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念仏は誰のために

祖父母の法事に行ってきた。お坊さんの唱えるありがたい念仏を聞きながら「相変わらず難しい言葉ばかりだな」と。そんな感想しかない。

もしも僕が死んで霊になった時に、しみじみとありがたいモノとして聞こえてくるのだろうか?突然意味が分かったり、聞き取れたりするものなのだろうか?

もしも僕が化けて「うらめしや〜」と柳の木の下に出た時には、この呪文みたいなものを聞くことで成仏しちゃったりするのだろうか。成仏って自己申告制なのか、誰かの許可制なのか。念仏は誰のためのものなのか。

祖父母の没年月日は異なれど、ふたりとも6月に亡くなったので今日一緒に法事ということになりました。一緒に暮らしていたので思い出は多いけれど、もちろん二人が亡くなってからの思い出はない。人の死とはそういうものだろう。死んだ先に思い出は増えない。

法事の念仏の中で坊さんは「家内安全」も願っていた。

家内安全は人類全ての人にあって欲しいもの。お賽銭やらお布施を払った人だけしか願わないってのは、あまりにも営利主義過ぎないだろうか。そもそも宗教法人は非営利だからこその無税なはず。

隣人の平和が本人の幸せであることは世界平和の基本だろう。だったら、特定の人だけの家内安全を願うのではなく、世界中の家内安全を願っていただきたい。お布施がないから祈らないってのは現金な輩よね。

個人的にこの寺は好きではなく、他の宗派の寺や神社に行くとバチが当たるという変なルールがあるらしい。他の神様に浮気したら面倒みないよってのは分かるけど、嫉妬した上にバチを当てるとは神というよりも、人としてもどうかと思う。あまりお付き合いはしたくないのです。

戦争を乗り越え過ごしてきた祖父母には、精神の安定だったり、ルール不要な生活の中の道徳感として「宗教」は必要だったと思う。文字通り生きるか死ぬか、戦後の混乱やルールが180度変わる国の方針。ルールがあっても生きるか死ぬかの前に選択肢は無い。そんな中でいつも正常を保つなど容易ではない。

現代に於いても宗教の存在として、それがあることで正気を保っていたり、精神の支えとして生きる力を見出したりはあるだろう。そこは否定しない。
だけど強要してきたり、信じない輩にはバツを与えるみたいな脅しになると全力で反論する。

だからこうした法事などの行事は祖父母への尊重として参加はするものの、自分の死後には念仏は意味が分からないから辞めてほしいって思う。考え方によっては気持ちが悪い。

でもやっぱり死んだらありがたく聞こえてくるのだろうか?死んでいたら感想は述べられない。
だったら、ブルーハーツやスカパラでも流しておいて欲しいって思う。

父の弟夫婦、妹夫婦、皆さん白髪は増えたもののとても元気でした。

頂いたお金は両親の病院へ通う交通費などに活用させて頂いております。感謝いたします。