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親の介護は突然やってくる(要介護4の父と要介護5の母)

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突然訪れた親の介護。いつか「やっと終わりました!」って投稿が出来るまで。
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2019年6月の記事一覧

姉も疲れている

昨夜、疲れと絶望感とで仕事が進まず、姉に軽い愚痴をラインで送った。今の正直な自分の気持ち。 姉も同じだと、同じ様な気持ちを言葉にした返信があった。 どちらも仕事や日常生活に支障が出始めている。現時点では自宅介護ではないのに、それでも家族の負担は大きいのだ。 介護問題。働き盛りにはキツイぞ。 家族だから、親だから。そんな気持ちがあると頑張ってしまう。しかも余命宣告もあり、事実弱り続ける姿を見て「何かできる事を。できる事はしてあげたい。」と思う気持ちが必ず出る。 そして、

気持ちにゆとり無いと、疲れが出るよね。

実家の風通しをしてから父の病院へ。ちょうどリハビリのタイミングで部屋におらず、少しの時間を談話スペースで過ごす。 父に会う時は気持ちのテンションを上げていくので、この無意味な時間に疲れが出てきてしまう。 15分くらいしてから病室へ。 なんとなく弱気になり始めた父ではあるけれど、家に戻って料理をして、好きなものを食べたいと言う。 それが可能かどうかは誰にも分からないけれど、家に戻るイメージをしたら更にどっと疲れが出てきた。 昨日は熱が上がっていたらしい。術後の発熱は治ろ

父と過ごす時間

父の余命宣告を聞いた時は、駐車場の自分のクルマに戻って一人きりになった時に涙がこぼれた。去年の8月27日。でも父の記憶では「1年が経った。去年の6月だから」と。 それはただの記憶違いかもしれないけれど、本人の自覚症状だったり病院への診察だったりが、その頃だったのかもって思ったりもした。深くは問わなかった。 「何もすることがない」と父はベットで話した。 喉が乾いたからと、コーラとトマトジュースを買ってくる様に言われ、病院の中に入っているコンビニで購入する。父は僕が戻ると「飲

判断力の鈍り

日々のToDoをこなす上で優先順位の判断や、量の把握は重要。特に仕事絡みならば、時間の使い方含めてお金に換算とつながる。 それなりのボリュームをこなすなら、心身の健康が基本となるよね。 母の存在はどこかで諦めてることもあって、ある程度の割り切りも可能なのだけれども、まだまだ諦めない父のことは僕を悩ませる存在でもある。 どこかで割り切って仕事を優先させた時に後悔しそうで、できる限り付き添ったり手伝いをしたりしたくなるのです。それは余命宣告の時期を過ぎたからということもあるし

安楽死という選択

NHKの番組「彼女は安楽死を選んだ」を見た。 安楽死を選ぶべきではないという意見も分かる。生まれたからには生きる権利がある。死ぬまでは生きる。誰かに迷惑をかけず生きることなど出来ないのだから。だったらとことん生きる。 それは「生きる力」の強い人の声だと思った。死ぬまで何かをやってやろうと思う気持ちがある人の声。表現者だ。 一方で安楽死は良い選択肢だと僕は思った。 大好きな人と一緒に過ごす最後の晩餐があるなんて幸せじゃないかと。コンディションがまだ保てる段階で大切な時間を

衰えゆく親を世話するストレス

母の要介護認定を知ってから、ツイッターやブログに感情を書きなぐって来たのだけれども、今読み返して驚いている。ずっとストレスだったんだ。想像以上に。 今はそのストレスがデフォルト状態なので、精神的に健全な時も心の底にはドロドロとしたストレスが溜まっている。これらが無かった状態のブログを見ることで、晴れやかだった過去の自分を知る衝撃。 親の死に立会い、「良かったね。本当に良かった」と涙を流しながら喜び、目を覚まして夢だと知る。そして現実には親が生きている事を知り、一気に気持ち

これは医療と家族との戦いなんだ

今日は父の見舞いへ。酸素が繋がれているとエアの音が騒々しい。開口一番で「少し動くと苦しいんだよ」とのこと。会話をしていても体内の酸素量が減り息苦しさを感じるという。部屋の中にあるトイレへの移動も辛いみたいで、ベットの上での介助をしてもらっているとのこと。 人間が寿命を全うしようとしている姿も一瞬ちらつく中で、医療はベットの上の人間を生かそうとする。無駄な延命措置は事前に断っているとはいえ、様々な薬や適切な対処により、死までの時間を無理やり延ばされている様に感じる。 徐々に衰

ノータイトル

昨夜眠れなくて、今抱えている状況を整理したいとグルグル考えてた。いつか清書したいなと思いながら、このnote.に書きなぐっているのもストレスからだし。 一枚一枚玉ねぎの皮を剥ぐように、自分が嫌だと感じるポイントとか振り返る。 母が自宅介護となった頃から気持ちが揺らぎだしたかも。思うようにならないことから、父の苛立ちが見えはじめて、ちょっと強い口調での会話も聞こえる様になった。 そもそも父と母は仲良くなくて、価値観も異なる。離婚をしないのは惰性だったのだろう。どちらかと言え

念仏は誰のために

祖父母の法事に行ってきた。お坊さんの唱えるありがたい念仏を聞きながら「相変わらず難しい言葉ばかりだな」と。そんな感想しかない。 もしも僕が死んで霊になった時に、しみじみとありがたいモノとして聞こえてくるのだろうか?突然意味が分かったり、聞き取れたりするものなのだろうか? もしも僕が化けて「うらめしや〜」と柳の木の下に出た時には、この呪文みたいなものを聞くことで成仏しちゃったりするのだろうか。成仏って自己申告制なのか、誰かの許可制なのか。念仏は誰のためのものなのか。 祖父

知らない自分が現れるとき

音楽を聞くと涙がこぼれる。なにかきまった曲ということではなく、歌詞に意識を寄せた途端にぐあーっとこみ上げてくるモノがあって、そして涙が止まらなくなる。 疲れてる。たぶん。 自分を押し付けている、我慢している気持ちが開放される瞬間がそれなのだろう。涙を流しながら泣いている意味がわからない。 そんなに辛いのだろうかと、今の状況を考えてみたりもするけれど、それほどではない気もしている。

老人にかかる国の費用

国民の生活を充実させるモノに国が色々な費用をかけている。インフラ周りから文化面、どこも「まだ足りていない」と言う声も聞こえるけれども、なんだかんだとその国で生活する人たちの生活には、何らかのお金が動いている。その資金源は税金だ。 税金は出来る限り平等に取られ、そして平等に使われるのが理想だろう。難しいことは分からないけれども、国が運営されていく中で長期的に見れば案外バランスは取れているのかもしれない。 ─ ふと「先日の父の病院代が6万円くらいだった」と思いだした。これは