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関係を強みに変える、パラレルキャリアの歩き方──しまね〈移住の先輩〉座談会

都市部から地方に移住し、その地域の問題解決や発展のために、さまざまな取り組みを行う制度「地域おこし協力隊」。コロナウイルスの影響もあり、リモートワークやパラレルワーク、副業といった働き方の境界線が広がっているなかで、地域おこし協力隊のような制度に興味を持ったり、都心ではなく地方の暮らしに自らの可能性を見出したりした人も多いのではないだろうか。本記事では、島根県で地域おこし協力隊として勤務した経験がある、Craftsman's Base Shimane編集部の西嶋一泰、桐山尚子、瀬下翔太が、地域おこし協力隊に参加した経緯やプロジェクト内容、現在の活動について話した。(文・構成:山田佳苗)

地域おこし協力隊からフリーランスへ

──それではみなさん自己紹介をお願いします。

瀬下:瀬下翔太です。僕は津和野町で、町内唯一の高校・島根県立津和野高校に通う生徒を対象とする教育型下宿を運営しつつ、編集者として記事を書いたり、地域のフリーペーパーの制作をやったりしています。出身は埼玉県で、島根県に来る前は東京都で仕事をしていました。

桐山:桐山尚子です。私も埼玉県出身です。2017年3月に松江市にIターンしました。3年間地域おこし協力隊として活動し、現在は個人事業主として、ライフデザイナーという肩書きでパラレルワークをしています。SDGs(エスディージーズ)関連の講師をやることもありますね。

西嶋:西嶋一泰です。東京都出身で、島根県大田市で地域おこし協力隊として活動していました。今は記事や映像を作ったり、リサーチの仕事をしたりしながら、さまざまなプロジェクトを行っています。

プロセスを重視し、協力し合える

──瀬下さんが島根に来ることになった経緯を教えてください。

瀬下:僕はダメ人間というか、東京で毎日きちんと働くのが嫌になっちゃいまして(笑)、先に島根県に移住していた大学時代の先輩に誘われた縁で、2015年に津和野に引っ越しました。最初に遊びにいったとき、町の人たちの雰囲気がすごくよくて、東京に戻ってから2ヶ月後には地域おこし協力隊に応募していました。将来のことはまったく考えていませんでした。まあ、3年も任期があるからなんとかなるだろうと。

──ミッションはどのようなものだったのでしょう?

瀬下:一般的に言って、地域おこし協力隊の業務内容はかなりいろいろあります。なにを、どういうプロセスで進めるか事前にはっきり決まっているようなところもあれば、それぞれの協力隊がなにをやるべきか自分で提案して進め方も考えて、というようなところもあります。僕の場合は後者でしたね。前職でウェブのメディアにいたこともあって、情報発信系のプロジェクトをやってほしいということは言われていましたが、全体的にはなんでもありという感じでした。

──今はどのような仕事を受けてらっしゃるんですか?

瀬下:下宿屋さんをはじめ、県内でもいろいろやっていますが、今年印象深かったのは、東京の麻布にある香雅堂というお香屋さんとのプロジェクトです。お線香のサブスクリプションサービス「OKOLIFE」の運営をサポートしていて、ウェブ上でのマーケティングから編集記事の作成、広報まで、なんでもやってます。直接お会いするのは稀で、ほぼすべてテレワークで完結させています。もともと自分のような仕事はテレワーク向きだったと思いますが、コロナ禍以降は遠隔での仕事が当たり前になったように思います。

──なるほど。島根県だからこそできる仕事の魅力はどういったところにあると思いますか?

瀬下:プロセスを重視できるところです。たとえば、いわゆる受発注の関係だけでなく、いろいろ人が参加できるように手間や時間をかけることを厭わない雰囲気があります。それから、同じ職種の人たちも競合的な雰囲気がなくて、ナチュラルに助け合っているところも好きです。みんなで取り組みながらスキルを高めていったり、フラットに情報交換ができたり。
それから、素朴な話ですが、生活コストがそれほど高くないところも重要だと思っています。僕の場合、地域おこし協力隊から独立して収入が不安定な時期があったのですが、コストを削っていけばよいと考えられたので、それほど心配な気持ちになりませんでした。僕のような編集の仕事は、新しく立ち上げたとしても、地域のなかに安定して需要があるとは限りません。そのため、仕事のベースとなる助走期間を十分に取れる環境は素晴らしいと思います。

地元愛と未来への開かれた視点

──桐山さんも、島根に来られた経緯を教えてください。

桐山:島根に来る前は、東京の輸入商社で働いていました。もともとは海外志向でしたが、徐々に国内に関心がシフトし休日は国内各地を旅行。2014年に山陰を訪れました。ゆったりとした時間の流れや人のあたたかさがとても心地よくて、特に玉造温泉で朝食(仁多米としじみの味噌汁)をいただいた時に、当時時間に追われ続けていた自分のココロとカラダに島根のゆたかさがじんわりと沁み渡って、「ああ、ここで暮らしたら人生違うんだろうな」とふと思ったのを今でも覚えています。その数年後、今後の生き方を見つめ直す機会があって。スキルや肩書きではなく人間力や関係性をベースに、未経験のことにも挑戦しながら自分の未来をつくってみたいな──と、地方移住を考え出したときに思い出したのが島根でした。その後UIターンフェアなどの移住・ローカル系イベントに足を運ぶ中で魅力的な方々との出逢いがあり、人に惹かれて移住を決意しました。

──「魅力的な方」というのは、具体的にどのような方なのでしょう?

桐山:地元(松江)への愛や誇りにあふれ、地域で暮らす人の笑顔を増やしたい、そのために新しい視点を取り入れていきたい、と未来を見ている方々でした。熱い想いを持つ方々の仲間に入って地域の未来づくりに関われるという関わりしろがあったのも魅力的でしたね。

──地域おこし協力隊に身を置くことに対し、不安は感じませんでしたか?

桐山:最初は「移住ってハードルが高いというか。覚悟がいるな...」と思っていたんです。ですが、相談に乗ってくださった方が「たかが転職、たかが引越しだよ!」と。その一言に背中を押されたのと、信頼して相談出来る方がいたのもあって「島根での新たな生き方に可能性を感じるし、行ってみよう!」と思い切って行動してみることにしました。

──その軽やかな選択、かっこいいですね。松江の地域おこし協力隊はどのようなシステムでしたか?

桐山:当時松江の地域おこし協力隊はフリーミッションで、地域資源を活かしてビジネスを創出するという目的は決まっていますが、アプローチの仕方は自由に決めることができました。全隊員がほぼ毎日顔を合わせて情報交換を頻繁にしていたのと、市役所と地域おこし協力隊だけでなく、民間のサポート会社も含めた3者で連携・事業を推進するスキームだったので、仲間やコラボが生まれやすい環境がありました。行政&民間のバックアップを得ながら個人の特性を活かした活動が最大限に拡がり、加速していった印象です。

──その中で桐山さんはどういうことをされたのでしょう?

桐山:まずは地域で何が必要とされていて、自分がどの分野で活動していくかを見つけるために、地域の方の生の声を聞きながら自分に出来ることを片っ端からやっていきました。PhotoshopやIllustratorを使ったデザインや、ECサイトの販促などですね。そこから、さまざまなプロジェクトを進めていくうちに自分のやりたいことが明確になり、一緒にやりたいと思える仲間とも出会いました。具体的には古民家をリノベーションしてチャレンジ創出と県内外のコミュニティづくりを目指す「SUETUGUプロジェクト」の立上げや、キャリア教育、UIターン関連のメンターなど、人づくりと地域の持続可能性を見出すきっかけづくりをしてきました。
また、3年間で県内外のさまざまな人たちとの出逢いがあり、このご縁の延長線上に、多方面に軸足を置きながらやっていく今の仕事の仕方があります。「心理的安全性」と「誰とやるか」をとても大切にしています。

人との繋がりがさまざまな仕事に結びつく

──西嶋さんも島根に来られた経緯をお話いただけますでしょうか?

西嶋:僕は地域おこし協力隊の仕事として、大田市の小中学生が自然体験をする施設・山村留学センターの広報を3年間担当していました。その仕事は月17日、週4日ぐらいのペースであり、残りの時間で映像制作や記事制作をしたいと当初は思っていましたね。島根に来る前は、民俗学の研究者として日本各地のお祭りを取材したり、ムービーを撮影したりしていました。とても商業的なレベルには及ばなかったのですが、いずれ仕事に繋がればとは思っていました。協力隊として山村留学センターでの子どもたちの活動を記録し、サイトやSNSにアップする業務のすべてが訓練で、実績になりました。最初はコネもなく、知り合いの依頼を右往左往しながらやったり、ライター講座を企画し情報発信したりしながら、少しずつ仕事を増やしていった感じですね。

──まずいろんな人と繋がって、次に個人事業主として仕事を取り始める。この段階へ移るとき、ジャンプはありましたか? それとも積み重ねで仕事が増えていった感じですか?

西嶋:僕の場合は完全に積み重ねです。常に仕事がある訳じゃなく、いろんな人の繋がりの中で一つずつ頼まれごとが降ってくる。こちらも自分ができることを棚卸しして、パッケージングし、記事制作や映像制作、リサーチなど事業のタネをいくつか用意していましたが、お金になりやすい映像制作の仕事のウエイトが大きくなっていった部分はありました。ただ、僕自身は記事の執筆も動画制作も同じことをやっているつもりです。人の話を聞いて、内容を調べて、魅力が伝わるように素直なかたちで引き出していく。とにかく「取材」という活動を通じて島根の様々なところに関係ができて、知っていくこと、深めていくことが楽しいんです。

複数のプロジェクトから生まれた“自分の仕事”

──桐山さんは、複業のメリットはどのようなところにあると思われますか?

桐山:仕事の内容も相手も場所も1箇所に限定しないことで、様々な可能性を組み合わせながら柔軟に動けることですかね。色々な場所で仲間ができ、自己表現の場も複数持てるので精神的なバランスも取りやすくなりました。業務量の調整は至難の業ですが(笑)。さらにその複数のプロジェクトが化学反応を起こして、広がったり加速したり、新たな動きに繋がっていく感覚が得られる瞬間は一層ワクワクします!
正直協力隊の任期中は、やりたいことをひとつに絞ったり言語化したりするのが難しく常にもがいていました...。ですが今振り返ってみると、心が動かされた瞬間はいつも人の熱い想いに触れた時だったんですよね。だからこそその想いを形にして可視化したり、可能性を広げるきっかけをつくったりしながら、地域の人の笑顔を未来に繋いでいきたいと思うようになりました。今の自分には複業が合っている気がします。

──人を介して繋がっていくのはおもしろいですね。瀬下さんはいろいろな仕事を受けてらっしゃいますが、どのようにして自分がやりたい仕事を発見しているのですか?

瀬下:コロナ禍で少し難しくなりましたが、あちこち顔を出すことですかね。ポスターやフリーペーパーをつくってほしいというような話は、意外とあります。都会のように巨大なプロジェクトはそう簡単にないと思いますが、ちょっとした制作の仕事はある。
そういった小さな仕事をいくつもやっていると、知り合いが増えてきて、新しい仕事が生まれることもあります。例えば、ある案件の打ち上げで「地域の高校生と下宿をやっている」という話をしたら、若者向けのイベントをやりたいから手伝ってほしいという話になったり、東京でやっている仕事の話をしたら、都会向けの情報発信を考えてほしいという話になったり。

西嶋:パワレルワークがある種の強みになっていく。トレーニングしてハイレベルなスキルを取得したわけではないけど、普段のコミュニケーションから仕事が生まれるのはおもしろいですよね。島根への移住に興味のある方、自分が今何をやれるかが分からない状況かと思いますが、いろんな想像を膨らませながら、移住の窓口やUIターンフェアなどに足を運んでみてください。たとえば、ふるさと島根定住財団はさまざまな顔を持ち、移住者の受け入れや地域作りの伴走、生業づくりをやっています。そうして接点を作りつつ、やりたいことを声に出していくと、自ずと道が開けてくるのではないでしょうか。