これは医療と家族との戦いなんだ

今日は父の見舞いへ。酸素が繋がれているとエアの音が騒々しい。開口一番で「少し動くと苦しいんだよ」とのこと。会話をしていても体内の酸素量が減り息苦しさを感じるという。部屋の中にあるトイレへの移動も辛いみたいで、ベットの上での介助をしてもらっているとのこと。

人間が寿命を全うしようとしている姿も一瞬ちらつく中で、医療はベットの上の人間を生かそうとする。無駄な延命措置は事前に断っているとはいえ、様々な薬や適切な対処により、死までの時間を無理やり延ばされている様に感じる。
徐々に衰える姿は、既に僕の知っている親父の面影は無い。毎週顔だしていなければ、確認したくなるレベルまでやつれている。どこかで先週の面影を探しながら本人確認している気がする。

医療は出来る限りの力で的確に死期を延し続ける。家族はスローモーションで死へ向かう姿を見続けることになるのだ。

家族の死は悲しいものである。しかし「あぶない」となってからの医療の力は凄まじいもので、一度覚悟した家族の気持ちは宙ぶらりんのまま引き伸ばされると「出来る限り長生きしてほしい」という思いはかすみ薄れていく。

既に僕の気持ちとしては、両親共に「そろそろ良いのではないか」と思う気持ちが強い。辛い状況が続くのであれば、もうその苦しさと戦う意味はあるのだろうかと。もう開放されても良いと思う。
母に関しては意識さえあるのか分からないままの状況で、横たわる理由さえ見つからない。世の中は「死」を尊重すべきだと思う。

訃報を聞いた時に「もっと長生きして欲しかった」と思う気持ちは大切だけれども、生き残る人はいたずらにそれを願ってはいけない。
死を受け入れること。死を迎えた時、その人が人生に幕を下ろしたことを認め、生きる人は故人を想うことが美しいではないか。他人の人生を長いだ短いだと言える人間は本来いないのだ。
その時に感じる悲しみも大切な感情のひとつ。悲しみは相手への気持ちが強ければ強いほどに大きなものになる。

現在の医療は絶大だ。完全に治すことが出来なかったとしても、死を引き伸ばすことは出来る。この3年間で家族として感じたことのひとつ。
だから、医療行為もどこかでキリをつける必要があるのではないだろうか?見守る家族の精神的負担、経済的負担が大きすぎる。ついでに言えば国の抱える医療費用も負担が大きすぎる。

病院は受け入れた病人に対して出来る限りの手を尽くそうとする。延命措置を断ったとは言え、出来る対処を適切に行うことで生き延びる。
医療の発達を良いものとするのか、自然の摂理に反した行為と見るか。色々と考えさせられる体験をしている。

頂いたお金は両親の病院へ通う交通費などに活用させて頂いております。感謝いたします。