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掌編小説『ニューノーマル・オータム』

2021年7月発売の椎名寅生著『ニューノーマル・サマー』の後日譚、『ニューノーマル・オータム』を特別公開いたします。しおみんとサリエロ、劇団不死隊のメンバーたちのコロナ禍での青春の続き、ある秋の日の出来事をお楽しみください。
※以下の掌編小説は好評発売中の『ニューノーマル・サマー』をお読みいただいてからの方がより楽しめる内容となっておりますが、先に掌編小説をお読みいただいても、深刻なネタバレなどはありませんのでご安心ください。


「だから、秋になるとベレー帽かぶる女と、自分でタルト焼いたのをSNSでアピる女が嫌いだって、わたしもう何度もお伝えしましたよね」
 最後列の端の席に腰を下ろすなり、サリエロがそう口にして、
「ああ、『女が嫌う女――美木沙里英みきさりえさんの独断と偏見を添えて――』のヴァリエーションが豊富すぎていちいち覚えていないが聞いた気がするな」
 と、ペアチケットで入ったその女の前を横切ってとなりの席に腰を下ろし、俺は応える。
 サリエロの視線の先、最前列の左端の席に、ボルドーのベレー帽をかぶった若い女の後姿が見える。
「SNS映えするホームメイドなおしゃかわタルトどころかホットプレートでホットケーキを焼くのすら誰かさんは失敗してたからな」
「わたし、パンケーキとかではしゃぐ女も嫌いです」
 店で食ったカレーやラーメンの写真をしょっちゅう載せる自分のことは棚に上げて言い、
「あと、ホットケーキ失敗したのは酒が入ってて手元が怪しかったから。素面しらふならさすがにホットケーキくらい焼ける」
 いつだったか同じ劇団メンバーのヒロさんちで飲んだとき、ボウルに入ったホットケーキのタネを畳に盛大にこぼして後始末の大変さに大ヒンシュクを買った一夜について十九歳女子が言い訳をし、俺はそれを聞き流す。
 ベレー帽の女も俺達と同じ二人連れだった。若い女ふたりで並んで席にかけている。ふたりとも大学生くらいという、そこも俺達と同じだった。
 客席や座席といっても、舞台を見下ろす形で階段状に段差が作られていて、その各段にパイプ椅子が並んでいるだけだった。
 椅子と椅子の間は一応、五十センチくらい離してあるが、ソーシャルディスタンスとは言い難い。それでもまあ、コロナ以前は隣の客と袖が触れ合うほど椅子を並べて配置していたのだから、それなりに考えて対策をしているのだとはいえる。
 だから本来は百五十人程度が定員だろう客席も、きょうは百人入れるかどうかくらいだと思われたが、
「ガラガラじゃん」
 こんな早く来る必要なかったとでもいうように、椅子の座面に用意されていたパンフをぱらぱらめくって眺めだしながらサリエロ――俺と同じ劇団に所属している美木沙里英が言う。
「開演するころには、もう少し来るだろ」
 現地集合でこの劇場の受付前でサリエロと待ち合わせて、俺が劇場に着いたのが開場して五分後くらいのタイミングだった。開演の十五時まであと二十分。十月下旬の金曜日。
 たしかに、客席はまだガラガラだった。両手の指で数えられるくらいしか客がいない。
「こういうの見ると、うちの芝居ってまだ結構チケット売れてるほうなんだなって思わない?」
「上を見ればきりがないが、下にもまあそれなりにな」
 多少の同情をこめて――サリエロの口調からもそれはわずかに感じ取れる――俺達は会話をかわす。もうすっかり日常のアイテムと化した不織布マスクごしに。
「つか、こんな劇団あったんだ」
「去年、旗揚げしたばっかだからな」
 同じ小劇場界隈で芝居しているとはいっても無名すぎる新参の劇団なのでサリエロが知らないのも無理はない。小さな劇団なんて、始終新しいところが生まれては、いつのまにか消えていく。
「おまけにきょうのは、二人芝居だからな」
 もともとは女五人、男三人くらいの役者がいる劇団みたいだが、コロナを意識してかそうでないのか、きょうはそのなかの役者二人だけで芝居するらしい。
 出演する役者が少なければ見に来てくれる知人友人の数も自然減る。ただでさえ、コロナで客足は鈍くなっている。贔屓の役者や劇団の芝居であればそれでもまあ演劇好きは感染拡大下であろうと劇場へ足を運ぶが、無名の小劇団の芝居となればこの時期の外出は控えようと二の足を踏む者も多い。
 無名・コロナ禍・二人芝居の三連コンボが見事に決まって、今回はこのガラガラ具合というわけだった。
 俺に誘われて一応はきょうこの場に来たサリエロも、だがこれから見る芝居にほとんど何の期待もしていない様子なのは、レザーのハーフパンツにショートブーツの細い脚を組んで椅子に座り、コンビニでコピーして作ったレベルの白黒印刷のぺらぺらのパンフを大して興味なさげにめくる表情からも明らかだった。
「勉学に励む気が毛頭ない大学生ってよほどヒマなんですね。平日の昼間にわざわざこんなの見に来る気になるとか」
 お馴染みの蜂蜜色の長い髪を背中に流し、薄手の長袖にニットビスチェを重ねた恰好の十九歳フリーター女子が、五ページくらいしかないパンフに大量に挟み込まれている他劇団の公演のチラシやフライヤーを眺めつつ、いつもの嫌味を寄越してくる。
「なにせ、俺の『推し』の初主演作だからな」
 依然として単位の取得状況は厳しい二十一歳大学三年生の俺が平然と応えると、
「スパチャありがとうございます♪」
 動画生配信する地下アイドルか三流グラドルのモノマネをしながらサリエロが鼻で笑う。
「普通の芝居じゃ推しに貢げないから残念ですね」
「コロナで差し入れも禁止だしな」
 大学の演劇サークルとかだとチケット代は無料でそのかわりに投げ銭システムやカンパ制をとっている場合もよくあるが、きょうのは学生の公演ではなく普通にチケットを購入するタイプの芝居だった。
 まあチケットが全然売れてないだろうというのはSNSでの事前告知やなんやからも予想がついたので、微力ながら推しを支援する意味で同じ劇団メンバーのコンタを強引に誘ってペアチケットを予約したのだが、そのコンタが急に来られなくなってしまい、それで仕方なく代わりにサリエロを誘ったと、そういうわけだった。一緒に芝居を観るのに愉快な同伴者とは決して言い難い女だが、劇団メンバー七人全員に当日のきょう、つい二時間前に声をかけて、予定が空いていたのが、こいつしかいなかった。
「コンタ、二回目打ったの一昨日でしょ。まだ寝込んでんの。わたし、打った次の日の夜にはもう平気だったけど」
「一昨日の夜だからな。熱はもうほとんど下がったがまだ本調子じゃないみたいでな。副反応舐めてて解熱剤とかもまったく用意してなかったらしい」
「バカじゃん」
 俺もサリエロも、すでにワクチン二回接種済みだった。他のメンバーも皆もう二回目の接種を終えていて、あとはコンタひとりを残すのみとなっていたのだが、ともあれ、これで二週間後には我が劇団不死隊も晴れてメンバー全員が抗体持ちとなる。
「ヒロさん、きょうなにしてんの」
「最近毎日、駅前の卓球場に通って逆チキータの特訓に励んでるらしい」
 それなりにバイトが忙しいわたしより失業中のあのひとのほうが絶対ヒマでしょというニュアンスでたずねてくるサリエロに、最年長メンバー二十八歳の近況を教える。
「オリンピック、盛り上がりましたからね」
「まさか卓球で中国に勝つとは思わなかったからな」
 様々な批判や議論を呼んだその東京オリンピックも、終わってもう二ヵ月以上が経つ。月日が流れるのは早い。
 そしてもちろん、どれだけヒロさんが卓球の練習を頑張ったところで、芝居に活かせる部分は一ミリもない。
 でもいまは稽古も公演の準備も何もない谷間の期間なので、メンバー同士が会う機会も少ないし、うるさく言う人間はいない。
 きょうこうやってサリエロと顔を合わせたのも、一月ぶりくらいのことだった。
「で、どっちがあんたの推し?」
 適当に皆の近況を話したあと、これから見る二人芝居に話を戻し、出演者の名前や役柄が書かれたパンフをひざの上に開きながらサリエロが訊く。
「しおり役のそれいゆちゃんのほうだ」
 山村しおり役――三島それいゆ。本名なのかステージネームなのかは知らない。
 もうひとりの岡田まみ役の夏目あちゃこというのがわりとふざけ気味の名前なので、それいゆも芸名かもしれない。
「ちなみに、浜ちゃんもそれいゆ推しだ」
 メンバーのなかで一番研究熱心で、普段からできるかぎり色々な劇団の公演に足を運んでいる浜ちゃんに誘われて、この『劇団☆電気料金』の前々回公演を二人で観に行ったのが、俺が彼等を知ることになったきっかけだった。
 浜ちゃんは客演で呼ばれている他所の劇団の芝居がもうすぐ初日で、稽古が大詰めに入っていて忙しく、今回のこの公演は見に来られそうにない。
「客演のやつ、浜ちゃん、どんな役なの」
「うっかりまちがえてワクチンを五回打った男の役らしい」
「そんなうっかり、ある?」
 ないだろう。
 だがまあ、そういう芝居らしい。
「ワクチンをたてつづけに五回打つ男はいないけど――でも、いますよね、大して可愛くないけど男受けのいい女って」
 俺の推し、三島それいゆのほうに話を戻し、ぺらぺらのパンフには名前だけで写真なんかは一つも載ってないのに、勝手に決めつけてサリエロが鼻で笑うように言う。それなりに可愛いかったりビジュアルが良ければ界隈で多少なりとも話題になっていくらなんでももう少しくらいは客が入ってるはずだという推測から言っているに違いない。
「役者は顔だけじゃないからな」
「そんなのわかってますけど」
 釈迦しゃかに説法とでもいうように、我らが劇団不死隊の自称・美少女看板女優。
「上手いの?」
 サリエロが訊く。もちろん、演技力の話である。
「まあ下手ではない――というか、回を重ねるごとに徐々に上手くなってるって感じだな」
 だからこそ推し甲斐があるという俺の言葉に、
「ふーん」
 わたしは伸びしろなんて項目は評価しないので、じゃあ大して興味ありませんという態度でサリエロは気のない声を返し、
「――高校二年生のまみは火山の噴火口への飛び込み自殺を計画し、同じクラスの友人であるしおりにその付き添いを頼む。そして、まみとしおりは計画当日、火山の登山道をふたりで登っていく……まみは火口に身を投げて己の命を絶つために、しおりはたったひとりそれを見届けるために――」
 パンフに書かれているきょうの芝居、『旅のしおり』の簡単なあらすじをサリエロが読み上げる。
「実際にあった事件が元になってる話らしい」
「へえ」
 昭和初期に女学生二人が三原山の火口で心中を図り、一人は死に、一人は生きて帰ってきた。そして生き残ったほうはさらにその後にもうひとり、友人の女学生をまったく同じ火口での心中に誘う。そして友人は死に、また彼女だけが生きて帰ってきた――。
 当時はかなり新聞沙汰にもなった事件らしいが、きょうはその事件をかなり単純化して、舞台を現代に置き換えた二人芝居にするつもりのようだ。
 最前列左端、ベレー帽の若い女のとなり、長い黒髪の若い女が、へっくしょい、と大きなくしゃみをひとつする。近くの席の別の客が一瞬ちらりとそちらを見る。このご時世、屋内や電車内でのくしゃみや咳には皆それなりに敏感に反応する。劇場内はマスク必須なので、客もスタッフも当然全員マスクをつけてはいるわけだが。
 客席に入ってきて、サリエロが迷わず最後列の席を選んだのも、そこを多少なりとも意識してのことかと思われた。最後列とはいっても、後ろには音響や照明の機材があり、それらのオペレーションをするスタッフがいるので、誰もいないわけではないのだが。
 客席の左手の細い窓が開いているのも換気のためだった。芝居が始まるときには窓を閉めて暗幕を引くのだろう。この劇場は繁華街に建つ年季の入った小さなビルの五階にある。受付は四階にあり、そこから外階段を上ってこの五階の客席に入る。
 スマホをいじったりしているうちに開演まであと三分になった。席は二割くらいしか埋まっていない。結果的に、奇しくもソーシャルディスタンスになっている。
 劇場の規模そのままに小さな舞台の上には、セットや大道具らしきものもほとんどなく、唯一、舞台中央奥に、火山の火口を模したと思われる、溶岩が冷えて固まったような、灰色のごつごつした一段高い場所が作ってあった。
 開演時間になった。客はさっきからほとんど増えていない。知り合いも見当たらない。
 客席脇の通路から主宰の若い男が前に出てきて、挨拶を始めた。本日はこのような時勢にもかかわらずご来場いただき誠にありがとうございますというような、コロナ以降はもうすっかりおなじみになった前口上だった。コロナ以前は、開演に先立って劇団の主宰や代表がわざわざ前に出てきて挨拶を始めるというような無粋な真似はほとんど見られなかったものだが。しかしもう今は、今回の上演にあたり劇場内の感染症対策はこれこれこのようにしっかりやっていると説明した上で始めるのが、特に小劇場においては一種の礼儀作法となっているためそれも仕方ない。
 挨拶を終えると、一礼した主宰がそのまま窓を閉めに行き、暗幕を引く。そしてまた客席脇に下がる。
 芝居が始まるという予感が客席に充ちる。
 誰もいない舞台や、役者がこれから出てくるだろう舞台袖に、客席の視線が注がれる。
 そのとき、客席最前列の若い女ふたりが、すっと椅子から立つ。
 ベレー帽をかぶった女と、長い黒髪の女が、ロングカーディガンを脱ぎ、セーラー服姿になるとマスクを外し、ふたり揃って舞台に上がる。同時に、客席が暗くなり――となりのサリエロの「ふーん」という表情も溶暗する――舞台上が夕焼けの色の照明に浮かび上がる。


まみ  だいぶ日が暮れてきたな。
しおり うん。火口見物して山頂から下りてくるひととしかもうすれ違わなくなったね。
まみ  登っていくのは、あたしたちだけ。
しおり そしてわたしは、ひとりでここをまた下りていくことになる。
まみ (しばらく無言)悪かったな、おまえをこんなことに付き合わせちまって。
しおり ううん、べつにいいよ。わたし、ただの付き添いだし。
まみ  かすみのヤツ、最初はノリノリであたしも一緒に死ぬとか息巻いてたのに土壇場になったらビビって仮病なんか使いやがって。
しおり(黙って微笑)かすみちゃん、エキセントリック気取ってるけど、結局普通の子だからね。
まみ  おまえが午後の授業さぼってついてきてくれて助かったよ。
しおり 体育、嫌いだから、わたし。
まみ  人生最後の、死出の旅路が独りってのもなんか辛気臭えからさ。ほんと、ついてきてくれてサンキュな。あたしが死んだらこのベレー帽、おまえにやるよ。
しおり いらない。あの携帯できるちっちゃなヘアアイロンならもらう。
まみ  ははっ。いいよ、やるやる。もう駅のホームで鏡みながら髪にコテ当てることもねえからさ、あたしは。
しおり(しばらく無言)……まみちゃん、ほんとに死ぬの?
まみ  ああ、死ぬよ。学校もクソ、この世界もクソ、おまけにうちは親もクソ。生きててもしゃあねえわ。だから死ぬ。
しおり ……そう。
まみ  さ、ちょっとペース上げてこうぜ。完全に陽が沈む前に火口に着きてえからさ。
しおり そうだね、わたしもMステまでには家に帰りたいし。きょう、キンプリ出るから。
まみ (笑う)録画して見りゃいいだろ。スマホでも見れるし。
しおり まあそうだけど。でもやっぱり、推しの生放送だから。推しはさ、ちゃんとリアルタイムで家のテレビで見たいんだよね。トトロやラピュタだってDVDでいつでも見られるけど、金曜ロードショーでリアルタイムで見るとなんか楽しいじゃない? それといっしょ。 
まみ  金ローのジブリは毎年やってっけど、あたしの自殺ショーはきょう一回きりだぜ。
しおり(押し黙る)友達の自殺ショーなんて一回だけでいい。人生で、一度だけで。
まみ (無言)

 まみとしおり、登山道を登っていくような歩き方で舞台の上手と下手をゆっくり往復しながら会話を続ける。

しおり そういえばまみちゃん、進路調査票、出した?
まみ  ああ、出したよ、昨日。担任アイツがうるせえからさ。まだ出してないのはおまえだけだっつって。
しおり 何て書いたの。第一から第三志望。
まみ  第一志望 メンタリスト
    第二志望 メダリスト
    第三志望 聖火ランナー
しおり 絶対怒られるやつじゃん、「まじめに書け」って。
まみ  怒られた。あたし明日火口に飛び込んで死ぬから進路や将来なんて考えてねえしとも言えないから黙って怒られてたよ。
しおり(微笑)でもあのオリンピックの開会式の大坂なおみみたいだよね、いまのわたしたちって、ちょっと。
まみ  高いところにのぼっていって、てっぺんの花開いた球体メカ内部なかに聖火を灯す。
しおり まみちゃんは火山に登って、火口に自身の命を投げ入れる。
まみ (しばし無言)しおりは何て書いたんだ、進路調査票。
しおり 第一志望 ショーダンサー
    第二志望 ポールダンサー
    第三志望 ラノベ作家
まみ  おまえもそれ怒られるやつだろ、「ふざけてんのか」って。つか、しおり運動神経ゼロじゃねえか。なのにダンサーとか。
しおり 人前でセクシーに踊るっていうのに、なんかわたし、憧れがあるんだよね。堂々と、自信を持って、お客さんの前で踊る――自分にないものだから憧れるっていうか。
まみ  いや、そういう儚い憧れを書く紙じゃねえから、あれ。
しおり だって、うち貧乏だから大学に行くお金なんてないし。
まみ  奨学金とかあるだろ。
しおり あるけど、別にそこまでして進学したいわけでもないし。
まみ (何気ない風を装い)じゃあ、死ぬか。あたしと一緒に。
しおり(まみの顔を一瞬見る。それから、はっきりと)ううん、死なない。 
まみ  ――そっか。
しおり うん、わたしは死なないよ。推しがいるうちは。
まみ (笑う)あたしは推しとかそういうのいねえからなー。
しおり 推しがいるあいだはっていうのはまあ半分冗談だけど、わたしは死ぬまでは生きるつもり。たしかにこの世界はクソだし、未来なんて明るくないだろうけど、あっというまにJKじゃなくなって、パン工場とかクリーニング屋で働いているうちにすぐおばさんになって、おばあさんになって、最後干からびて死ぬまで、わたしはこの世界がもっとひどい、どんなクソみたいな場所になっていくのか、それを全部見届ける。
まみ  世界に出禁くらうまで、か。
しおり(足を止め、山腹から地上を見下ろすように客席を見つめて)自分が人前でセクシーに踊ることは人生で一度もなくても、誰かが次々に舞台に上がって何か踊るのを――奇怪でいびつで醜悪で破廉恥なパフォーマンスを――じっと、ずっと見続ける。凝視して、監視して、観察し、鑑賞し続ける。

 まみとしおり、再び歩き始める。そして、舞台中央奥の一段高くなった火口の淵に上がる。ふたりが上がると同時に、夕暮れ色の照明が夜の色に変わり、中央奥、客席から見えない位置、火口の底を想定したフットライトが点いてその炎の色の照明にふたりは足下から照らされる。

しおり 着いたね。
まみ  ああ。
しおり ここが、火山の火口――。
まみ (淵に立って客席に半分背を向ける恰好で火口をのぞきこみ)落ちたら一巻の終わりって感じだな。
しおり(同じようにのぞきこみ)肌が熱い。溶岩の、マグマの熱が、淵に立っただけでもここまでこんなに――。
まみ  あたしの死に場所としては不足ねえよ。
しおり(無言)
まみ (無言のしおりを少し見て)天国って、どんなとこだろうな。
しおり ラグジュアリースパみたいな感じじゃない?
まみ (笑う)じゃあ、地獄は。
しおり オンライン修学旅行で京都の寺の動画、延々見させられるやつ。
まみ  ははっ。あれ、マジふざけんなって思ったよな。
しおり つまらないとか眠い以前に、なんか愚弄されてる気がした。いくら公立の三流高校だからって、おとなたちってわたしたちにこういうことするんだって。
まみ  あれ決めたヤツ、全員地獄行きだな。――まあ、あたしも今から地獄落ちだけど。
しおり(気休めに過ぎないとわかっていながらやや力なく、それでも首を横に振り)まみちゃんは地獄になんか落ちないよ。ちゃんと天国に行けるよ。ラグジュアリースパみたいな天国で高級エステ受けて、何の心配も、何の不安も、乱暴なお父さんにも誰にも脅かされることなく、ずっと気持よく、安らかに過ごせるよ、きっと――。
まみ  しおり……。
しおり(ふたりともしばし沈黙。そのあと、敢えて軽い調子で)まみちゃんが善行積んでるとこなんて一度も見たことないけど、たぶん大丈夫だよ。ネコ、飼ってるし。
まみ (笑う)しおりは、なんであたしと友達になろうと思ったんだ? おまえみたいなヤツが、なんであたしなんかと。
しおり まみちゃんとまだちゃんと話したことがなかった一学期の最初の頃、まみちゃんが堂々と遅刻してきた日があった。数学の授業中、九時半くらいにガラッて教室のうしろのドアから入ってきて。黒のラムスキンでチェーンのストラップの、教科書どころかお弁当も入らないようなちっちゃなブランド物のポーチだけセーラー服の肩にひっかけた恰好で。それがかっこよかった。
まみ (無言)
しおり あの日から、まみちゃんはわたしの推しになった。クラスの他の子とか、バカな男子のことなんかどうでもよくなった。推しのことをもっと知りたい、もっと近づきたいって思うのは、ファンとして当然の心理でしょ?
まみ  推しの最後を、卒業コンサートや引退試合をちゃんと応援して見届けて送り出したいってのも、それと同じか――。
しおり ――そう。

 ふたり、しばし考え深げに火口を見下ろす。

まみ (世間話をするくらいの感じで)しおり、きょうはついてきてくれてありがとな。
しおり うん、もっと感謝してくれていいよ。バレたら自殺幇助ほうじょの罪に問われるのも辞さない覚悟で来たんだし。
まみ  かすみがバラさねえかな。
しおり 大丈夫だよ。わたし、かすみちゃんの弱み握ってるから。――絶対にかすみちゃんがわたしを売ったりしないようなやつ。
まみ  ……おまえ、ときどきサイコパスなところあるよな。
しおり それ、失礼だよ、まみちゃん。
まみ  まあいいや。どうなったって全部あたしの死んだあとのことだしな。
しおり 無責任。
まみ  連絡船に乗る前に丸亀製麺で食った釜揚げうどん、うまかったな。
しおり かしわ天も揚げたてでおいしかったね。
まみ  それからミスド、テイクアウトして。
しおり 船の上でたべたエンゼルフレンチ、おいしかった。
まみ  船で話しかけてきたハゲのオッサン、マジでキモくて意味不明だったよな。
しおり「お嬢ちゃんたち、アオハルだねぇ」
まみ  あとさ、島に着いたとき――
しおり(話を遮って)まみちゃん。
まみ  ん?
しおり うん、そろそろ……。(それとなく急かすように、火口を目で示す)
まみ  お、おう。
しおり そろそろ急がないと、連絡船の最終便、出ちゃうから……。
まみ  あ、ああ、そうだな――。

 まみ、火口の淵ぎりぎりの端に立つ。あらためて火口の底を見下ろし、ごくりと唾を飲み込む。

まみ  じゃあ、行くか――。
しおり(まみの斜め後ろに立ち)大丈夫? ひとりで跳べる? 
まみ  ああ――。

 まみ、黙って火口を見下ろしたまま動かず、しばらく経過。

しおり まみちゃん、ほんとに大丈夫? ふんぎりつかなさそうだったら、わたしが背中押してあげようか……?
まみ  いやいや。いい。いいって。自分で跳べる。自分でやる。つうか、自分のタイミングで行きてえし。
しおり ほんと? ほんとに大丈夫? 大丈夫だよ、わたし押すよ?
まみ (ちょっと慌てて)いや、押すな。(肩越しに振り返りながら念を押す)――おい、マジで押すなよ? 絶対押すなよ? おまえ、ちょっとサイコパスみあるからマジで押しかねないから……。――いいな、押すなよ? 絶対押すなよ? 勝手に押すんじゃねえぞ? まちがっても押したりすんじゃねえぞ?(くどいくらいに念を押し、無言でうなずき返すしおりを確認してから、火口に向き直る)ふう……。よし、いくか――(呼吸を整え、いざ跳ぶ心の準備をしかけたところで――)
しおり どんっ。(まみの背中を両手で突き飛ばす)
まみ  わあっ!(前につんのめり、身体が大きく泳ぐ。しかし火口に落ちそうになるぎりぎりのところでふんばり、こらえる)おっとっとっと……。(歌舞伎の見得をするような大きな片足立ちポーズで火口の淵ぎりぎりを横歩きし、しばらく行ったところでどうにか勢いを殺して止まる)
まみ (九死に一生を得た顔でひとつ息をつく。それから猛然としおりのところまで戻ってくると、かぶっていたベレー帽をむしり取るようにつかんで怒り任せに下に叩きつけ)――押すなって言っただろ! 押すなって言ったじゃん、あたし! あれだけしつこく、何度も! なんで押すんだよ!
しおり え、だってあんまりしつこく言うから、そういうフリなのかなって。
まみ  前フリじゃねえよ! アツアツのおでんとか熱湯風呂とか、そういう平成のバラエティみたいなフリじゃねえから! マジで死ぬとこだったじゃねえか!
しおり うん、でもまみちゃん、死にに来たんでしょ?
まみ  そうだけど! 自分のタイミングで行きたいんだよ! こういうのは! おまえにいきなり突き飛ばされるとかじゃなくて!
しおり だって、まみちゃん、なかなか行かないから……。
まみ (ベレー帽を拾い上げ、ヤケクソ気味にかぶり直して)行くって、いまから!
しおり うん、でも急いでくれないと。船の最終便でちゃうし、Mステにも間に合わなくなるし。キンプリ、大体一番最初に歌うから。

                          (以下省略)


「途中まで多少なりとも真面目に観ていたわたしがバカでした」
 狭いエレベーターを降りて劇場の入っているビルを出た、ビルを本当に一歩出たところで、サリエロが言う。
「一度きりしかない青春とバイト代二時間分のとんでもない無駄遣いをさせられてしまいました、あなたに誘われた芝居のせいで」
 関係者に聞こえるかもしれない場所では一応控えていた苦情を、劇場の磁場から抜け出た途端に解放し、となりを歩く俺に垂れ流す。
「まみが飛び下りるところ、悪くなかっただろ」
「ええ、そうですね。まみが飛び下りて、でも風圧で煽られて脱げたベレー帽だけが火口内部の岩場の出っ張りに引っかかって、しおりはスマホの自撮り棒でそれを引っかけて取ろうと腕を伸ばすけど失敗して結局ベレー帽も下に落ちて、煮え立つマグマに呑まれていくベレー帽を眺めながら『あーあ。落ちちゃった』ってしおりが独白するところはわたし、涙なしでは見られませんでした」
 だいぶ日の傾いた、繁華街の歩道を並んで歩く。
 上演時間は正味、一時間ちょいの短い芝居だったので、まだ四時過ぎだった。
「ラストもまあ、あれはあれで悪くないだろ」
「そうですね。最後、家に帰ってきたしおりが自分の部屋でひとり、ポールダンスの真似事だか練習をするっていう、素人まるだしのたどたどしいポールさばきが大変美しいラストシーンで感動しました」
 思わず「ほんまにちゃんと練習してきたん?」ってアンケートに書きそうになってしまいました、と稽古や役作り不足の役者には人一倍厳しい美木沙里英さん。
 そうは言いながら、しかし一応、当たり障りなく褒める言葉でアンケート用紙は埋めて受付に出してきたのだから、まあ最低限のマナーは守って劇場を後にしている。
「全体的に、俺はそこまで嫌いではなかったがな」
「親の欲目、あばたもえくぼ。推しを全肯定する、典型的な信者の思考ですね」
 推しの主演デビュー作をそれとなく擁護しようとする俺を、あっさり斬り捨ててサリエロ。
「まあ、うちの脚本担当/新進劇作家・しおみさんがよく書いてくるトンチキな台本とも一脈通じるものがありましたからね、きょうのお芝居」
 役者をやりつつ芝居の台本も書いている俺への当てつけはしっかり忘れず付け加え、
「コロナ対策だけはちゃんとしてたから、そこはエラいと思いました」
 いまのご時世、当然といえば当然ですけれど、とそう締めくくる。
 対策は万全ですと口では言ったり公演情報のページでうたっていても、実際はおざなりだったりそのあたりをおろそかにしている現場も実際に俺達はいくつか目にしてきている。
 歩道を歩き、キャバクラのボーイみたいな恰好の若い男とすれ違う。マスクをつけていない。すれ違う前、視界に入って気づいた段階でとなりのサリエロがわずかに眉をひそめるが、まあ無言でやり過ごし、すれ違う。いちいち避けていたらきりがない。ノーマスクで歩いている人間はひとりやふたりではない。というか圧倒的にノーマスクが多い。特に俺達と同世代、二十歳前後や二十代前半の若者に。彼等は当たり前のようにマスクをつけていない。まるでコロナなんて世界に存在しなかったというかのように。それが仲間内で見せるためのポーズなのか本心なのかは知らないが、何も恐れるものなどないかのように店の前や道端で談笑し、浮かれ騒ぎ、連れ立って歩き、往来している。もう概ね希望者がワクチンを打ち終わったからこうなっているのではない。まだ高齢者しかほとんど打てていないような夏前の時期でも俺はまったく同じ光景を以前にもこの場所で目にしていた。無謀、無知、蛮勇、無邪気、楽天的。それが、若さ、なのだろうか。二十一歳の俺にもそれは、わからない。もし万が一にでも感染したら皆に迷惑がかかってしまうと、芝居を、役者をやっている俺が彼等より神経質で慎重に構えているだけなのだろうか。
 駅前とかだとさすがにもっとマスクの治安は良いのだけれど、この通り沿いは酒を出すタイプの飲食店が多いので、金曜の夕方、今くらいの時間以降は若者やサラリーマンで賑わう。出勤するキャバ嬢やホストの姿もよく見かける。
「何ここ。野外フェス?」
 うじゃうじゃいると形容しても差し支えない、あまりのノーマスクな若者の多さに辟易したように、サリエロが舗道から逸れて、公園に入る。
 街中にひっそりとある、さほど大きくない公園だった。
 反対側に抜けるため、突っ切って横断する形で、夕暮れの光に染まった公園を歩く。黄葉した銀杏の木々と、柔らかな毛皮のように落葉が散り敷かれた地面が目に入る。黄金色の渚のように、それは立ち並ぶ木々の足下を彩り、ずっと続いている。
 深まる秋の空気を感じながら、夕陽を浴び、通りの喧騒を外れて、サリエロと並んで歩く。ベンチにひとり佇むひと、犬の散歩をするひと。それらにも夕陽と影が差している。レザーのハーフパンツに黒のショートブーツを履いた細い脚で、美木沙里英はさくさくと枯葉を踏んで歩く。そうしていると、まみとしおりが二人で登った火口までの登山道、冷たい夕暮れどきを思い起こす。俺が先ほど劇場で観たものは、芝居の設定、舞台装置、役柄、演じられた台本であるはずなのに、ただそれだけでないものが、おりとなって青の底に沈んでいる。死を自ら選ぶ少女と、それに付き添うもうひとりの少女、ふたりの女子高生が岩だらけの登山道を共に登っていく姿が自分のなかのどこかにうっすらと焼き付いている。
「あ」
 歩きながらスマホを眺めだしたサリエロが、何かに気づいた様子で、ひと声洩らす。
「どうした」
「それいゆにフォローされた。たったいま」
 本日の主役であるしおり役の三島それいゆ、俺の推しにツイッターでフォローされたとサリエロがほぼ無の感情の顔で告げる。
「は? 俺は半年前からそれいゆをフォローしていていまだにフォローしてもらってないが」
「それは完全に、推しに認知されていないヲタです。もっと徳を積みましょう」
 一応フォロー返しておくか――、とスマホを操りながら小気味よさげに横目で俺を見やりながらサリエロ。
 俺も念のためにスマホを出し、シオミコウスケの実名で作ってあるアカウントを確かめてみたが、新しい通知はない。
「客席がガラガラなうえに、若い女がほとんどいなかったからな」
 そりゃ目立って舞台上からも目にとまりやすいだろ、と敢えて平気を装って言う俺に、
「まあでも、わたしの顔と名前は知ってたってことですからね、それは。きょう自分たちの芝居を観にきてくれたあの小顔のおしゃれギャルが、劇団不死隊の演技派看板女優サリエロちゃんである、と。そのサリエロちゃんと同じ劇団にいるくせに、モブ同然に役者としての存在感がなく印象が薄いあなたと違って」
 と、十九歳の自称・美少女看板女優がここぞとばかりに勝ち誇ったようにマウントをとってくる。
「でも、そもそも比べるのが酷な話ですからね。不動のセンター・絶対エースのサリエロちゃんと、後列メンのしおみさんではね……」
 勝ち誇った顔のまま、憐れむような微笑を向けてくる。
「ただまあ、どんなに人気のない後列メンにも、推してくれる熱心なファンは必ずいますからね、わずかながらでも」
 そこまで気落ちする必要はないんじゃないでしょうか、と完全に上からの物言いでサリエロ。
 公演の告知や宣伝用の写真撮影で役者全員が並んで撮る際は、いつもサリエロがセンターに、二列に並ぶ際は前列の一番目立つポジションに配置される。あとは現役女子大生の百合もそれに近い、良い位置にいつもつく。この二人が、華があり、ビジュアルが良いからだ。ほかのメンバー、つまり女優ふたりを除いた男連中はそのときの役柄の重要度において、後列だったり端のほうにまわされる。並びは劇団主宰の花輪がすべて決めるので、文句は言えない。
「おれ、いっつも後列メンなんだけど! 不公平じゃね?」とコンタなんかは撮影のたびに毎回文句を言っているが、
「ああ、おまえにはスキルもキャリアもビジュアルもないからな。妥当な配置だ」と毎回花輪に冷ややかにあしらわれている。
 そう、この世界は公平でも平等でもないのだ。不平等、不公平、差別、贔屓だらけだ。しかし、だからといって、腐ったり、世を拗ねたり、怠けているだけでは、自分の環境は何も変わらないし良くはならない。辞めたければどうぞご勝手に。おまえ程度の代わりはいくらでもいる。
 ただ、事務所や運営から推されていつも良い位置で目立てる推されメンではなくとも、たとえ万年後列メンでも自分にできる努力を最大限続けていれば、次は一行でも台詞が増えるかもしれない、たったワンフレーズでも歌割がもらえるかもしれない、単独の小さな新しい仕事が回ってくるかもしれない。これまで脇役に近い役どころばかりだったそれいゆも、そうやって今回、二人芝居の主役を摑んでいる。そういう業界の、舞台やステージやカメラの前に立つ業界の片隅で俺達は生きている。それは歌って踊るグループアイドルも、山場のシーンでダチョウ倶楽部のコントじみた芝居を演じる小劇団の舞台役者も変わらない。
 公園の出口に向かって歩くサリエロが、思い出したように、バッグから短いつば付きの帽子を取り出して、「くるりんぱ」と頭の上にのせる。
 何事もないように秋らしいお色の帽子をしれっとかぶった、蜂蜜色のロングヘアの女を、俺は無言の表情で眺める。その視線を認めると、
「これはベレー帽じゃない。キャスケットだから」
 季節が秋めいた途端にベレー帽をかぶるタイプの女は嫌いなのに素材感、サイズ感はほぼほぼ変わらないキャスケットを自分がアイテムとして取り入れるのは一向に構わないという二重規範ダブスタをいくらか冷ややかに見やる俺に、サリエロが注釈を加える。
 無論、俺もキャスケットくらいは知っている。
 行きは現地集合で劇場の受付前で待ち合せだったので、美木沙里英さん(キャスケットver.)ははじめて見る。似合ってなくはない。
 ベレー帽を小粋にかぶりたがる女を、しかしあのようにあげつらったからには、何か皮肉のひとつくらい普段であれば言ってやるところなのだが、
「きょうはまあ許してやるわ。推しの芝居に付き合ってくれたからな」
 副反応で寝込んで来られなくなったコンタのかわりを、色々文句はつけながらも一応は果たしたきょうの功績に免じて、見逃してやることにした。べつに一人で劇場へ行って、一人で芝居を観ても、それは構わないのだが、やはり生の舞台は誰かと一緒に観に行ったほうが楽しい。そしてどうせ一緒に観るのなら、芝居にまったく興味がない人間よりも、ある程度芝居を知っている人間のほうが面白いのは当然だ。その意味では、美木沙里英は悪くない相手だった。少なくとも、俺にとっては。向こうがどう思っているのかは、わからない。
「芸術の秋なので観劇もいいかと思いまして、大学にお友達のいないあなたにきょうは仕方なく付き合ってあげました」
 なにせ、こんなことを言ってくるようなヤツだから。
「過ぎた話なのできょうのことはもうとやかく言いません。ただし、『劇団☆電気料金』の芝居には二度とわたしを誘わないでください」
 あれを理解するだけの教養を残念ながら自分は持ち合わせていなかった、と苦言を呈する表情のサリエロに、
「おまえは最近の推しとかないのか。劇団の箱推しでも役者個人でも、まあべつに芝居以外でもいいが」
 芝居なら付き合って見に行ってやるのは別に構わないと、多少はきょうの埋め合わせをするつもりで、俺がそうたずねると、
「――わたしの推し?」
 何かおかしなことを聞いたとでもいうように軽く眉を上げ、サリエロが足を止めてどこか愉快げな声音で問い返す。
 公園の出口近くまで来たところで突然立ち止まった、すぐにはまた歩き出すような気配のないサリエロに、俺も数歩行ったところで足を止め、うしろを振り返る。
 秋の気配が濃厚な公園に、美木沙里英が立っている。
 夕暮れどきの、まばゆいような、いくらかかげりだしたような光のなかに立って、十九歳の女が俺を見ている。
 ある種の獲物を狙うような、その視線を受けた俺が見ている前で、サリエロが口を開く。
「わたしの推しはわざわざ見に行く必要なんてない。わたしの推しは、ずっと変わらないし、いつもすぐそばにある」
 軽い気持で訊いた俺の問いに、そんな、やけにはっきりした答えを寄越す。
 何一つ、迷いもてらいもない、嘘のない言葉。
 揺るぎない、わかりきった答え。
 それを示したうえで、長い髪が夕陽に飴色に照り映えるサリエロはバッグを持ってないほうの腕を上げると、
「わたしの、推し」
 ただ一言短く告げ、まっすぐ俺を指さす。
 どこにも逸れずただ一点、まっすぐ、その細い指先が俺に向けられる。十九歳の女の指先が、二十一歳の男に。
 その指先から放射される見えない磁力に感じ入るように、目の前に立つ女を数瞬無言で見つめ返し、それからふと流れ聞こえてきたスピーカーからの音声に、俺は首を回して背後を振り返る。
 サリエロが指さす、ちょうど俺の背後、公園出口すぐ脇の道路を一台の軽トラックがのろのろ徐行運転している。
 俺がそのトラックを認識すると同時に、サリエロが小走りに駆け出す。
「すいませーん、焼きいも一本くださーい」
 いままさにこの場を離れていこうとしている様子の焼きいもの移動販売車を呼び止めようと一直線、駆け出していく。ショートブーツが引っかかって一回つまずきかけ、そこからまた体勢を立て直し、こういうときだけ機敏に駆けていくその背中を、俺は完全に無の表情で見る。
 読書の秋、スポーツの秋、芸術の秋。この世界には、さまざまな秋があれど。
 俺がよく知る十九歳の演劇馬鹿にとっての秋は絶対不変、たった一つしかない。
 ――食欲の秋。
「しおみ、それ拾っといて!」
 つまずきかけたときに脱げて落ちた秋の帽子を、俺は拾い上げる。
 男女問わずファンが多い、ほくほくに焼けた濃い黄金色のさつまいも。
 秋のおやつ、不動のセンター。
 これから居酒屋のバイトに行く前の腹ごしらえに俺もそれを食いたくなって、支払いにペイペイが使えるか店の親爺にたずねている演劇ギャルの後姿を、そろそろまた自分も新しい舞台に立ちたくなってきた演劇青年は溢れる夕陽のなか追いかけた。

※この作品はフィクションであり、実在の人物や団体とは無関係です。


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