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Noteは生きている証明と自分用遺書だな

Noteの記事を読んでくれる人に私の顔や本名や身長体重や貯金の額を知る人間はおらず(身内では母しかnoteの存在を知りません)、それは自分が意図したことであり、これまでの友人や同僚や昔の恋人には私の視点で見た出来事をこれからも絶対に読んでもらいたくないと思っています。 

それでいて、このページに存在している私というものは、自分がこれまで顔を見せ、心を開閉し、言葉を交わし、手を繋いできた直に関わりのある人なしでは成り立たず、その人たちが絡み付いている文章を本人が読むことが出来ないのは申し訳ない気持ちになるべきなのか悩みます。ここまで自分がこんな風に“生きて”来たのはこの絡み付いた人たちなしではありえないからです。

前回が100作目、明日が連続100日目の投稿という節目に、この100日で育ってきた自分のnoteを振り返って気づいたことを書いてみます。

ここには自分の記憶と知識の一部があちこちに点在し、文章を読み返すごとにそのまた一部から派生した何かを思い出したり思いついたりします。The ALFEEの歌詞をベースに書いたフィクションの2本を除いて、後は全て自分の一部を切り取って書いています(フィクションも自分の表現なので自分の一部ですが)ので基本的にはシマリスの時系列無視の自伝です。

幼少時の思い出、社会から学んだこと、仕事を通して身についた術、経験した痛みと後悔、そんな自分の人生を振り返る場がこのnoteであり、まぁ例えば明日私が記憶喪失になったとしたら、ここを読めばぼんやりとでも自分の形が見えてくる、そんな人生のまとめの場でもあります。

実生活では会わないお人に、シマフィーというシマリスが生きていましたよ、と知ってもらうのは快感であり、恐怖であり、私などに時間を使ってもらってすみませんねぇという恐縮の極みでありますが、それ以上に私というシマリスが確かに存在したという証をムリヤリ押し付ける安心でもあります。

自分にとっては大切な記憶の一片をシェアするのは、愛する・愛した人へのなかなか伝えられない言葉(高見沢さん含む笑)の具体化、失敗や後悔や挫折の浄化、様々な形での学びの反芻、毎日の幸せな一瞬などを形にして残すという自分勝手な行為であり―――そしてそれを読んでもらい こんなシマリスがいる と知って頂けることによっての個の証明からくる安心・安堵のためで、このnoteは私が死んだときに誰かが “さっきまでこうやって生きていたよね” と思い出してくれるはずだと信じたい自分用の遺書なのです。

まだまだ死ぬ予定はありませんが、生きている証明は死んだ証明よりも難しいーーそんな哲学的な思いが、毎日時間をかけて文章を書くという行動に走らせていると自覚しています。

大切なのは“私にとっては”そうであるというだけで、時間を使って読んでくださっているあなたにとってはそうである必要はない、のを覚えていてください。
ただふんふんと好きに読んでいただければ幸いです。

小さなシマリスの記事をいつも読んでくださっている皆様、
たまたまここにたどり着いてここまで読んでくださったあなた、
文章の中で私を生かしてくれている全てのモノと人たち、ありがとう。

明日も書きますよ、シマリスらしく生きている・生きてきた証明。


シマフィー

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