フィリップのボルシチ
あぁ、ボルシチ食べたいな。今日は朝から風が冷たく、ランチの時間にカフェテリアに向かう道すがらそんなことを考えていた。(*アメリカの東海岸で教師をしています)
そして一人の男子生徒の顔が思い浮かぶ。フィリップはどこかロシアあたりからの留学生で、毎日しかめっ面で、いつも一人で行動している子だった。ランチも一人、休み時間も一人、図書館でも一人、まっすぐに背筋を伸ばして長い足を大きく組み、静かに座っている。誰かと話をしているところはほとんど見なかった。
10年生の途中から来たので、私の授業を受けたことはなかったが、11年生の1学期に私が担当したパブリックスピーキングという演説の授業を取った時に初めてちゃんと言葉を交わした。彼は優秀で、懸命に練習し、予習して授業に臨んでいた。毎日一番最初に教室に来て、一番前の席に座っていた。スピーチの授業を取った理由はロシア語訛りの英語が恥ずかしいので発音を練習したいからと言っていて、苦手なことを頑張ろうとしているその様子はかわいらしかった。
授業中もあまり質問をしないし、休み時間も誰とも話をしないのであまり彼のことをよく知ることは出来ないままにその学期は終わってしまった。
そして2学期ももうすぐ終わろうという2月の寒い月曜日、フィリップは紙袋にタッパーに入ったスープを抱えて私のオフィスに顔を出した。まだほんのり温かいタッパーを受け取ると、彼は ”初めて作ってみたから美味しいかどうかはわからないけど” と控えめに笑って ”今夜の夕飯にしてね” とそそくさと出て行った。
彼が出ていくのを見送ってからタッパーを開けてみるとザクザクと刻まれた野菜がたくさん入ったボルシチだった。”そうか、フィリップはロシアの子だった” 長く食べていない故郷の味をレシピを見ながら自分で作ってみたのだろうか。
その夜は彼に言われた通りボルシチが夕ご飯だった。
フィリップの宿舎に住んでいる先生が後で教えてくれたのは、彼は日曜日早起きをして買い物リストを持ってスーパーに行き、丸一日かけてスープを作ったらしい。その先生が包丁の使い方や野菜の刻み方を教え、二人でレシピを読みながら作ったボルシチは彼が思ったような味にはならなかったが、それなりに美味しいと満足そうだった、と言っていた。そしてその先生に夕食分を取り分け、彼の分、彼のルームメートの分、数学の先生と、私の分、とタッパーに移してくれた。
私は正直どうして彼がボルシチを私に分けてくれたのかよくわからなかった。特に目をかけたわけでもなく、仲良くしているわけでもなく、あのスピーチの授業以来本当にたまにしか見かけなかった。彼は私が食いしん坊なのを知っていたのかもしれない、ひょっとしたら私が ”本場のボルシチが食べたい” と言ったのかもしれない。
フィリップのボルシチを食べながら ”私にとってこれは初のロシア人シェフによるボルシチ!本場の味!” と面白く感じていた。そのロシア人シェフにとっても初めて作ったボルシチなので、お互い本物の 初 だ。
それからしばらくたってフィリップが卒業する時に私のオフィスにプレゼントが残してあった。
カザフスタンのチョコレート・・・・・なんとフィリップはロシア人ではなくカザフ人だった。よって私の脳内の ”ロシア人のボルシチ” は ”カザフ人のボルシチ” に書き直さなければならなかったが、よく考えてみれば何人が作ったボルシチとか以前に、私が初めて生徒に作ってもらった夕食だったので、そちらの方が改めて感激だった。
カザフスタン、どんなところやろ・・・とちょっと探してみたら本当に美しい国だった。フィリップの凜として、生真面目そうな、まっすぐな背筋を思わせる青い空と大地が広がる大きな国だった。
フィリップ、元気かな。ボルシチはもう私にはロシアのものではなくカザフスタンのものであり、フィリップのものになっている。
シマフィー
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