儒学と僕5 人がわかってくれなくても
第3回から連続して行ってきた『論語』学而編第1章も今回で終わりです。
今回の言葉
「慍」は普段みなれない漢字ですが、ここでは朱子の解釈に従って「いかる」と読んでいます。ここを「うらむ」とか、「いきどおる」と読むものもあります。
今回取り上げた箇所の意味は、
「自分が学識・人格を磨いても他人が評価してくれないこともある。そんなときも憤りを持たず、自分の信じる道を進むことができたなら、それこそ徳の完成した、立派な人物(=君子)ではないか」
となります。「君子」という語は『論語』によく登場し、その意味は学派によって解釈の違いがありますが、ここでは「徳の備わった立派な人物」としておきましょう。
そして、前回までの流れを踏まえると、
1、繰り返し学び、心を善にする
2、そうすれば、自分の学識や人格を慕って同志の者が増える
3、それでも、自分を認めてくれない人はいる。そんなときでも、自分の道を見失わないですすむことが重要だ
という内容を、この『論語』の学而編第1章は読者に教えているのではないでしょうか。
さて、今回取り上げた部分は私たちの日常とも深く関係するものでしょう。
学問にしろ、それ以外のさまざまな仕事でも、自分が正しいと思うことをやっているつもりでも、それが正当に評価されるとは限りませんよね。逆に誤解され、理不尽な扱いを受けることもあるでしょう。
そんなとき、通常は憤りを抱くと思います。
一つ僕の話をすると、僕は、大学名に注目されるのが嫌です。それは学歴が云々ということではなく、僕が大学で何を勉強し、そしてどんな思いで勉強しているのかが見落とされてしまっている気がするのです。僕の場合は、歴史や古典(主に東洋思想に関係するもの)を学び、それを自分の人生に活かしたり、困っている人を救うために活用したいと考えていますが、なかなかそうした思いは伝わらないものだなあと感じます。本心としては、どこの大学に通っているかよりも、この、どんな思いで勉強に取り組んでいるかのほうがよっぽど大事だと思います。
ここで、前回も登場した中国北宋時代の学者程伊川の弟子尹焞(いんとん)の注が示唆に富むと思うので紹介しておきます。
「学は己に在り、知ると知らざるは人に在り、何の慍(いか)ることか之れ有らん」
この部分ですが、ベストセラーとなった岸見一郎・古賀史健著『嫌われる勇気』(ダイヤモンド社、2013年)を読んだことがある方なら、アドラー心理学の「課題の分離」の概念そのものではないか、と気づくはずです。
どういうことかと言いますと、自分が学問をし、学識や人格を磨くのは自分の「課題」、一方でそれを評価するかしないかは他人の「課題」というわけです。つまり、他人の「課題」についてはそもそも自分がどうしようもできないのであり、怒るのは無駄だというわけです。だったら、自分でコントロール可能な自分の課題に尽力するしかない。
これは、理屈ではわかっても、やはり人の評価を忘れろ、と言われても難しいものです。
そこで思い出したい言葉があります。これは、臨済宗の僧侶で、花園大学の学長も務められた山田無文老師(1900〜1988)の言葉なのですが、
「自分は2つの目で世間を見ているだけだが、世間は何万、何十万という目でこちらをみている」
私はこの言葉に出会ってハッとしました。これは、厳しさと思いやりが両方込められた言葉だと思います。
どういうことかというと、自分がみている世界はあくまで狭く、「世間は自分をわかってくれない」などと思っても、自分は決して世間の全部を知っているわけではありません。それどころか、みているのは氷山の一角かもしれません。しかし、世間は何万、何十万という目でこちらを見ているので、「どうせ世間は自分が諦めたとしてもまったく意に介さないだろう」などと思っても、そういう自分を見逃さない人が必ずいるのです。つまり、一時的に表面上ごまかせたとしても、必ず自分の本性、諦めの気持ちは見破られてしまう、そんなことをまずは言っているように思います。諦めた人が人から評価されなくても仕方ないことです。
ところが、それは裏を返せば、志を持って活動したなら世間は決して見逃さない、という意味でもあります。
「そうはいっても、今自分は誰からも評価されていないではないか」と思うかもしれません。そこで、無文老師の生き方がヒントになります。無文老師は、地位や財力といった世俗的なものをすべて捨て、禅に身を投じて悟られた方であります。その結果、多くの人から尊敬される方となりました。もちろん、老師は人から尊敬されるために悟ったのではないでしょうが、ここから学ぶべきことは、
「自分が一番やらなければならないことに専念する。そして、それ以外のことはいっそのこと捨ててみる」
というです。もちろん、私生活や人間関係をめちゃくちゃにしていいわけではありませんが、私たちが「課題の分離」を行い、人の評価に振りまわされない生き方をしようと思えば、こうした態度が必要不可欠だと思います。
みなさんも、一つのことに専念する人はやはり応援したくなりませんか?そして、特殊な技能がなくとも、どんな小さなことでも、一つのことに集中し、それ以外は捨てるという決心がついたなら、自分の境遇への不平不満も消え、まさに「君子」になれるというわけです。
昨今、「自己肯定感」が高い低いとか、自信があるとかないとかという話を聞きますが、正直それはどっちでもいいと思います。ただ、自分がやらなければいけないことに一意専心する、その決意があるかないかのほうがよっぽど大事です。
僕は、無文老師が自らの生き方で示された教えを信じてみようと思います。
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