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教師を続ける理由:透明のエンジニアと春巻に思う

どうして先生になったの?と聞かれることが多いのですが、コレだ!という理由は見つかりません。
学校は特に好きではなかったし、覚えている先生もほとんどいません。

ただ先生を続けるきっかけとなった出来事はありました。それは自分の人生で一番に後悔がいっぱいの、思い出すたびにぎゅっと胸が締め付けられる出来事です。

アメリカの大学3年、4年時にボランティア活動をすると就職に有利だと大学に言われ、ボランティアをいくつかしたことがあります。
留学生で労働ビザもありませんし、ボランティアしか実践のスキルを学んで使える場所がなかったということです。その頃にはなんとなく大学教授になりたいな、とは考えていたのですが専攻がなかなか絞り込めず、何を極めればいいのかがわからない状態だったのでとりあえず興味のあるボランティア(で私のような役に立たない学生を雇ってくれる)を探し出していくつかやってみたのです。

その一つが郡がサポートしていた難民家族へ派遣される英語の家庭教師でした。

ベトナムから来たばかりの10代後半くらいの兄妹の担当になり、市に与えられた彼らの小さなアパートを初めて訪ねた時に、これは私では無理だなと踏んでいました。
二人とも全く英語が話せず意思の疎通は一冊の古いベトナム語・英語の辞書とジェスチャーだけで、自然と自分の声が大きくなってしまったのを覚えています。
彼らは耳が聞こえないわけではないのに、思うような反応が返ってこないので大声になるのです。
ニコニコと床に座って私を ティーチャー と呼んでくれる彼らは私とそう歳も変わらないほどで、技術も知識もない自分が初めて教える生徒としては気が重くなるほど私に期待しているのがわかります。

一時間の初授業が終わって、カレンダーを出して次の約束は三日後だよ、と不必要に大声で伝えその家を後にするとどっと疲れが出て、車の中でどうしよう、どう断ろう、と考えていました。

そして三日後に尋ねると、そこには彼らの両親も座っていて、それぞれがノートと鉛筆を用意しやる気満々のニコニコで ハロー、ティーチャー と迎えてくれました。
生徒が一気に倍になったのです。
何を教えたのか、どう教えたのかは全く覚えていないのですが、家を出るときにお父さんが私に5ドル札を小さくたたんで差し出しました。

アメリカに来たばかりで、十分な家具も揃わず小さなアパートに親子4人で暮らすのはいくら政府の支援があれど苦しいものだと想像はつきます。
ノー、ノーマネー、と首を振りニコニコし、また次に!とドアを閉めるときに振り返ると4人で深々とお辞儀をしているのが見えました。

それを見たときに、彼らがどうやってこんな遠くの山の中の、寒く雪深い街に送られることになったのかを想い涙が止まらなくなり、急いで階段を駆け下りて車に戻りました。

私みたいな人間があの人たちに教えられることはあるのだろうか?
そう思うと苦しくてたまりません。

三度目のレッスンではもっと人数が増えていました。近所の人か親戚か、ざっと見て9−10人はいます。また生徒は倍になっていたのです。もう笑うしかありません。ワイワイと挨拶やら簡単な単語を教えたと思いますが、また帰りがけに手渡されたものがありました。

お弁当です。
二段の大きなプラスチック容器に入ったお弁当がスーパーの袋に入っています。

びっくりする私に、お兄さんが手元の紙を読みながら
“先生はお金はいらないと言ったのでベトナムのご飯を用意しました”
と言い、後ろでは残り7人か8人かがニコニコとうなずきます。

また帰りの車の中で彼らの気持ちを思い号泣し、何にもしてあげられない私が悔しくて更に涙が湧き出てきました。お弁当はゆうに4−5人分はあります。大きいお弁当をたった一人の私に持たせてくれたのです。

レッスンが進むごとにまた一人、もう一人、と人数は減り、最終的にはまた最初の2人が私の担当として残りました。それからは3人でスーパーに出かけては食べ物の名前、値段の読み方、店員に質問する練習をしたり、人気のない駐車場で運転の練習をしたり、図書館でカードを作ったりと、少し上達した英語でレッスン自体も楽しくなってきました。英語のレッスンというよりは生活のレッスンで、私の犬を連れて公園を散歩したり、モールでウインドーショッピングをしてアイスクリームを食べたりと普段私がしているようなことを3人でしていました。

いつだかお兄さんの方が28歳で自国では大学院を出たエンジニアだったと教えてくれた時は露骨にびっくりした顔をしたと思います。今は中華料理の店でテーブルを拭いたり皿を洗ったりしている彼らですが、私にはここにくる前の彼らが何をしていたのか全く想像もしていなかったからです。
まだ片言の英語で、アメリカでは僕は透明のようです。誰も見てくれないし、大切じゃないから、と微笑む彼は、いつかは英語が上手になってまたエンジニアになりたい、という夢を語り妹にゲラゲラと笑われていました。

無理だよ、兄ちゃん、と妹は笑っていました。

その兄妹と一体いつどうやって別れたのか、なぜボランティアをやめたのか、私には全く記憶がありません。多分自分の試験が忙しくなったとか旅行に出るとか、そういう自分勝手な理由だったと思います。
ボランティアだから、と自分が勝手に決めたような気がします。

本当に悪いことをした。
かわいそうなことをした。今も後悔でいっぱいで書き綴るのも苦しいほどです。

きちんと理由も説明せず、別れも告げず、消えてしまった”ティーチャー”を彼らはどんな気持ちで待っていたのか・見送ったのかを考えると本当に胸が痛みます。
あれからもう25年以上たったのに昨日のことのように痛みます。

ベトナムレストランのランチの皿にちょこんとのせられた二本のパリパリに揚がった春巻きを見るたびに、あのお弁当が思い出されます。

あれが私の初めてのお給料だった、彼らができる精一杯の御礼だった。
エンジニアの代わりに皿を洗い、先生でもない私をティーチャーと呼び信頼してくれた彼らの気持ちだった。

あの人たちみんなが元気で幸せでありますように。
彼の夢が叶っていますように。
こんな私のことなど忘れていますように。

その後悔でいっぱいだった最初の経験を思い出して語るのは自分への戒めです。

絶対に裏切らない、絶対にあきらめない、絶対に後悔しない。
そんな教師にならないと申し訳ない。

あのお弁当との勝手な約束を果たすために、今日も教師を続けています。

シマフィー

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