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女の子のゲロを自分のカバンで受け止めようとした話。小説『明け方の若者たち』

人生には忘れられない瞬間というものがあって、それを思い出させるスイッチは世の中のどこに設置されているかわかったものではない。たとえば僕に付けられたスイッチの中には、関ジャニ∞の『ズッコケ男道』を聴くだけで昔付き合っていた女の子との思い出がフラッシュバックするというものがあった。最高に意味がわからないと思ったことだろう。安心してほしい。僕もさっぱり意味がわからない。

僕が関ジャニ∞の明るく楽しい楽曲を聴いて号泣するヤバイやつではないことは別の機会で弁解するとして、ここで言いたいことは人生において忘れられない時間を大切にしてほしいということである。

読んだ人をそんな気分にさせてくれる、カツセマサヒコさんの小説『明け方前の若者たち』を紹介したいと思う。

まずはあらすじを読んでほしい。

明大前で開かれた退屈な飲み会。そこで出会った彼女に、一瞬で恋をした。本多劇場で観た舞台。「写ルンです」で撮った江の島。IKEAで買ったセミダブルベッド。フジロックに対抗するために旅をした7月の終わり。世界が彼女で満たされる一方で、社会人になった僕は、“こんなハズじゃなかった人生”に打ちのめされていく。息の詰まる満員電車。夢見た未来とは異なる現在。高円寺の深夜の公園と親友だけが、救いだったあの頃。それでも、振り返れば全てが美しい。人生のマジックアワーを描いた、20代の青春譚。

うん。疼くね。
僕の女々しいセンサーが。
帯の紹介文から、あらすじから、1行目から、かぐわしい匂いがした。正直たまらない。

転職や結婚といった様々なライフイベントが周囲で多発する、社会人4年目の僕はまさに“こんなハズじゃなかった人生”に打ちのめされながら生きている。
これは別に僕だけの話ではないと思う。

そこそこの大学に入り、まあまあの企業に入り、ぼちぼちの幸せを手に入れる。
その結果は自分の努力の結果である以上、文句はない。つもり。
けれども理想とのズレはふとした瞬間に「あれ、なんか思ってたのと違う」なんてことを考えさせる。

それでも、振り返れば全てが美しい。そんなふうに言えたら。
人生のマジックアワーなんて言える瞬間が、自分にもあったら。
どれだけ素晴らしいことなんだろう。

でも、この小説を読んだ今なら、こう思うのだ。

スイッチを押されることで繋がる過去、それこそが僕にとっての人生のマジックアワーである。

僕に取り付けられたスイッチには関ジャニ∞の『ズッコケ男道』の他にも、『東急東横線とクリームパン』というものがある。

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「やばい、吐きそう」

彼女が申し訳なさそうにそう言ったのは、渋谷から電車が発車してしばらく経った頃だった。次の駅まではまだ時間がかかる。正直言って、完全に詰んでいた。彼女ほどではないにしても、それなりにお酒を飲んでうとうとしていた僕だったが、酔いは一瞬で吹き飛んだ。

そもそも、どうしてこうなったんだっけ。
そうだ。その日、僕は推しである会社の同期の女の子と飲みに行っていた。

お互いにお酒は好きだったし、僕の自惚れかもしれないが、その場はとっても盛り上がり、びっくりするくらいお酒が進んだ。

頼みすぎて、数年経った今でもそらで言える。

沖正宗端麗辛口。大徳利。お猪口2つ。

カウンターの隣に座る酔っぱらった彼女のボディタッチにどぎまぎしたこと。
お店を出るときに「帰りたい?」と訊かれてどきどきしたこと。
渋谷駅の東急東横線のホームにエスカレータで下っているとき、不意に後ろから首に腕を回されたこと。

状況を整理しようとしたところ、楽しい思い出が走馬灯のように過ったが、今はそれどころではない。にやにやしてんじゃねえ。

「あと5分くらいで次の駅着くけど、それまで我慢できる?」

「ん、多分無理」

多分じゃなくて、確実に無理なやつだった。
電車の中でそのまま吐かせるなんて論外にしても、エチケット袋になりそうなものは持っていなかった。

くそ、いっそ手で受け止めるか。
いや、中身を全部退避させれば僕のトートバックでいけるか。
今にも吐きそうな彼女。今にも泣きそうな僕。
ええい。あとで洗えばどうということはない。

韓国のスタバで買ったお気に入りのトートバックだったが、是非もない。
今はこの状況を乗り切ることが最優先である。
そう覚悟して、中から財布を取り出そうと瞬間だった。

カサッ……。

明らかに、ビニール袋の音がした。
僕は急いでバックの中身を確認したところ、彼女と飲む前に立ち寄った元バイト先の主婦から貰った、神楽坂にある美味しいパンが入ったビニール袋が出てきた。
それと同じタイミングで、彼女が「うっ」と呻いた。

「ちょ、ちょっと待った!」

こうして僕はお気に入りのトートバックを犠牲にすることなく、なんとかことなきを得たわけだが、今でも夜に東急東横線に乗っているとき、クリームパンを食べるとき、必ずと言っていいほど、あの夜のことを思い出す。

沖正宗は安いんだけど、あんまり美味しくなかったなあ。
酔った推しは、可愛かったなあ。

あの夜は、楽しかったなあ。

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確かに僕は“こんなハズじゃなかった人生”に打ちのめされているが、そんな中にも忘れられない瞬間はたくさんある。

そんな瞬間がこれからの人生、たくさんあったらいい。

そんな忘れられない瞬間について、深夜の公園でハイボールを飲みながら語り明かせたら楽しそうである。

この記事を読んだ誰かが、不意にスイッチが入って、思い出が高解像度で再生され、様々な感情が胸中でちゃんぽんして、眠れない夜を過ごすことになったとき、この小説の存在を思い出してくれたら嬉しい。

アルコールを少し入れて、女々しい曲を流しながら読んでみな。飛ぶぞ。

ちなみに、僕のおすすめはindigo la endの『通り恋』という曲だ。


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