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2021:再起動の前に——リベラル、シラス、文学(7000字)

これを読んでいるということは、とりあえず今年も生き延びましたね。みなさんお疲れ様でした。

ほとんど文章を書いたりせずインプットに集中できた1年でした。2022年もまだまだお勉強に充てるぞ~とは思いつつ、いろんな人からいろんな知識やノウハウを授かっているので、さすがにそろそろ再起動して成果物を発生させていくべきか。まあぼちぼちやります。もし「こういうやつ読みたいからおまえ書け」みたいなのあれば教えてください。

以下、2021年の個人的総括をつらつら書いていきます。

SNS:ポストモダンもどきの中道旋回?

今年もTwitterという暗黒世界は大変でした。僕はそういうのをわりと覚えている気持ち悪い炎上ウォッチャーなので、話題になったトピックを順不同で列挙してみましょう(「炎上」以外の案件も入ってますが)。

●北村・呉座オープンレター騒動(+與那覇・辻田)
●DaiGoの差別炎上からの東大教授本田由紀による慶應蔑視発言
●ニルヴァーナの赤ちゃんジャケット訴訟
●J.K.ローリング不買運動
●東京オリンピック小山田圭吾と90年代カルチャー
●フジロックのMISIAの君が代
●密音楽フェスNAMIMONOGATARI
●4℃プレゼントする男ダサい問題
●荒木優太による文學界への抗議
●朝日新聞文芸時評をめぐる鴻巣・桜庭論争
●親ガチャ
●小田嶋隆に無限に絡まれる綿野恵太
●ファスト映画
●共産党の表現規制
●温泉むすめ
●室井佑月ツイフェミ大戦争
●ミラベルの眼鏡ヒロインとポリコレ
●ラーメン評論家おじさん構文
●樋口恭介ハヤカワ絶版本企画撤回
●豊崎由美TikTok批判
●江戸東京博物館のきらびやかな遊郭問題 などなど……

気になったトピックがある方はぜひ調べてみてください。調べたらたぶん普通に嫌な気分になり、「世界というのは大変だな……」みたいな心境になれると思います。なので全然おすすめしません。

ともあれこういった事案の背景として確実に言えるのは、2010年代後半から今に至るまで「意識高いリベラル」的な考えの人たちが影響力を増していること、そして本来は「旧来の社会へのカウンター」であったはずのそうした動きが今やむしろ過度に権威的・抑圧的・啓蒙的なふるまいに転じてしまっているケースがしばしば見られるということ。ジョセフ・ヒースが「ウォーク=社会問題に対して目覚めた(wake)人々」と呼んで警戒しているやつですね。

ただ、立憲民主党が野党共闘の結果今回も普通に負けていったことや、若年層に自民党支持が多いこと(とはいえ彼らは社会的な価値観=ジェンダー関連とかにおいてはむしろ当然のようにリベラル寄りだったりもする)も含めて、そうしたいまの「リベラル」の戦法がもはや有効でないと明らかになってしまったのが2021年じゃないでしょうか。2020年代は「リベラル」を相対化するような言説が巷間に増えていくと思います。大学人がそれに乗っかるかどうかはちょっと分からないけど。

90年代~ゼロ年代のフェミニズム界隈の状況を知っていれば分かることですが、急進的な議論は揺れ戻しを生む可能性も高いというもの。雑な「批判」をぶちあげる「Jリベラル」「ツイフェミ」的な人たちは、はっきり言ってリベラリズムやフェミニズム本来の価値を毀損しているとすら思います。僕はもうそういうのが嫌なので、元々は「ポストモダンもどきのリベラル」だったはずなのに、今年は中道左派くらいのところに旋回(?)して落ち着いてるところがあります。

(なお、こういう話をすること自体が既存の社会構造を温存・助長するのだ、的な反論は容易に想定されるので、それに対しては「あなたがそう思うならあなたにとってはそうなんだと思います」と先んじて答えておきます。だいたいの場合こういう議論はロジックで応酬したとしても不毛な平行線をたどり、最終的にはそれぞれの「世界観」あるいは「信仰」の問題に帰着するので。。)

念のため書いておくと、誰かが世界に対して「声を上げる」のを僕はまったく否定しません。そこで生まれたいろんな議論の中で、いいものは支持するし、悪いものは支持しない。それだけです。

そしてその「いい/悪い」の判断基準は結局ある程度恣意的なものにならざるを得ないわけで、だからこそ、できるだけ未来を見据えた正しい判断をできるようになるためにまずは歴史やカルチャーを学んで文脈を知る。いま僕がやれるのはそういうことだと思っています。

シラス:楽しいインターネットへの回帰

さて実生活に関しては、思い返せばつい最近の2021年3月まで学生だったのですが、こう見えても学生時代にはサークルでイベント運営をしてメディアに出たり、ライターとして取材をしたり、学園祭で企画を作ったりと、わりとアクティブに活動をしていました。驚くべきことです。

まあでも本来それがちょっとおかしかった。僕はそもそも中学のときにアメーバブログに入り浸って、ネット友達と虚無のようなチャットをしまくったりモンハンにまつわる長文ブログを書きまくるなどしていたダメなオタクだったわけです(いまの「推しを推す」的な意味での「オタク」ではなく、リアルはクソゲー!みたいなノリのやつのほう)。

それが大学ではなぜか半ばリア充のような動きを見せたり、しかも左翼オブ左翼・小森陽一の薫陶を受けた結果、トークイベントで公衆の面前で上野千鶴子と会話をしたり朝日新聞に投書をして掲載されたりと、なぜだかやたら意識が高い感じになってしまった。これはまずい。

というわけで、今年はそういう足跡を踏まえつつも無事に「原点」に戻ることができたと思っています。もっとも、原点と言っても当然アメーバではありません。(あれはあれで愛すべきサービスですが基本的には無の世界です)。

いま僕が夜な夜な観ているのは「シラス」という動画プラットフォーム。基本すべて有料だったりコテハン制だったりと、哲学者・東浩紀の思想がサービス設計の細部に反映されつつも、特に東浩紀とは関係ない面白いチャンネルや番組も普通にたくさん放送されています。CXアワード的なものも受賞したらしく、ちゃんとしたサービスですよ。

(誰に向けてか分からないけれどひとつエクスキューズをつけておくと、ゲンロンとかシラスとか言った時点で、大学の人やサブカルの人の中には「ああ東浩紀にハマってるのね笑」みたいな反応を示す人々がいるのは承知しています。もちろん毎度うぜ~~と思うわけですが、そもそもそういうふうに「東浩紀」とか「在野研究/ジャーナリズム」とか「ベンチャー企業」的なものを見下す態度自体がアカデミズム勢やサブカル勢のよくある様式のひとつに過ぎないので、類型的な反応キタ!いいね!類型やってるね!くらいに捉えとけばいいんだろうなと。)

また番組を観ながらコメントをしたり、レビューを書いたり、視聴者どうしTwitterで相互フォローになったりするうちに、「ガチガチに密ではないけれどなんとなくコミュニティ感のある空気」が作られているのも嬉しい。12月にはオフ会にもちょろっと参加させていただきました。

普通なら交わることのなかったいろんな人と交流できるし、これはまさにアメーバブログをやっていたときの高揚感に似ていると感じます。「Twitterのせいで忘れてたけど、インターネットの楽しさって本来こういうやつじゃん!」という気持ち。今後もゆるく大事にしていきたい繋がりだなと思います。アカデミズムの外で「知的なもの」を求めてる人がこんなにいるんですね。

(ここでまた謎エクスキューズ。シラスやそのコミュニティの話とかをすると、リベラル個人主義にかぶれた意識高い人たちは「ホモソ」とか「慣れ合い」とか「信者」とか言ってくる場合があるわけですが、なんらかの「界隈」というのは外から見ればつねにある程度キモく見えるものであって、ほんとは大学とかもそうなのです。そういうことが分からない人は一生進歩主義的な個人主義をやってればいいと思います。僕はむしろ個人主義一辺倒というのはわりと危うい思想だと思って警戒してます。)

文学:2021年コンテンツベスト100準備中

1月末くらいには公開したい。小説、映画、テレビ、アニメ、漫画、演劇、音楽その他もろもろ、ジャンル混淆で100位まで順位をつけます。動画配信にしようかとも思ったけどたぶんnoteになりそうです。(企画自体は、私淑する批評家・さやわかさんの名物企画の真似です。)

で、そもそもなんでそんなことを考えてるのかというと、

①いわゆる「文学」だけじゃなくて様々なカルチャーをフラットに捉えるための思考回路を作りたいから。

②作品それ自体(≒テクスト)だけを見るのではなく、メディアの性質、受容のされ方、思想的文脈といった「外部」の条件を踏まえた上でコンテンツのことを考えたいから。

この2つに尽きます。

しょせん学部生クオリティとはいえ、大学の文学部ではそれなりにちゃんと勉強していたつもりでしたが、やはりそれだけではこの時代と格闘できない。「純文学」が今やサブカルの1ジャンルとして成立している現状にあって、「近代日本文学」あるいは「夏目漱石」だけを武器としていてはなかなか専門領域を飛び越えられない。それはとても寂しいことです。だってただの「漱石に詳しい文学ファン」になるために文学やってるわけじゃないんだから。

領域横断的に面白い話をするためには、自分のよく知る領域の話を、外の人にも分かるように抽象化・構造化して語ることが必要です。たとえば僕のいた国文学研究室は、上代・中古・中世・近世・近代といろいろな時代を専攻する人がいる場所なのですが、そのせいで「専攻の時代が違う人とは文学の会話ができない」的な状態が横行していた。でもちゃんと抽象化・構造化すればほんとはけっこう共通言語を持てるし、会話できるはずなんです。当の仲間たちにはなかなか理解されないけど。

要は、近代文学を語るやりかたを応用すれば僕たちは現代のカルチャーや社会問題や様々なことを語ることができるはずで、じゃあやろうぜ、みたいなノリ。したがって僕は「研究」ではなく「批評」への、半ば必然的な転向を遂げたということになります。(だからさやわかさんのシラスチャンネルなどを基点に粛々と勉強中。。)

余談ですが、文学研究や批評のひとつのパターンとして、「この作者の作品Aと作品Bには○○という共通点があるが××という点で異なっている」「したがってこの作者/作品の××に関する問題意識/描き方は●●というような変化を見せている。そしてそれは当時の社会の△△に関係しており~」みたいな論調のやつがあります。

この場合、前半部分の「AとBをいかにして関係づけるか(あるいは関係づけないか)」という考え方がきわめて重要だし汎用性も高いと思います。メタ視点を持って、AとBのあいだに共通点と相違点を見出すこと。接続と切断。

たとえば、Twitterで炎上していた温泉むすめ問題の争点のひとつは「こういうキャラや絵の存在(A)が現実の女性差別(B)を助長・温存している」というような言説で、この場合は「したがってBをなくすためにまずAを消すべき」みたいな主張なわけです。これに説得力を感じるかどうかは人それぞれだと思いますが、もっと極端な例だと「いまのアメリカの悪政(A)はディープステート(B)のせいである」という陰謀論さえ爆誕します。

でもほんとに、これくらい極端な接続の仕方をしてるくせにあたかもそれが真理であるかのように何かを語る「有識者」とかってまあまあ普通にいるので、気を付けたいですね。ちゃんとこっちで切断したい。

また、研究や批評ではなく文学やその他コンテンツを楽しむことそれ自体について言えば、そもそも「フィクションを見て感動する」こと自体が「主人公の気持ち(A)と自分の気持ち(B)のあいだに共通点を見出す」みたいな構図に基づいていることも多いと思います。つまりそのときAとBの境界線は薄れている。本当はAとBはまったく別のものなはずなのに、でもなぜか「同じだ」と錯覚してしまう、その錯覚をいかに発生させるかがフィクションの要点のひとつだと言えます。そういう意味では、これもAとBの関係の問題。(もっとも、「推し」文化以後の世界ではこの構図はもう少し複雑になってきているとも感じます。)

……と、あんまりすべてを「A/B」の二項対立で語るのも良くないのですが、少なくとも、僕がなんで文学やカルチャー批評に興味があるかという理由の一端だけでもお伝えできていたら嬉しいです。

会社:問題意識をつなげるツールとして

普通こういうことはnoteで真っ先に書くトピックかもしれないのですが、じつは大学を卒業したあと、広告系の会社で仕事もしています。内容はだいたい家で何かの数値を見る仕事が多いのですが(たまにクライアントのところにも行ったりします)、ありがたいことに、今のところ特にストレスなく過ごしています。

(「結局おまえもなんだかんだ言いつつ社会に適合してるのか」とか言ってくる輩がたまにいますが、そういう人は「社会」のことも「適合」のことも「オルタナティブ」のことも「革命」のこともどうせあまり真面目に考えことがない人なので秒で無視します。)

いまの業務のいいところとしては、一応ロジカルシンキングの練習になるところでしょうか(仕事を練習呼ばわりすんなと怒られそうだけど)。結局のところ本を読むにせよ文章を書くにせよロジックが重要になってくるので、そのための頭の体操は日常的にやれている感じです。

また広告系の会社に入って良かったこととしては、「広告とは何か」みたいなことについて当事者意識を持って考えることができる点。そもそも僕は「ある組織に所属している」というステータスを、ものを考えるためのツールとして捉えているところがあります。どういうことか。

「○○について考えるのが重要」というのはよく言われますが、正直、人って「自分に直接関係のないこと」=「問題意識を持てないこと」についてはあまり考えようと思わないものです。あるトピックについて問題意識を持つためには、それこそ抽象化・構造化して「これは自分の興味あるあれと同じ構造なんだな」と共通点を見出すか、歴史や文脈を学んで「自分の興味あるあれと関係してるんだな」と関連性を見出すか、もしくは自分のステータスを顧みて「これは俺の昔やっていたあれと関係してるんだな」と思うか……大枠としてはだいたいそんなものでしょう。

僕はたまたま広告関係の会社にいるおかげで広告のことを考えられるし、たまたま東大にいたおかげで文理融合や日本の大学制度のことを考えられるし、たまたま高校の剣道部で池波正太郎の時代劇をやったおかげで20世紀のチャンバラ劇の系譜のことを考えられる。そういう意味で、「広告」という現代社会の一大テーマを自分の関心領域にできたのは大きいと感じます。

いまはコンテンツと広告の境目がなくなる時代、ユーザー自身が広告になる時代、お金を払って広告をスキップできるようにする時代……なんていろいろ言われているわけですが、特に1980年代以降、現代社会にとって「広告」は切っても切れない存在ですよね。そもそも我々がなんでテレビやYouTubeを「無料」で観られているかというと、広告を見ることで、お金の代わりに時間を明け渡しているからです。それ自体がじつはかなり不思議なことですし、なんならいまの10代なんかはサブスクにも慣れているので「自分が何に対して、なぜお金を払っているのか」みたいな自覚はこの先どんどんぐちゃぐちゃになっていく可能性が高い。美術界隈のNFTなんかもそういう流れに関係する要素のひとつです。

それに、人文学や批評というもの自体が原理的にすごく広告的なものだなと思います。たとえば文章を書いていてドゥルーズ(という高名な哲学者がいるのです)を引用するのって、要は「ドゥルーズを引用するとみんながこういう風に思ってくれるから」みたいな文脈に基づいているわけで、もし無名の哲学者がドゥルーズとまったく同じことを言っていたとしても別にそれは誰も引用しないわけです。

つまり確固たるエビデンスとか実証とかじゃなくて、ドゥルーズは知名度があるとか、ドゥルーズは日本でもよく売れてるとか、そういった「なんとなく」の集積に支えられているのが人文学の本質であって、変に高尚ぶるのではなくその広告的いかがわしさを認識・実践する重要性は今後さらに増していくと思います。(これは僕が東浩紀や千葉雅也や國分功一郎をすげーなと思ってる理由でもあります。)

あと純文学の書評だって、どんなに高尚っぽい感じを出してたとしてもぶっちゃけ「広告」的なものではあるわけだし……まあいずれ広告についてはしっかり文章にまとめたいですね。

【追記】
大事なこと書くの忘れてた!!!僕が上記のシラスに注目してる大きな理由のひとつに、「広告モデルのサービスじゃないから」という点があったのでした。東さんもよく言ってるけど、広告収入モデルだと再生数を稼ぐことを第一に考えなきゃいけなくなって結果的に消耗する、しかしシラスはそうではないのだと。口先だけで「反資本主義」を標榜してるようなリベラル大学人より、広告に頼らない生態系を作ってるシラスのほうがよほど「オルタナティブ」だと思います。

2022年:

抱負。なんだろうなー。最近は身体的な衰えをいろいろと感じて落ち込みがちなので、まず健康でいたい。なにか読んだり書いたり観たりするのってそもそも元気じゃないとできないですよね。ある程度の衰えは仕方ないので、これからは撤退戦をうまくやりたい……。大ルッキズム時代を「おじさん」がどう生き抜くか、人生の先輩たちにいろいろ学ばせていただきたいです。

あと冒頭にもちょっと書きましたが、カルチャーへの理解度の基盤(?)が安定してきたなと感じたら創作のほうにも本格的に手を出していきたいなと。小説って自由度が高すぎるぶん僕にとっては歌詞とかより圧倒的にむずいし、批評はそもそも文脈を分かっていないと的外れなことを書くことになっちゃうので、ハードルは高いんですけどね。。がんばりたい。同人誌なのか賞への応募なのか、アウトプットの形はまだ考え中。モチベーションのある人がいたらぜひ何か一緒にやりましょう。

(↑創作といえばこれも今年リリースしたんでした。歌詞担当したから聴いてね!!)

では良いお年を。

【追記】
ブログも書いたよ。見てね!!抽象的な表現だけど、中身はnoteに書いたのと同じようなことを言ってるつもりです。たぶん。

【追記2】
あずまんに褒められた。


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