無門関第四十七則「兜率三関」

 無門関第四十七則「兜率三関」について綴ります。
 公案の現代語訳は、こちら。

 兜率寺の和尚である従悦が出していたという三つの関。
 これを即座にくぐれるか。
 それが今回のテーマです。

 これ、いわゆる悟りの境地から遠い、良くも悪くも普通の状態で出す答えと、いわゆる「悟り」の入り口だけでも覗いたことがある人の答えは、かなり違ってくるんじゃないか、という印象があります。
 内容もですが、それ以上に、その答えを出すスピードも。

 私は前者なので、うんうん唸って考えてひねり出すしかないんですけど、後者の人は、問いを聞いた瞬間にスパッと答えちゃうんじゃないか、という気がします。
「だって、見たもん」って感じで。
 それが科学的に正しいか間違ってるかは別の問題ですが。

 というわけで、まず私の答えは以下の通り。

問1「経典を読みあさり、よりよい師を求め歩いて、修行をするのは、
   結局、本来の自分の本性を見いだすためであろう。
   では、本性とは、どこのところにある?」
答1「本性。すなわち、本当の自分。
   自分は心だけにあるのではない。体にも自分はある。
   そのいずれもが本物。
   よって、『本当の自分』なんてない。
   なぜなら嘘の自分なんてないから。
   『本当の自分』は、
   『気に入らない自分を嘘だと思いたい』という
   欲から生まれる」

問2「本性が解ったなら、生死も超越できるであろう。
   では、今際の際、どのように解き放たれる?」
答2「夜眠るときも、臨終の際も、目を閉じ意識を落とす。
   ならば、昨日の夜と同じように、目を閉じればいい。
   …理屈の上ではね。どんな死に方かにもよるけれど」

問3「生死が超越できたなら、死後の行き先もわかるだろう。
   死して心身がバラバラになったら、どこに行く」
答3「体が分解されたら、見えない原子のレベルにほどけて、
   この世界に還るだろう。
   大気となって包み、雨となって潤し、
   大地となって肥やし、多くの命を育むといいと思う。
   …しかし。体はともかく。心は?」

 私にはこの程度が限界です。

 しかし。
 ここからは、完全な想像なんですが。
 いわゆる「悟り」の入り口を覗いたらしき人は、もしかしたらこんなことを言うかもしれないという気がするのです。

問1「本性とはどこにある」
答1「意識のいちばん深い底」

問2「では、生死はどう超越する」
答2「本当の自分が脱する。
   そして自分の体を外から眺める。
   死ぬのは体だけ」

問3「では、死後向かう場所は」
答3「世界の全て。自分は空気であり、大地であり、木であり、
   岩であり、虫であり、光り輝く何かであり、すべての存在。
   すべてと融合できる」

 以上の3つの答え方は、単なる「想像上のファンタジー」ではなく、人間がある種の極限状況に置かれたとき、体験することがある事柄です。
 解離症状。臨死体験。自他の融合。
 前回の公案の考察で記した、ある実例の中でも、実際に見られたらしい現象です。

 ある種のいわゆる神秘体験をしてしまった人は、この手の問いに対する回答を、想像ではなく全て実体験として提示するんじゃないか、という気がします。
 ここが多分、悟りの世界を覗いたことすらない人とは、決定的に違うところです。
 何もかも、私の個人的な想像ですけど。

 ちなみに。
 極限状況にさらされ続けて、自我に損傷を負った人は、時間の感覚が失われてしまうことがあります。
 時間の見当識障害。
 そういう人が、頌を読んだら、「ああ、わかる。全くその通りだ」と言うんじゃないでしょうか。

 前回同様、やっぱり、とても危険です。
 絶対に体験しようとしないでください。
 最悪、一生病院通いです。

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