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I Recall, Therefore, I Am

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山あり谷ありの海外生活。今思えば毎日が自分を作る・伸ばすチャンスの場でした。チャンスをつかんだこともあれば、逃したこともある。そして今振り返ってやっと”あれがチャンスだったんだ”…
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#教師

5ドルで買う夢

帰宅途中、ハイウェイをひとつ手前で降りると小さな中華料理の店を通る道に出る。(アメリカ東で教師をしています) ゴミを極力出さない生活を徹底し始めてからは、もう外食もテイクアウトもしていないが、この学校で働き始めた当時は何ヶ月かに一度、学校の帰りに中華をテイクアウトすることがあった。 包丁も握りたくない、電子レンジでチンするのもめんどい、パンをトーストするのもだるい、それほどに遅く疲れて帰宅することが多かった頃だ。 その小さな中華は、アメリカではどんなに辺鄙な街にでも必ずあ

オンボロ車は行くよ

アメリカに来て衝撃的だったのはオンボロ車が普通に公道を走っていることだった。(*現在はアメリカ東に在住です) ボディに傷や凹み、窓ガラスに大きなヒビ、塗装がハゲていたりトランクが閉まらずバンジーコードで留めてあったり、給油口がガムテープで塞いであったりしている。そんな車が降り立ったロスアンジェルス空港からサンディエゴまでの片側3車線、4車線もあるハイウェイにうじゃうじゃ走っていた。 日本で綺麗に洗車されて整備され、中も外側も手入れをしてある車しか見たことがなかった私は本当

忘れられない告白

中国の大学で教えていた時、ほぼ毎週男子生徒からラブレターを貰っていた。 色んな方法でラブレターはやって来る。 宿題に貼り付けて テストの裏の余白に 郵便で 手渡しで 友達を経由して そして自宅のドアに貼り付けられて 私は大学敷地内の教職員用の寮に住んでおり、通りを挟んだ寮に住む生徒等はなぜか教師の部屋番号や電話番号を知っていた。 生徒たちは教員用の建物に入ることは許されておらず、門番もいたのに一体どうやって忍び込んでいるのか不思議だったが何週間に1度か2度は部屋のドアに

あなたのお子さん? ”イエーーース!”

私は映画館に行くのがあまり好きではない。 理由は大きく分けて二つ:周りにたくさん人がいるところで映画を見ると集中できない、それとアメリカの映画館はたいていがあまり綺麗じゃない。床にポップコーンやらジュースのコップやらが散らかっていることが多い。 まとめると、民度の低い客が多い、という理由だ。上演中のおしゃべりや携帯でのテキスト、食い散らかしたゴミを置きっぱなし・・・そんな人間をお金を払って見るのが嫌だから行かない。最後に日本で映画館に行ったのは2008年だったが、私は静か

灼熱の教室と嘘

今日はサマースクールの初日!2020年の3月以来、初めて生徒たちを前にして授業をして心から楽しい時間を過ごせた。 ひとつ大変だったのは室内はマスクと換気が必須のため、エアコンは切られており、教室が蒸し暑かったこと。生徒たちにたくさん水を飲め、とコップに注いで回るが、なぜだか彼らはあまり水を飲まない。 のどが乾いてない、というが、乾いてからだと遅いのだ!熱中症になるよ!と脅してもちょびちょびとしか飲んでくれない。 そんな様子を見ていて、中国の某大都市の大学で初めてサマース

私という私の”作品”

Noteを始めてよかったなぁと思うことは多いのですが、その中でも自分にとってギリギリセーフで間に合って良かったな、と感じるのはこれまでの人生を振り返って思い出や生活の断片をなるべく本当のバージョンに近い形で文字に残せることです。 ギリギリセーフというのはこの歳になると忘れてしまうような小さな出来事、何度かしか会えなかった人々、忘れるためにわざと思い出さなかったあれこれが、まだ割ときちんとした形として記憶に残っているからです。 自分の人生のイベント(になったもの)を時系列に

”白痴”と呼ばれていた自分

アメリカを出て、全く興味のなかった中国に引っ越したのは色々と疲れていたからでしょう。でなければ、それまでに溜まりに溜まった荷物を処分して、飼っていたチワワ2匹を前のボーイフレンドに泣く泣く預け、車を売って、出て行く理由はありませんでした。博士課程に進み2年経った頃でしたが、もう本を読むのも論文を書くのも、人と話すのも嫌で嫌で、今から思えばまさしくburn out (燃え尽き)だったのだと思います。環境を変えるのはその時の自分にとっては唯一の手段だと一杯一杯の頭で決断したのでし

私が出会った自由すぎた英語名リスト

私が現在勤務している高校にも世界中から留学生が来ていますが、英語名がある生徒も多数います。中国・台湾・香港・韓国・東南アジアの中華系の生徒はほぼ100%英語名を持っておりお互いも本名ではなく Eric やら Cindyやらと呼び合っています。ただ発音・読みはお互いの場合は中国語風(Eric の場合は エリッカゥのような音)です。日本人はあまり英語名をつける人はいませんよね。なんとなくはずかしいからでしょうか。 私が中国の大学で英語を教えていた時もほとんどの生徒が英語名を使っ

教師を続ける理由:透明のエンジニアと春巻に思う

どうして先生になったの?と聞かれることが多いのですが、コレだ!という理由は見つかりません。 学校は特に好きではなかったし、覚えている先生もほとんどいません。 ただ先生を続けるきっかけとなった出来事はありました。それは自分の人生で一番に後悔がいっぱいの、思い出すたびにぎゅっと胸が締め付けられる出来事です。 アメリカの大学3年、4年時にボランティア活動をすると就職に有利だと大学に言われ、ボランティアをいくつかしたことがあります。 留学生で労働ビザもありませんし、ボランティアし

なんで馬鹿にさるっとかわからん。

東京の小さな女子大に進学した私の最大の心配事は 友達ができるか、と 方言を馬鹿にされないか、でした。 で、結論からいうと友達はちょっとできて方言は馬鹿にされるので隠蔽しました。 生まれ育った宮崎の方言は単語もイントネーションも独特で、テレビで見るような日本人のように喋る人は周りには一人もいません。 本人達は標準語で話してると思っていても、やっぱり宮崎弁です。 高2で英会話を学び始めた時, 先生に 発音がいいね! と褒められていたので、大丈夫だろうとは思ってました。日本語

弱小運動部が弱くも小さくもない世界

我が校の運動部は弱小チームばかりです。 アメリカでは季節ごとにチームスポーツが変わり、秋はラクロス、冬はバスケット、春はクロスカントリーなど一人の生徒が3学期違うチームで頑張ることも可能です。 運動が好きで得意な生徒はあらゆるクラブで活躍しますが、そんな万能選手がいたとしても1学期という短い期間ではチームの結束やあうんの呼吸のような連帯感は生まれにくく、特に我が校では生徒の入れ替わりも多いため、チームワークの基盤を作るのが難しいようです。 去年まで(今年はオンライン授業です

結婚したくないぶらぶらの私が結婚した

私が結婚すると決めた時に、周りは一人残らず えーーーーーーーっ! といったと思う。両親も、親戚も、友人も、皆私は独身のままずっとぶらぶらし続けると信じていたのだ。私自身もそうだった。幾つになっても結婚したいという気持ちは全く起こらず、むしろ結婚してしまうと自分のやりたいことが制限されてしまうと恐れ、それまでに受けたプロポーズも断ってきた。 ぶらぶらしていると言うと語弊があるかもしれないが(ちゃんと仕事をして独立していたので)、私の生活自体はまさに ぶらぶら で、あっちに住んで

友人と縁を切る、ついでに幸せになる

職場に3人、とても仲の良い人がいた。 教科は違えど全員が教師で、歳もだいたい同じで、自然と固まることが多くなり、いつも4人で集まっては美味しいものを食べたり、音楽を聴いたり、ビーチでおしゃべりをした。採用時期はバラバラだったが私が一番早く、歳も上だったこともありなんとなく仕切り役として動いていたような気がする。(*アメリカ東で高校教師をしています) といってもグループのために何かを決めたりすることはなく、みなが集まりたいといえば家を開放し、誰かが何かを食べたいといえばレストラ