無門関第四十六則「竿頭進歩」①

 無門関第四十六則「竿頭進歩」について、綴ります。
 公案の現代語訳は、こちら。

 今回の公案。
 これ、非常にヤバいことが書いてある。
 ヤバいものはこれまでも、実はちょいちょいあったんですが、メインテーマを概ね健全に考えられるなら、その考察を優先して綴り、あまり触れずにきました。
 しかし、今回は、流石にヤバい。ぶっちぎりでヤバいです。

 これ多分、普通に生活したければ、真剣に向き合ってはダメな奴です。

 哲学的に思考を楽しむ程度ならいいんですよ。
 そういう意味でなら、大丈夫です。
 それはそれで、一定の意義はあると思います。
 でもこれは、何だか「実践しろ」と言ってるような気がするんですよね。
 これの後は残すところあと二則だし。

 では、ここに書いてあることを実践するとは、どういうことなのか。
 そして、実践できてしまったら、どうなるのか。
 それを、これから綴ります。
 言っときますが、これから私が書くことは、実例があります。
 多分長文になると思います。

 頌を読むと、無門もこれのヤバさを、多少解ってたんじゃないかという気もします。「頂の門に目が眩んで盲目になり、定盤星を見誤る」「盲人が他の大勢の盲人を連れて行く」って書いてるから。
 もっとちゃんとガッツリ注意喚起すりゃいいのに。
 まあ、元々『無門関』は修行僧向けのテキストで、一般人向けじゃなかったからという事情もあるのでしょうし、よしんばどれだけ強い言葉で書いたところで、「逆説的賛辞だ」と思われたら結局同じですけどね。

 まずは、公案のストーリーをベースに、綴ります。
 これを読んでるあなたは、この公案を師から出されたお弟子の立場に立って読み進めてください。

 百尺の竿の先。
 公案に取り組むにあたり、まずは、よいしょよいしょとよじ登る自分を想像しましょう。
 とんでもない高さですけど、それでも、「竿」ですから、ちゃんと手で掴んで普通に上れるように思えます。
 体力と気力さえ尽きなければ、理論上は、物理的に可能です。
 そして、ついにそのてっぺんにたどり着く。

 そこから見える光景も、非常に感慨深いものがあるでしょう。
 例えば、富士山の頂上から眺める日の出は、美しい。
 それは一歩一歩、自分の足で、登山道を踏みしめて上ったからこその美しさです。
 しかし、ここからが公案の本題です。

 到達した竿の先。あるいは富士の頂上。そこから、一歩踏み出す。
「どう踏み出しますか」というのが、師から出された問いです。

「竿の先に踏み出すなんて、無理だよ」と思うでしょう。
 普通はそう思います。掴めるものがないんだもん。
 そのまま踏み出したら、落ちて死にます。
 無理。どう考えても、物理的には不可能なのです。

 しかし。
「無理です」と答えたら、師から「本当に無理か? よく考えろ」と言われます。
 よく考えろとだけ言われて突き放されます。

 首を傾げながら、それでも師の言うことだから何かあるのかも知れないと、もう一度真剣に考え始めます。
 それでも、やっぱり無理だとしか思えませんから、しばらくすると、疲れてきます。解らない問題を解かされると、頭が疲れて眠くなるでしょう?

 そうすると、師から「ぼけっとするな。しっかり考え続けろ」と叱られます。何なら警策でひっぱたかれます。
 解るまで考え続けろと言われます。
 しかし答えは教えてもらえません。
 従わざるを得ません。ひたすら考えさせられます。
 昼も夜も参ぜよ、ってなもんです。

 あまりのわからなさに、「これは何かの比喩なんだ」と考え始めるかもしれません。
 百尺の竿は修行の比喩。竿の先は、大いなる気づきの比喩。
 実際、こんなふうに今回の公案を捉えている人は、たくさんいます。
 それはそれでいいです。むしろ、全て比喩であるとして、思索の段階で止まれるなら、大した問題はないんですよ。
 それは言うなれば、竿の先という現実に足をつけたまま考える、みたいな感じではあります。

「きっとこうに違いない」
 あなたの頭がひねり出した答えを、師に伝えます。
 しかし、このとき師はおそらく、「それでは足りない。もう一度考えろ」と、あなたの解答をリジェクトします。
(※在家の参禅者相手のときの現代の和尚さんなら、多分この段階でも良しとしてくれるでしょう)

 あなたは、ずっと考え続けます。真剣に。昼も夜も。

 そうするとね。
 あなたは、突然。
「あ。自分は今、百尺の竿の一歩先にいる」と思います。

 そして師に「私は今踏み出せました」とか言い出します。お堂の中で。

 恍惚として言いながら、ぼろっぼろ涙を流します。
 前にも何度か公案に出たでしょう。「体中から体液を出して乾ききる」と。悟りに至る瞬間は、その目から涙が溢れるのです。
 もしかしたら鼻水まで流れ、涎も出るのかも知れない。

 そんなあなたを、師は「お前は今、悟りに至った」と、認めます。

 その後あなたはどうなるか。
 取り巻く世界が突然、光り輝きます。
 この世の全てが、とても美しく見えます。
 それは、これまで一度も見たことのない美しさです。
 どうして今まで、この美しさに気づかずにいられたのか、不思議なくらいの美しさです。

 そして、「わかった」「すべてがわかった」と感じます。
 同じようにわかったらしき人の心が手に取るように解ります。
 相手も同じように自分のことが解っています。
 何がどうわかったのかは、この瞬間はまだ、言葉では説明できません。
 でも、それでもあなたは「わかった」と心から思います。
 この上ない幸福感です。

 というわけで、「どう踏み出す?」の問いに対する、この公案に真剣に真正面から取り組んだ人の答えは、例えば、「私はもう竿の先にはいません」です。

 普通に読めば、意味が分かりません。
 質問「竿の先からどう踏み出す?」
 回答「私は、竿の先から踏み出しました」
 問答の体を為してない。
 言葉を超えていると、言おうと思えば、言えなくもないですね。

 私の言っていること、解りますか?
 今私が書いたこと、だいたい公案に書いてあったでしょう?
 じゃあ何かの例え話をしてるんだろう、と、思いますか?
 ところがどっこい。これは、比喩ではありません。
 現実に、起こることなのです。

 そしてそれは、とても恐ろしいことなのです。

 次回、私が、知識として知っている実例を、ひとつ記します。
 さすがに「本当に竿の先から飛び降りて死んだ僧侶がいる」という意味での「実例」ではありません。
 先程書いたような一連の流れの出来事が起ったという意味です。
 大昔の話ではありません。外国の話でもありません。
 現代の日本国内で起った事例です。

 次回予告。
 関連するお題は「あなたはなぜ、腹が立つのですか?」です。
 これで、次回私が何を書くつもりなのか、ピンときた方もいらっしゃるかもしれませんね。

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