちのいくつかが主人公との本質的な同一性を象徴するものなのかもしれないが、であってもそれが主人公とは別の少年に付与されていることの理屈は分からない。
おそらく、私ではない「誰か」との協働において、それ(一体化)がなされたということ自体に意味があるのではないか。自分ではない誰かと、折り合いをつけるということ。妥協ではなく、親密で真正な折り合いを。(その相手として、たまたま「イエロー・サブマリンの少年」の様々な特性が寄与した可能性はある。)
その折り合いには痛みを伴う。現実社会と、魂の世界の、双方で耳を噛まれる必要がある。その耳の腫れに、その痛みがもたらす眠れない夜に、耐え抜く必要がある。
村上春樹にとっての「耳」あるいは「耳たぶ」は、個人のアイデンティティの象徴だ。「羊をめぐる冒険」のヒロインを筆頭に、特に女性において、髪の下に隠された「耳」が個人の魅力を表現し、歴代の主人公たちはそれを特別なものとして愛してきた。ここにおいて「耳」は、個人の尊厳としての魂を象徴するものとしても解釈できるだろう。
その耳を噛まれ、腫れを抱えるというのは、単に身体的な痛みを超えて、自身の尊厳や固有性が、少なからず損なわれてしまうような事態であることを示している。
先に触れたように、本書においては明確にデタッチメントの姿勢から脱却し、主体的に何かを選び取る主人公の姿が強調されている(本書のラストは、自身の意思でろうそくの火を吹き消すシーンだ)。
そのとき、必然的に生まれる他者・社会との摩擦、その中で生まれる痛み。その象徴として、「イエロー・サブマリンの少年」による「耳を噛む」行為が必要だったのだろう。そう考えると、壁の向こうの世界のヒロインが作る薬が、この痛みに対して効力を発揮しなかったことは示唆的だ。
この本は誰に向けて書かれたのか?
もう少し違う角度からも考えてみたい。
「イエロー・サブマリンの少年」は、(文字通り)少年だ。自身の類い希な特性もあって高校に通えていないが、年齢は「16歳か17歳くらい」とある。
17歳、というのは本書の中で重要な年齢だ。第1章において「ぼく」が「きみ」と出会い・別れた年齢であり、第3章において、「私」が川を遡上し少しずつ過去の姿に戻っていく、その終着点の年齢でもある。(そして本作執筆時、村上春樹は71歳。)
失われてしまった、そして、忘れることのできない、離れることのできない、その後の人生を縛り続ける17歳のときの自分。壁の向こうの世界から抜け出る、という主人公の選択は、この「17歳の呪い」からの脱却でもある。そしてその脱却は、当時の自分と同い年ではあるが、決して自分そのものではない、「イエロー・サブマリンの少年」との入れ替わりによって実現する。
本書の背景には、「継承」という主題があることが著者自身によって既に示されている。
2018年には、自身に「子どもがいない」ことを踏まえ早稲田大学に資料を寄贈。その後「村上春樹ライブラリー」を設立するなど、「継承」という主題について本書刊行以前から様々な思考・実践があったことが伺われる。
主人公は、なぜ、壁の向こうの世界から抜け出るという選択が可能だったのか。
それは、「イエロー・サブマリンの少年」という他者に、自身の役割を継承することができたからである。あるいは、次代に継承する、という自身の新たな役割を定義することができたからである。
本書では、この結末に至るまでに様々な「継承」の形が描かれている。第1章で主人公が取り組む「夢読み」の仕事は誰かがかつて行ってきたものであるし、第2章での図書館長の仕事も、先代から引き継いだ(しかも極めて異例の形で)ものである。こうした様々な継承の流れ、歴史の中にいる自分自身を、1200枚に及ぶ物語の中で見いだした主人公だからこそ、「他者に委ねる」という選択を、意思を持って、行うことができたのだろう。
こうして読み解いていくと、本書に含まれるメッセージはあまりに単純で、率直に言って素朴にすぎるものにも思える。
・事実とは異なる、真実のありようの多様さに目を向けること。
・しかし私たちは、多様な真実から、何かを主体的に選び取らなければいけないということ。
・その作業には、他者と折り合いをつけるための痛みを伴うこと。
・ある人にとってそれは、自身の役割を後進に委ねることであること。少なくとも、その仕事を絶やすことなく、次代に継承するということ。
本書を読みながら僕はずっと、自分が小学生や中学生の頃にハリーポッターやダレンシャンのような物語に熱中していた頃と同じような気分を抱えていた。それ自体不思議な感覚であったし、今の時代にあらためて何らかの意味を持ち得る物語なのかどうか、正直いって疑問を抱く場面もあった。
今読み終えて思うことは、あまりに平易かつ明快な文章で、読者の想像力を最大限に引き出しながら、現実と非現実の混在した、単純で素朴なメッセージを内包する物語を紡ぐこの本が、しかしなぜ今書かれなければならなかったのか、と考えると、これは村上春樹なりの「児童書」として、次代への継承を願う子どもたちに向けて書かれたものではないか、と、個人的には強く納得している。
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