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デザイナーが自分の写真を考えた話

こんにちは!
Shingoです。


本職プロダクトデザイナーで、写真はアマチュアですがしばしばお仕事をいただいている者です。

デザインに関する観点や絵を描くことにおいてはプロ。写真はそこそこ。
まあざっくりそんな人間だと思ってください笑

デザインに携わって12年、写真を真面目に取り組むようになって5年が経ちました。(初めてのカメラを買ったのはデザインと同じく12年前)

こんな前置きをしたものの、実は今年で僕はデザイナーを卒業します。
そして現在Instagramでメインとしているポートレート活動からもフェードアウトしていく予定です。

https://www.instagram.com/shingo_aoki_pd/

https://www.behance.net/ayanox

大きな節目となるこのタイミングで一度僕の頭の中身をここで言語化したいと思い、今回はこれまで僕が携わってきたデザインと写真の世界について、パーソナルなこと・仕事的なことのそれぞれ側面に触れながらお話したいと思います。


デザインと写真双方において言えることは、いずれも世の中を俯瞰して豊かな知識を得ることの大切さを僕に教えてくれた世界だったということでした。

一体それらの何に魅力を感じたのか、今の人生にどのように活きているのか。

お仕事や趣味でデザイン業や写真活動を行っている方々に、この記事が何かの役に立てば幸いです。

…とか言いつつ所詮は自分語りなので、何卒お付き合いください笑


それでは始めますね!



デザイナーになった理由


僕は勉強が大嫌いでした。

正確には、生きていく上で役に立つとは思えないものに時間を割くことが嫌いでした。

算数は好きでした。
数を数えたり、長さを測ったりすることは生活する上で必要だったから。

理科は好きでした。
塩が水に溶けることは見て理解できたし、夜空を見上げれば習った星座が確かに並んでいたから。


数学が嫌いでした。
化学が嫌いでした。

それらの知識を大人になっても活かしている人はその手の「仕事」に就いている人達だけで、週末の買い物やキャンプを楽しむ為には全くと言っていいほどに必要が無いはずなのです。

中学受験を終えて、憧れの制服の袖に腕を通したまでは良かったものの、冷静になってみれば所謂エリート街道を進むことを正とする世界線に違和感を覚え始めた僕は学校の勉強をしなくなっていきました。

赤点や追試、補講にも慣れ始め、塾もサボって公園で時間を潰し、とにかく目の前にある嫌なものから逃げ続けることで精一杯。
よくよく考えてみれば、僕は科学者や物理工学設計士になりたいわけではなかったのです。

国公立一流大学を経た後の将来がそんな職種だけでないことはわかっていたものの、そのプロセスには僕にとってはあまりにも多くの無駄を含んでいるように思えて、一切の意義を感じることができなかったのでした。

両親との関係も険悪を極める中、転機が訪れたのは母親からの唐突な一言でした。

「あんた、本当は他にやりたいことがあるんと違うんか?」


クラフトペーパーに絵を描くことに何故か一度は憧れるのです


たくさん勉強をして、良い学校に通って、良い会社に就職して、安定した給料を稼ぐこと。

そればかりが正義だと教わってきた中で、自分が本当にやりたいことなんて考えたこともなかった…と言うよりも見て見ぬふりをしてきた僕は、その一言に耳を疑いました。


本当にいいのか?


とても怖かった。
自分の自由な意見を口にすることをしてこなかった僕にとって、それはとんでもない告白だったのです。

構造を読み解いたり考えたりするのが好きだった。
工業製品が好きだった。
絵を描くのが好きだった。

・・・プロダクトデザイナーになりたかった。

これが僕がデザインを志した始まりです。


芸大に通うには大変お金がかかるにも関わらず、散々迷惑をかけてきてしまった親が僕のやりたいことを後押ししてくれる。これにはとてつもない責任を感じたのでした。

通っていた中高一貫校は言わずと知れた関西でも有数の進学校だったのですが、そんな学校から芸大に行くなんてのはとんだ非常識だったのです。
進路希望の変更に対して、高校の担任教師からは「最大の親不孝だ」と罵られたりもしました。

「そんな環境で就職をしようと思うのなら、二番や三番じゃダメだ、大学で必ず一番になれ」

…そんな有名大手芸大出身の美術の先生からの約束を胸に刻み、技術も知識もゼロの状態から、ろくに友達を作ることもなければサークル活動に打ち込むこともなく、必死になって勉強した4年間。

僕は最終的に大学を首席で卒業して先生との約束を果たし、某メーカーのプロダクトデザイナーとして就職しました。

そしてデザインを学んでいく過程でこう思うようになっていったのです。

「世の中に自分が作った製品を残して、自分が生きた爪痕をこの世界に残したい」

なんと履歴書に書いたような「人の役に立ちたい」なんてのはこれっぽっちも思っていないエゴのかたまりだったのです!



デザインとアート


デザインという言葉は日本ではよく誤解されて捉えられがちなので、一度整理をしておきましょう。

Designという言葉を日本語に直訳すると「設計」になります。
この為、多くの日本人が思い浮かべる「デザイナー」と英語ネイティブの人が思い浮かべる「Designer」のイメージ像は異なるものだったりします。

「Designer」を和訳すれば設計者的な意味合いが強くなりますが、「Product Designer」や「Graphic Designer」などと具体的な内容を付け加えることで、やや日本人の思うデザイナーに近付きます。


デザインとは、明確な目的や顧客が存在するものに対する設計であり、自らの世界観を表現したり自己顕示を行うものではありません。後者のような活動を行う人のことは「アーティスト」と表現します。


デザインとアートは、共通する要素を含みつつも、全く逆方向のベクトルを持つ対極的な存在です。

それぞれを端的な言葉で表現すれば、
デザインは「=問題解決」であり、アートは「=問題提起」となります。

お手元のスマートフォンは、ありとあらゆる不便を解消する問題解決方法として亡き某氏が考案した究極のデザインです。

学生の頃に描いていたイラスト


優れたデザインは、その目的に対して最も効率的な手段であり、丈夫で長持ちであるほどに経済的で環境負荷が少なく、動植物の造形を人間が本能的に美しいと感じるようにそれらを参考にした自然の摂理に則る造形にもまた合理的な美しさを感じることができます。(残念ながら、世の自称デザイナー全てがこれらの概念を理解しているわけではないのですが…)


実は写真の世界にもデザインとアートの概念は存在します。

・デザイン的な写真
・アート的な写真

この二つでは考え方や捉え方が大きく異なるのですが、これについては後述しましょう。



デザイナー視点の写真


文明の中で生きていく上で、デザインの存在は僕たちの生活に大きく関わっており、切っても切り離せない存在です。

自然は合理性の集合体であり、人工物のほとんどはそれらを模倣したり応用して作られています。

なぜ、何のために、どのように、それが在るのか。

デザインについて興味を持つと、常日頃から様々なことを考察する癖がついていきます。

写真を撮り始めるようになったら、何気ない日常の風景やちょっとした光の入り方が気になりだす人が多いですよね?
まさにそれと同じことです。


デザインの世界で養われるバランス感覚は写真における構図力に活きてきます。
なぜその一枚の写真は構図として美しいのか、理に適っているのかを物理的な感覚で説明することができるのです。

ファインダーを覗き込んで切り取られる額縁の中は自由なキャンバス。
この中に目の前の風景や人物をモチーフとして任意に並べて画をデザインする。

視線誘導だ、三分割だなんてのは知ったこっちゃありません。そんなものは後付がましい無理矢理な正当化です。

そんなことを意識して作られた動植物や自然現象は存在しないのです。

元々絵を描くのが好きだった僕にとって、仲間さえできてしまえば写真の面白さに気付いてのめり込むまでには時間のかかることではありませんでした。

写真は3:2の世界をデザインするパズルだ、そんな感覚が楽しかったのです。ただ、これは僕にとっての取っ掛かりであっただけで、今はまた違う考えを抱いています。


「仕事」か、「私事」か


好きなことを仕事にするべきかどうかについては様々な意見があると思いますが、これに対する僕の回答は「好きなことを仕事にするべき。ただし、副業も含めて十分な収入があることが前提。」です。

デザイナーという仕事は、中身が「私事」になって楽しいと思えることがやり甲斐に繋がっています。
これがただの「仕事」になっていくと、デザインは収入を得る為の手段に過ぎず、収入を得るという目的が果たせるならば手段はどうでもよくなっていきます。

逆に言えば「私事」となったものは、収入に関係なくずっと続けていきたいと思うことでしょう。

経済の中で生きていくというのは実に「仕事」と「私事」の絶妙なバランスが大切なものですね。

僕がデザインを「私事」として捉えていたのは
「世の中に自分が作った製品を残して、自分が生きた爪痕をこの世界に残したい」
という思いがあったからでした。

自分の手で生み出した造形が自分で設計した塗装色を纏って、
大きな工場で多くの作業者の手によって大量生産され、
プロモーション映像が製作され、
店頭に並び、
YouTuberが紹介し、
Amazonレビューが書き込まれ、
実際にユーザーが使っている現場を目の当たりにして…

時には某国メーカーの模倣品までもが登場することもありました笑(あかんやつです)

描いたスケッチやパテを削り上げて作ったモデルがこれほどにまでたくさんの人に影響を与えるのかと、製品をデザインするということの規模の大きさを強く実感したものです。

しかし、ある程度の数の製品を世の中に送り出してしまえば、当初の目的は達成されてしまった僕としては、あくまでも自分の所有物ではないメーカーのブランドを背負ってその世界を極めていきたいとは思えなかったのです。(きっとこういう自己中なところがサラリーマンに向いていないんだと思います笑)

そんな最中、写真の楽しさに気付き始めた僕は「私事」としての興味の先が次第に変化していきます。

写真にはマスプロダクションと決定的に異なる側面、ホビーとして向き合える領域が多くあったのです。

やがて僕の中では全てデザインが占めていた「仕事」も「私事」も、デザインが「仕事」で写真が「私事」としてはっきりと区別されるようになっていきました。

皆さんにとって、今興味を持っているものは
「仕事」でしょうか?
「私事」でしょうか?
それとも双方を兼ねるものでしょうか?

それらのバランスはとれていますか?
そして、ゴールは何ですか?


カメラマンと写真家


何のために写真を撮るのか、多くの方にとってもこれは永遠のテーマとなることでしょう。

冒頭でお伝えしたように写真にもデザインとアートの世界が存在し、写真を撮る目的を考える上でこれらを混同しないようにしなければいけません。

わかりやすく言い換えれば、
・カメラマンになりたいのか
・写真家になりたいのか

をしっかりと区別しておく必要があります。


クライアントの要求に応えるカメラマンが撮るのはデザイン的な写真です。顧客の目的に最も相応しいソリューションとしての写真を提供することがカメラマンの責務です。ソリューションである以上、誰が見ても納得のいく正解である必要があります。

対して、自分の視点や視野・パーソナリティーを表現する術として用いられるのがアート的な写真であり、それらを撮る人々が写真家です。写真家への撮影依頼は依頼主がその写真家の独自の視点に共感することで成り立っています。
「誰がどう思おうと知ったことはない、自分はこう思うんだぜ!」という発信に正解は不要です。

趣味で写真を撮る人々の界隈で「こうでなければならない」と断定したり「これは〇〇構図、これは〇〇構図」などとカテゴライズするような議論をするのは不毛なことです。正解なんて無いのだから。

カメラマンの仕事として写真を取り扱う時に初めて究極の解答を求める必要が出てくるのです。

写真を撮る立場や目的によって適切な機材やデータの扱い方は異なります。情報を発信する側も、どこに土俵を据えた話をしているのかを自覚する必要があります。

実際、この土台が無いままにモノを語るインフルエンサーは多く、無駄な論争や混乱を生んでいることを度々目の当たりにします。

手振れはダメだ
白飛びはダメだ
RAWで撮るならアンダーにしろ
一番高い機材を買え

…本当に全てに於いて正しいのでしょうか?

巷に蔓延る様々なノウハウが、どの世界の写真の目的に対して論じられているものなのかを俯瞰することができれば、それらに惑わされることはありません。人それぞれの異なる目的に対するベターやベストに近付けるかどうかが唯一の判断基準です。


そしてカメラマンと写真家、この二つで写真に対する接し方を変えることは絶対に大切です。

人と意見の不一致があった時、「この人はどちら側からの見方をしているのだろう?」と冷静になってあげてください。
その瞬間に、あなたがきっと一枚上手です。

ちなみに僕はデザイン畑の頭を持ったフォトグラファーです。「私事」として写真に向き合う以上は写真家アーティストとしてシャッターを切るのですが、その中に無意識下にデザイン的な解を求めてしまう癖が出るのが職業病であり、僕の深刻な悩みだったりもします笑

だからこそ、敢えて不便なカメラを使って制約を設けることで強制的に諦めざるを得ない状況を作る試みなんかをしていたりするのですが、それはまた別の話…


僕にとっての写真


先述のように一重に写真と言っても、その捉え方は人によって様々なので、あくまでもここでは「僕にとっての写真」の考えについて触れさせてください。

誤解を恐れずに言えば、僕はこれ以上写真が上手くなりたいとは思っていません。

ただ、極めたい。


上手や下手なんていうのは所詮スキルの話です。技術的スキルが求められる世界ではこの良し悪しが評価の基準となるので、僕も必要であれば是非とも磨き上げていきたいとは思っています。(お仕事ください!!笑)

でも本当は僕が写真家として撮りたい写真にはスキルなんて必要ではないことを随分と前から気付いていました。


写真が発明されたのは、ある科学者が偶然の化学反応に気付いたことがきっかけになっていますが、今日まで写真が撮られてきた目的の本質は「記録」だと考えています。それ以上でも以下でもありません。

「写真を極める」を言い換えれば「記録を極める」と捉えることもできます。

それでは何の記録をするのか?

それは僕の視界です。
即ち僕自身の生きる軌跡です。

病める日も、健やかなる日も、飾らない記録を残したい。ただそれだけをひたすらに続けたい。

何を当たり前なことを言っているのか、なんて石でも飛んできそうですが。そんなこと言ったら全部記録じゃないか、なんて。


多くの場合、「今だ!」とか「好きだ!」とか、理想の瞬間を切り取る行為は「それにはそうであって欲しい」という強いバイアスがかかっています。無論、それらも尊い記録であることに違いありません。

しかしその願いにすら似たバイアスを含む写真には良くも悪くも不自然さを孕むのです。この観点で見れば、これまでに様々なジャンルの写真を撮ってきましたが、僕が納得のいく写真はいずれにしても撮れないのでした。

作品的なポートレートや風景写真には強いバイアスがかかり、物撮りは狙いを絞れば誰が撮っても同じ結果になる。これらを否定するつもりはなく、それぞれに異なる奥深さと価値観があり、いずれも外ならぬ魅力に溢れています。それはわかっています。アートして描かれる写真はフィクションであって然るべきで、それこそが醍醐味でもあります。

でも、僕が残したい軌跡にはフェイクもフィクションも要らないのです。

それらを含むものの隣に仮にリアルが並んでしまった時、絶対的に勝つことができないから。

僕はフィルムライクに味付けされた写真を本当のフィルム写真の隣に並べてしまうととてもチープなものに見えてしまうと考えています。それと似たようなことかもしれません。

あくまでも僕自身の軌跡の残すときに、どのようにシャッターを切るのだろうか?

わかりやすくカテゴライズされた言葉で敢えて平たく表現するならば、この答えは

ポトレとスナップのあいだ

の中にあるはずだ…と今は考えています。
何でここにポトレがあるのかって、それはやっぱり孤独は辛いから笑
スナップも当然、ありとあらゆるバイアスを外していく。

こうして残す記録としての写真は現物と対比されることのない、唯一無二の存在として昇華することができる。それも僕の目を通した一つのリアルだから。

仮に僕自身が納得のいく写真が撮れたとして、それに何の価値があるのかは全くわかりません。誰に見られることもなく、ひっそりと忘れ去られていくだけかもしれません。

もしも評価される時が来るとすれば、きっと僕が誰かに大切に想われたり、評価されたりするような人になっている時だろうと思ったりします。

この世界に爪痕を残す、なんて野蛮なことはもう言わない。
最期の時に一際輝く誰かの星であらんと、今を大切に生きていくだけです。

自分の人生くらい自分でデザインしたいものですね。
腐ってもデザイナーなのだから。

僕にとっての写真は、いつか思い描いた未来の自分に向けたタイムカプセルです。


最後に


デザイナーを辞める意向は元々は自発的なものでは無く、企業の中でデザイン業を行うことに対して消極的になっていった僕の気持ちが発端ではありますが、最終的には別の機会が与えられた、という流れになっています。

やっぱり当初はものすごく悩みました。
あれだけ両親に世話をかけて、あれだけ苦労して、自分は何をやっているんだろうと。

でも、今の僕が持つ視野や視座はデザインを続けてきたからこそ築き上げることができたものに他なりません。
写真に対する考え方にアイデンティティを確立することができているのもデザインを学んできたことが礎になっています。

デザインと写真、両者無くして今の僕は存在しなかったのです。


写真が大好きな皆さんにとって、写真はどのような存在ですか?
デザインを志す皆さんにとって、その心はどこにありますか?

お会いできることがあれば、また皆さんのそんなお話もお聞かせください。
そして写真の場でご一緒できるならば、この業界を盛り上げていきましょう!


拙い文章ではありましたが、最後までご精読いただいた皆さん、ありがとうございました。

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