観音妙智力〜観音様のご利益〜

 だれでも名前くらいは知っているし見たことがあるだろう。
様々な姿で表される観音菩薩。
一般的にイメージされるいわゆる聖観音菩薩は不動明王や天部の神様のように腕がたくさん生えていないし、武器も持っていない。神仏のなかでも穏やかかつ地味なお姿かもしれない。

六道を守護している各界の観音菩薩の姿はそれぞれ特徴的な姿をしており、こちらは優しい姿だけでなく、ときとして荒神のようでもある。
観音菩薩は知れば知るほど魅力的で、わかればわかるほど奥が深い。

一般的に言われている観音様のご利益は「災難にあわない」と言われている。
この七難即滅のご利益はとてもありがたい、のだが実は非常にわかりにくい。
なにせ、「なにも起こらないこと」がご利益なのだから。

こんな話がある。
「交通安全の祈祷をしてもらったが大事故にあった。どうしてくれるんだ!」と怒鳴りこんできた。
「それはそれは大変な思いをされましたね。もしよろしければ再度ご祈祷をさせてください」そして、本人も納得し祈祷後は満足したようだ。

そこでご祈祷をした行者が尋ねた。
「どんな事故だったんですか?」と。
「それはそれは大変だったんだ。車が全損するくらいの大きな事故だった」
「全損するなんて本当に大変でしたね。怪我はもう大丈夫なのですか?」
「車は全損だったけれど、怪我はまったくなかったんですよ」
「それはよかったですね」

と言った具合だ。
下手をすれば命を失ったかもしれない可能性がある全損するような大事故にも関わらず無傷だったのだから観音様のご利益はすごい。
「無事でよかった!」という話だ。しかしこれほどのご利益であってもこの人にとっては全損した車の方が大ショックだったのだろう。

このような「七難即滅」という、とてもありがたく、ちょっとわかりにくいご利益をくださるのが身近に存在している観音様だ。

 観音経には人間が恐れるおおよその不安の象徴が記述されている。
例えば、敵地で孤立し囲まれてしまう、大海原に放り出されてしまう、火に囲まれてしまう、病・怪我など、死、孤独といった、現代人でも不安や恐れを感じるとれるものだろう。
 しかし観音に祈ればそれらの難から助かるとかかれている。それが「念彼観音力」だ。大抵はこのお経を読めば漠然とした様々な不安のなかにも希望が現れ活力がわいてくる。

 もっというと勘所の良い人は起こってもいないことに不安を感じる必要はないというところまでたどり着けるだろう。実はそれこそが「観音妙智力」なのだ。
物事の見方、考え方、視点をの変化、工夫する知恵を得ることで、その人を苦難や苦悩から救うのだ。

さて、この観音妙智力に触れてから思ってもいなかったがありえるかもしれなあることに気がついた。
 観音菩薩は様々な宗教、宗派、王様、貴族、僧侶、佛教徒、子供、神仏、その人物にとって近しい・わかりやすいに姿に形を変えて歩みより説法をされるのだが、この「観音」の存在がわからないままでいると針の筵を歩かされ、火に焼かれ、病に苦しみ、自分に苦しみが全て帰り、帰還もできず、袋叩きにあい、大海原で飢えと乾きと嵐に怯え、雷鳴に怯え、雨雹に撃たれ続けるひたすら耐えなければいけない、そんな話にみえてしまうのだ。
まるで地獄ツアーだ。

知り得なかったことで、見てはいけないものを視てしまった気分になった。
お勤めを終えたあと行者さんたちにこの話をしたところ、各々が体感している観音菩薩にまつわる話に花を咲かせたのであった。

観音様は奥が深い。

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