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無門関第五則 「香厳上樹」について、もう少し綴ります。 この則に関しては、大筋はあまり前回までと変わらないと思いますので、補足程度です。蛇足かも知れない。 ある一人の僧が、口で木の枝に噛みついてぶら下がっています。 手も足も、働かせていません。 随分苦しい姿勢のように思えますが。 これ、達磨の隠喩なのかな、と思ったわけです。 達磨は、座禅のしすぎで、両手両足が腐ってしまった人です。 手も足も働いてない。言葉で教えることもしない。 何となく、似てる気がして
無門関第四十八則「乾峰一路」について、綴ります。 公案の現代語訳は、こちら。 最終則です。 無門関のしめくくりに選ばれたテーマは「悟りに至る道の入り口はどこにあるのか」。 道の入り口。くぐるべき関。 第一則に繋がるようなテーマです。 どんな世界でもそうなんだと思いますけど、道の形は、螺旋のような形かも知れないですね。 全然まだまだだ、基本がなっとらん、と、思えるようになるのが一つの進歩、みたいなこと、あるじゃないですか。 結局最初の初歩に戻ったのかと思い
無門関第四十七則「兜率三関」について綴ります。 公案の現代語訳は、こちら。 兜率寺の和尚である従悦が出していたという三つの関。 これを即座にくぐれるか。 それが今回のテーマです。 これ、いわゆる悟りの境地から遠い、良くも悪くも普通の状態で出す答えと、いわゆる「悟り」の入り口だけでも覗いたことがある人の答えは、かなり違ってくるんじゃないか、という印象があります。 内容もですが、それ以上に、その答えを出すスピードも。 私は前者なので、うんうん唸って考えてひね
無門関第四十六則「竿頭進歩」について綴っています。 公案の現代語訳は、こちら。 あの講習会の何がそんなに怖いのか。 「オレは大丈夫だもん」と思う人に、「人間は自分が思うほど頑丈じゃないよ」という話を、してみます。 講習中、受講者は、ぐいぐい会に引きずり込まれる人と、比較的冷静を保つ人に分かれ始めます。 私が読んだ資料には、「喫煙者は、比較的、変化の進行度合が遅かった」ということが書かれていました。 喫煙者は、煙草を吸うために、自発的に喫煙所に集まります。 勢
無門関第四十六則「竿頭進歩」について綴っています。 公案の現代語訳は、こちら。 ヤバい講習会シリーズ5日目から。 この頃から、受講者に、いろんな変化が表れます。 6日目からは、日常の軽作業を体験しながら、会での暮らしについて教わります。 初日でもサラッとは触れられますが、初日とは、受講者の反応がかなり違ってきます。 詳しい内容は割愛しますが、要は、初日に比べて「話されることが、受講者の頭にダイレクトに染みこんでしまう」ということです。 これ、恐ろしいのは
無門関第四十六則「竿頭進歩」について綴っています。 公案の現代語訳は、こちら。 前回の続き。講習会の4日目からです。 この辺りから、少しずつ疲労がたまり始めます。 この講習の間、受講者は大きな広間に幾つも布団を敷き、その布団に二人一組で一緒に寝ることになります。 初めて会ったばかりの他人と同じ布団で寝るんです。 連日、わずかな休憩と、食事、入浴等を除けば、ぶっ通しで考えさせられるのに、質のいい睡眠がとれない。疲労が残り始めます。 講習会4日目。 「あなたは
無門関第四十六則「竿頭進歩」について。 公案の現代語訳は、こちら。 「本当に起ったヤバい話」を綴っています。 2日目。講習の進行役が、例えばこんなお題を出します。 「嫌いなものは、なんですか?」 進行役は穏やかに受講者をランダムに指名し、指名された受講者は「嫌いなものはトマトです」「カエルです」「酒が嫌いです」「会社の上司が」などと思い思いに答えます。 事前に各受講者に「必要だから」と聞き取りを行っていたのでしょう。 準備されていた各々の「嫌いなもの」の
無門関第四十六則「竿頭進歩」について、綴っています。 公案の現代語訳は、こちら。 今回は、前回の続き。 前回予告した、「とってもヤバい話」を、数回に分けて綴る予定です。 具体的な団体名は、ここでは伏せることにします。 「どこで起ったのか」は、今回のテーマには重要ではないと思うので。 その会は、農業と酪農を基盤としたコミューンの体をしています。 会員はその団体の敷地で集団生活を送り、農業や酪農に従事し、生産物を分配して食し、余剰生産物を近隣の住民に売り、その
無門関第四十六則「竿頭進歩」について、綴ります。 公案の現代語訳は、こちら。 今回の公案。 これ、非常にヤバいことが書いてある。 ヤバいものはこれまでも、実はちょいちょいあったんですが、メインテーマを概ね健全に考えられるなら、その考察を優先して綴り、あまり触れずにきました。 しかし、今回は、流石にヤバい。ぶっちぎりでヤバいです。 これ多分、普通に生活したければ、真剣に向き合ってはダメな奴です。 哲学的に思考を楽しむ程度ならいいんですよ。 そういう意味で
無門関第四十五則「他是阿誰」について、綴ります。 公案の現代語訳は、こちら。 そもそも私、釈迦と弥勒、どちらがえらいのかもよく解っていませんでした。 お釈迦さまは元々人間。弥勒は最初から菩薩。 だからどちらかと言えば弥勒の方が偉そうな気がする、なんて勝手に漠然と思っていました。 その程度の状態で、ああだこうだと考え、気がついたら今回を含めてもう残りわずか四則。最後まで解らないままというのも何なので、ざっと調べてみました。 いわゆる仏さまランキングは、上から
無門関第四十四則「芭蕉拄杖」について、綴ります。 公案の現代語訳は、こちら。 とりあえずまずは、拄杖とは何か、という話でしょうけどね。 拄杖。杖です。雲水が行脚する際に使います。 でも、ここでは単にそういうことじゃなくて、何かの見立てだということでしょう。 この話は、私には、こう見えました。 「情けは人の為ならず」 持っていれば、与えることが出来るから、与えてもらえる。 持ってない人は、何かと奪おうとしがちなので、奪われる。 おんなじように、されるので
無門関第四十三則「首山竹篦」について、綴ります。 公案の現代語訳は、こちら。 原文をかなり意訳したら、こんな感じになるのではないかと思います。 首山「これ、竹篦と呼んだら、竹篦だとしか思えなくなる。 竹篦と呼ばなければ、その名に背くことになる。 さあ何と呼ぶ」 無門「言葉でもダメ。沈黙でもダメ。早く言え」 それならもう、その竹篦を奪い取って、首山をひっぱたけばいいんじゃないの? まあ、そうされても首山は怒らないだろうと思いますけど、万一「お、おま
無門関第四十二則「女子出定」について、綴ります。 今回は、本則や評唱、頌の内容に添って考える予定です。 公案の現代語訳は、こちら。 文殊菩薩は、智慧の菩薩です。 この世で、自分ほど智慧や分別のある者は数えるくらいしかいないだろうと、そんな自負も持っていそうです。 確かに、智慧は並外れてあるのだろうと思います。 ただ、問題は、分別のほうでね。 ずっと釈迦の近くで瞑想状態に入っている女性を見て、「私ですらそんな傍には寄れない。皆離れて戻っている。なのにどうして
無門関第四十二則「女子出定」について、綴ります。 公案の現代語訳は、こちら。 なぜ、智慧を司ると言われる文殊菩薩は、三昧境の女性を起こすことが出来ず、無知を体現しているとかなんとかの罔明菩薩は、女性を起こすことが出来たのか。 この公案に触れた際「やっぱり女は愚かで無知だからだよ。だから自分に近い罔明菩薩の方に反応するんだろう」などとしたり顔で言う男が、昔はいーーーっぱい、いたかもなあと思うと、少々腹立ちますね。 勝手に想像して勝手に腹立ててりゃ世話ないんですが、