無門関第四十三則「首山竹篦」

 無門関第四十三則「首山竹篦」について、綴ります。
 公案の現代語訳は、こちら。

 原文をかなり意訳したら、こんな感じになるのではないかと思います。

首山「これ、竹篦と呼んだら、竹篦だとしか思えなくなる。
   竹篦と呼ばなければ、その名に背くことになる。
   さあ何と呼ぶ」
無門「言葉でもダメ。沈黙でもダメ。早く言え」

 それならもう、その竹篦を奪い取って、首山をひっぱたけばいいんじゃないの?

 まあ、そうされても首山は怒らないだろうと思いますけど、万一「お、おまえ、警策ってのは、師が弟子に行うものであってだな」などと言い出したら、もっと叩いてもいいかもしれない。


 でも、「私は禅の世界ではシロウトではない」と自負してそうな人は、これもなんだか小難しく考えるみたいなんですけど、今回のような話は、別にそんな難しい机上の話だけじゃなくて。

 例えば。
 目の前に外国人がいるとするでしょ。
 自分もその人も、母国語以外話せないとするでしょ。
 その人が、竹篦を指さして、小首を傾げてキョトン、みたいな表情を作ったとするじゃないですか。
 あなたは何とかして、その竹篦が何であるかを伝えなければなりません。
 こんな状況は、その昔、異国人同士が出会う度に、あちこちで繰り広げられた現実の一コマです。
 さあどうしますか。

「シッペイ」とだけ連呼したって、意味はない。
 黙ってたら、何にも教えられない。
 言葉でも沈黙でもダメ。さあどうする。

 竹篦でひっぱたいて見せるのが、いちばん手っ取り早くないですか?

 実際、オーストラリアの有袋類を英語でカンガルーと呼ぶようになった経緯もそんな感じです。
 カンガルーって、現地の語では「わからない」という意味だそうで。
 西洋人「あれ、名前、何?」
 現地人「知らねぇ」
 西洋人「『シラネエ』って名前だとよ」
 みたいな感じなんですよ、カンガルーって。

 だからまあ、「シッペイ」と唱えながら、竹篦で隣の小僧の肩を叩いて見せたとするじゃないですか。
 それを見た異国人が「そうか。シッペイという名前の『お仕置き棒』なんだな」と思いながら国に持ち帰ったら、子供の躾けで尻を叩くのに使ったり、もしかしたらシッペイで、気に入らない誰かを気絶させるほどの力でぶん殴るようになるかもしれない。
 でもそれでも仕方ないのかも知れません。
 もともと警策のための棒なんだよなあと思いつつ、そうじゃない使い方もおおらかに受け止める。そうするしかない場面はいっぱいあります。

 長い人生を生きていると、従来の物事だけでは対応できないという状況に、人は出会うことが多々あるわけです。
 そういうときは、もう自分で道を切り開くしかない。
 もしもその最適な方法が、「師をひっぱたく」だったのなら、迷わずそれを選択して構わんと、少なくとも無門は言ってくれてるのだと思います。

 言うも良し、言わぬも良し。
 釈迦だろうが達磨だろうが、ガンガンなぎ倒して生きていい。
 ただ、それはあくまでも、必要とあらばということであって、そこを極端に突き詰めると、文化大革命みたいな大惨事を引き起こしてしまいかねないので、多少は注意が必要かなとも思います。
 何でも限度ってもんがあるんです。ほどほどがいいですよ。
 こんなこと言うと、「過去の遺物や人の命に執着するなんて」などと言われるんでしょうか。でも、あれはやっぱり酷いもんね。

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