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初めてのアメリカは戦争で終わった

18歳になってすぐどこかの会社に斡旋されるまま3週間ほどのホームステイにカリフォルニアまで行ったのが、私にとってアメリカ初体験だった。

どこにステイするかは着いてみるまでわからず、今のようにネット社会ではなかったので自分で知らぬ土地について調べるのも簡単ではなかった。
両親はどんな街のどんな所にお世話になるのか気になっていたのかもしれないが、私は初めてのアメリカ滞在に興奮していて、正直どんな田舎のどんな家庭でもいいと思っていた。きっとどこに行っても楽しい。

成田空港の集合場所には多分5−60人ほどの学生が同じバッジをつけてワイワイしていた。その頃はまだバブルの終焉となる兆候はみえず(もう崩壊間近だったと思われますが)、高校生や大学生が長い休みを利用して海外へ出かけるのは割と普通だったため空港は大賑わいだった。
飛行機の中では隣り合った人たちと、どこの地域?などとおしゃべりするのだが、ベニスビーチやサンホゼ、サンディエゴなど聞いたことがある“有名な”所に行く人たちもいた。同じ値段のプログラムなのに観光地や高級住宅地に行くラッキーな人もいるんだ、とちょっぴり羨ましくなったが、私が行く予定の土地の名を教えても知っている人たちは一人もいなかった。

当たりかもしれないしハズレかもしれない・・・・わからない。

ロスアンジェルス空港に降り立ったらグループごとに分かれ、ミニバンに詰められ、それぞれの地域に向かうのだが、その中でビバリーヒルズに行くグループもあった。ひょっとすると自分が向かう場所は日本ではまだ有名ではない知る人ぞ知る所なのかもしれない。

ここまで来て急に不安になってきた、なんの情報もない見知らぬ土地に一人で向かう・・・ビビりながら車に揺られ、パリパリに乾いた風と思っていたより殺風景な高速道路の風景とやたら大きいコーラの瓶の重みという“初めてのアメリカ”を感じていた。

着いた先は映画で見るような“アメリカの家庭”ではなかった。

道の両脇に全く同じ様相の平屋が全く同じ間隔で立ち並び、そのそれぞれの家の入り口や窓には小さなアメリカの国旗がヒラヒラしていた。お世辞にも素敵でもオシャレでもない、簡素で寂れた佇まいの住宅街であまり人も歩いていない。道路は舗装されておらず車が進むと土ぼこりがたつ。
そんなところで私を含む4人の日本人がバンを下された。
この中でここがどんな場所なのか知っている人間は一人もいなかった。みんな私と同じように何の情報も得られないままここに送られた学生だった。

そこへ4人の男性が迎えに現れた。それぞれ大きなトラックに乗っている。

ヘーイ、ウェルカム!と降りてきたおじさんたちは皆同じユニフォームを着ていた。カモフラージュのつなぎに帽子、そしてサングラス。みんなムキムキで大きい。

あっ!兵隊さんだ!

多分私たちは同時に理解したと思う。そうか、ここは米軍基地だ。

申し込んだ旅行会社がどんなツテを使ってここに住む住人に日本人学生の受け入れを取り付けたのか見当もつかないけど、私たちが送られた先は米軍のキャンプ地だった。
他の参加者はビーチや、ショッピングモールや、自然公園などの近くでホームステイしていただろうと思うが、私たち選ばれし4人は軍人さんの家庭にお世話になった。

軍の生活はいわゆる一般家庭のアメリカの暮らしではないと思う。
家は支給されたものだし、周りも全部軍人で、みんな顔見知りだった。
少なくともそこでは、どの家庭も裕福な様子ではなかったし華美な家具や高級車がある家もなかった。そして短い滞在期間が終わると他所に移動になる。そこで生まれて育って死ぬ人はいない場所だ。

私がお世話になった家庭には2人の小さな女の子がおり、お母さんは専業主婦だったが家には包丁もまな板もなかった。お父さんは朝早く出て行って夕方には疲れて帰ってきていた。私は子供部屋に簡易マットを与えられ、小さな子供と一緒に寝た。
二人ともいい人だった。ホストファミリーは初めてで、英語が喋れるのかどうかもわからない、自分たちの生活をどう思うかもわからない、平和でボケボケな日本から来た18歳の子供を若い夫婦が受け入れるのは勇気がいっただろうと思う。

周りには歩いていける店はなく、綺麗な風景もなく、毎朝コミュニティーセンターのようなところでの英会話レッスン(先生が誰だったのかも覚えてない)に行くためにホストファミリーのリーダーのような人が迎えに来てくれるのを待つしかなかった。午後にはエクスカージョンと称してちょっと遠い所にあるモールに行ったり、スーパーやバーガーショップに行ったり、アイスクリームショップに寄ったりとささやかな娯楽があり、それが私たちには楽しみで仕方なかった。

基地内部に連れて行ってもらったこともあった。戦車に乗せてもらったり銃を持たせてもらったりした。戦争関連の映画などは見たことなかったので何がどうかっこいいのか、すごいのか、全くわからなかったが、男の子2人は興奮しきりだった。
そして基地で働く軍人さんたちは、皆気さくで優しくて面白かった。大きな腕を差し出し“ぶら下がってみろ!”と言われたりめっちゃ高速の腕立て伏せを見せてもらったりと、キャーキャーワイワイ楽しませてくれた。

3週間が過ぎ、帰る前日の夜は近所中のみなさんが集まってバーベキューをしてくれた。18歳の私に“大丈夫、飲んでも警察は軍キャンプには来ないから”と笑ってビールを進めるおじさんもいた。みんなでタバコをくわえて踊ったり歌ったり、楽しい別れの夜だった。

日本への機内で隣に座った女の子はビバリーヒルズにホームステイしたらしく、豪華な部屋の様子や有名人のご近所さんの話をした。毎日モールで買い物してレストランでご飯を食べて自宅のプールで泳いだらしい。
私は特に自慢できる経験はしてなかった(戦車に乗ったのはすごいけど多分彼女に効く自慢じゃない)のでフンフンイイナーと聞くだけだったが、密かにそこに送られなくてよかったな、と喜んでいた。

私が見たのは小さな一部のアメリカだったけれど、本当のアメリカだった。
そして誰もが経験できるわけではないアメリカだった。
戦地での体験や、家族を亡くした話(代々軍人という家庭も多々ある)、いつ戦地に送られるのかわからない不安。
戦争に行く側の話も、待つ方の話も聞けた。

一般のアメリカ人が平和に暮らす中、命をかけなければならない時が来る仕事をする人々に優しくしてもらった。


ホームステイから1年後、湾岸戦争が始まった。
それから後はホストファミリーからの連絡はない。誰からの手紙も来ない。私の手紙も届かない。

私にとっての初めてのアメリカは戦争で終わった。残念なことにまたそれも本当のアメリカの一部だった。

シマフィー

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