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秋のお散歩日記 文化の日はやっぱり晴れの日② まだ薔薇が咲いていた

こんにちは、今回もちょっと長いです。
個人の考えです。
そんな考えもあるなーと、寛大な心で、お時間ある方、お付き合いくださると嬉しいです。

文化の日に訪れた小高い場所にある公園の続きになります。

まだ薔薇が咲いていた

先日、息子とタコのような遊具のある公園に行ってきました。
その公園はキレイに、それはそれはキレイに花壇が整えられていて、お花もとてもキレイでした。でも何だか、しっくりとこない。その時は、技術不足なのかもしれませんが、しっくりとくる気に入ったお花の写真が撮影できませんでした。街中の何でもない所にふとあるお花や雑草や光、そんな撮影の方が私には向いているのかもしれない。キレイなお花の撮影は難しいし、そんなに楽しくないなー。そんなことを思っていました。

小高い場所にある公園の山頂の方に行ってみると、キレイに整えられたイングリッシュガーデンのような花壇に、薔薇などのたくさんのお花が咲き乱れていました。そこは、まるで楽園。
もう薔薇は散ってしまった、と思っていたので、まさかの薔薇の出現に大興奮。しかもまだ蕾もある。やっぱり薔薇は憧れで、一度はきちんと手入れのされている薔薇の写真を撮影してみたいと思っていたので、願ったり叶ったり。

今回、久しぶりに花壇のお花をじっくりと撮影して思ったこと。
花壇のキレイなお花の撮影は楽しくない?そんなことない!違った。
やっぱり私の力不足だったのだろう。とっても楽しかった!のだから。
手入れをされているお花もやっぱりキレイだし、美しすぎて美しすぎた。

光の加減とか、お花の状態とか、心の余裕とか(きっと、これが一番大きい)、色々な条件もあるのだろうとは思うのだが、どんなお花の撮影も楽しいし、楽しかった。
行動すること撮影すること続けることで、うまくできてもできなくても、次につながる何かが残る。キレイなバラの撮影に間に合って出会えて良かった。続けて良かった。
今日の光はとっても美しかったから。

小さな花束
後ろから
こんにちは
色々なお花が咲いている
まさに楽園だ
こんにちは
よろしくお願いします

「はいよ」おばちゃんっぽい
「よろしくってよ」お蝶夫人っぽい
「よろしこ」昭和っぽい
どちらがお好みですか?
花火のような
ダリアかな?
カクタス咲きというらしい
開きかけ
咲きかけも美しい
キラキラ
良い光に恵まれて
四季桜?
輝いていた
薔薇への小道
紫色が可愛らしい
菊も見頃
なかよし
明かりを灯したランプのよう
蜂だ!
羽音がブンブンブン
お食事中にすみません
何だか可愛らしい
薔薇の名前はわからない
わからないけれども
美しいってことはわかる
スーハーと深呼吸
甘い香りが漂う癒しの空間
幸せ時間
皆さんにも届きますように
どの薔薇も違って
どの薔薇も美しい
キレイな光
優しい光
お気に入りの一枚
葉っぱだって美しい
うつむき加減が健気で儚い
こちらもお気に入り
儚い 尊い 萌え
あー美しい光
こんな瞬間に出会えたことに感謝
真っ赤
菊と薔薇と紅葉
色があふれている
コスモス
コスモスもいい感じ
良き光
今日はみんな良い顔に撮影してあげれたよ
紅葉も真っ赤
また飛行機!
「私も飛んで何処かへ行きたい」
「バイバイ、またね」
ススキに見送られて

「うわー!キレイな光」撮影するたび、カメラを覗くたびに感動があります。この光に出会いたくて、私は撮影しているんだなーと思います。
こんな景色に出会えたことに、感謝です。

私が写真を撮影すること

独学で好きに撮影をしていて、専門的な技術や知識があるわけではないです。カメラは10年ほど前のオリンパスのミラーレス一眼PEN Lite E-PL5を使っています。ミラーレス一眼としては、今では低スペックのカメラです。実はファインダーつけていないし、三脚使ったこともありません。 
私がカメラに求めること、それは軽いこと。どこにでも連れて行けて気軽に撮影できる、これがもっとも重視することです。だから、レンズも軽いもの、M.ZUIKO DIGITAL 25mm F1.8を主に使っています。
コンデジや携帯でもいいけれど、レンズを楽しみたい!を叶えてくれたカメラです。
フルサイズの高性能のカメラ、高価なレンズに憧れます。しかし機材やレンズが大きくて重い!データも重い!そして値段も高いー。カメラやレンズのスペック、値段と描写は正比例だと思います。撮像素子が大きいほど緻密で繊細な表現ができるし、高価なレンズほどそのレンズならではの、なんとも言えない表情や描写ができると思います。一度はライカで撮影してみたい!という願望はあります。
プロのカメラマンになりたいか?そうではないなー。
モデルさんや芸能人の撮影をしてみたいか?それもないなー。
室内での人工的な光の中、重い高性能な機材で撮影することを私は望んではいないですし、そんな技術もないです。
私は好きなもの以外、撮影したくないなー。
これではプロにはなれない。

今やスマホでも素晴らしい写真は撮影できます。スマホの撮影も大好き。そして、カメラも誰もが簡単に手にできる時代。そんな中、写真を撮影する意味、私が撮影する意味って何だろう?ふとそんなことを考えます。

私には、私の身の丈にあった機材と撮影がいいなー。
どこにでもいる主婦がどこにでもある風景を、身の丈にあった機材で撮影する。それが、今の私にできることだなー。
日常の何でもない、見逃されてしまいそうな光や風景、そんなことを撮影できて、誰かが「キレイだねー」って共感してくれたり、「下手だなー」って誰かが嘆いてくれたり、「こんな風に撮影できてズルイ」なんてたまに誰かが嫉妬してくれたり、「写真撮る暇なんてないよ」って誰かが悪態ついてくれたり、「私もカメラはじめたい」って誰かが思ってくれたり、自然ってキレイだねって誰かが気づいてくれたり、少しでも誰かの心に何かが届いて、それがきっかけで行動を起こす力になるような、そんな写真でありたい。そんなことを思って、撮影、投稿しています。

カメラは、毎回撮影するたびに私の中に感動があって、新しい発見があります。パソコン、カメラ本体、レンズ、ハマりはじめると沼になる要素がたくさんありますが、はじめに一式揃えてしまうと(デジタルであれば尚更に)、延々と一生楽しめる最高の趣味だな、と思います。

「あんな風に撮影してみたい!」焦がれて撮影してみても、あんな風に撮影できないことが多々あります。何度挑戦してみても。
でも、そうしかできないってところに、その人の個性があるのだと思いますし、思いたいです。

高校生の頃の美術の教科書に載っていた言葉がずっと心にあります。
物持ち良し子。高校生の頃の教科書は、この教科書だけを処分せずに、今でもたまに眺めています。

美術 自然から学ぶ 1 
著作 佐藤 忠良ほか十一名 
発行者 株式会社 現代美術社 

作家の影響を怖れない
 どの作家でも、内面の世界と表現がひとつになった独自の世界を持つが、それは先天的なものではなく、先人の影響を受け、長い努力と混迷の末に、ようやく獲得したものであろう。
 「午前の室内」を描いた秋山一郎君は、高校三年生である。彼は、一、二年のころ、夢中で描き迷いながら、さまざまな作家に傾倒してきた。当時描いた下の絵を見ると、岸田劉生きしだりゅうせい三岸好太郎みぎしこうたろう、そしてワイエスやモディリアーニなどにどんな心境で追体験していたかがわかる。
秋山君はいう。「モデルがいなくて、自分を描く。・・・・・靉光あいみつのような強烈な表現ができなくてじだんだを踏む。安井曾太郎やすいそうたろうの少年時代の自画像が好きで、同じポーズで描くが、自分の無力が身にしみる。」
 絵の何に心をとらえられるかは人によって異なるかもしれないが、内面の大きな振幅は自己省察じこしょうさつの手掛りとなることは、フェルメールの世界に近づこうとした「午前の室内」を見てもうかがえる。

美術 自然から学ぶ 1
こんな素晴らしい絵が描けているのに
それでもじだんだ踏むのか・・・
秋山君の言葉は
高校生の私の心に鮮烈な印象を残しました
あのゴッホだって
たくさんたくさん勉強して
描いていた

中心から描く
 ゴッホは手紙のなかで、傍点までつけて書いている。
「目下、ぼくは手と腕の素描にあたって、『輪郭からかかってはいけない。真中からやるのだ』というドラクロワの素描論をさかんに実践中だよ。この題材は楕円形で描き始めるのには実に都合がよい。ぼくの狙いは手を描くのではなくて、動作、、を描くことだ。数学的には正確な顔ではなく、全体の表情、、が狙いなのだ。たとえば、畠を掘っている男が顔を上げて風の匂いをかいだり、しゃべったりするときのやつだ。要するに生きた、、、感じなのだ。
 この例は下の図版で、すべての線が内部から生まれるように描かれている。三ヶ月ほど前に描いた上の図版と比べると、土だらけの農民の息づかいが感じられる。

美術 自然から学ぶ 1

芸術作品は、人間の内部からだけ生まれる。 芸術は、人間の神経・心臓・頭脳・目を通して形成された映像のフォルムである。
 自然は、芸術が滋養分を摂る国土 雄大なそして永遠の国土である。
自然は、たんに目に見えるものだけではない。魂の映像であり、眼球の裏の映像なのである。
ぼくは自然に即して描くのではない。自然から何かを取り出す 。あるいは、自然という豊かな皿から何かをすくいとるのだ。(ムンクの手記から)
エルヴァルト・ムンク(1963−1944/ノルウェイ)

美術 自然から学ぶ 1

秋山君の言葉以外はあまり覚えていなかったのですが、いま読み返してみると、芸術や自然への根本のような、とても勉強になることが書かれていました。教科書って大事ですね。そして、感受性の高い学生の頃に、その良さを知っていたらなー気付けたらなーと思いました。その手引きをするのはやはり大人で、ちょっとしたことへの感動、自然の中での体験が芸術というその人自身を形作っていくのかな、と感じました。

中学生の頃、数学の先生が話してくれたことを思い出します。
「もし、今わからなくても大人になってから、あーそういうことか!ってわかる時がくるから。勉強してて良かったって思える時がくるから。だから、学んだ方がいいよ」中学生の私は、ふーん、そんなもんかな?と聞いていました。
先生の話してくれたこと、今ならわかるなーと思います。

物持ち良し子です。今あるカメラを大事に愛でながら、私も私ができることを、撮影することを諦めずに、息子と共に学びながら、誰かを真似て真似て、そこから私にしかできない表現を模索していこう、と思います。

長々とお付き合いいただき、ありがとうございます!
いつも、本当に、ありがとうございます。

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