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I Recall, Therefore, I Am

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山あり谷ありの海外生活。今思えば毎日が自分を作る・伸ばすチャンスの場でした。チャンスをつかんだこともあれば、逃したこともある。そして今振り返ってやっと”あれがチャンスだったんだ”…
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#留学

あの時はありがとう:お尻押し係のトビー氏

アメリカの大学留学中、私はギリギリのギリギリになるまでやる気がわかない学生だった。 あれから随分経った現在も似たようなものなので時間のプレッシャーに押しつぶされる時に最高の出来の何かが書ける人間なのだ、と諦めている。 何の宿題でも前日、前夜に取り掛かり、徹夜でやり終えるのが常だったが、だいたいはその直前までお酒を飲んだりもしていた。 そんな私には夜更けに宿題をしているかどうかを確認する電話をかけてくる友達がいた。トビーだ。 *以前書いた記事を編集・加筆して再掲載しています

赤い髪とプリンス(again)

*過去記事を編集・加筆して再掲しています 今日、生徒が髪を真っ赤に染めて学校に来た。校則で髪の色は決まっていないし、青い髪もピンクもいるし、タトゥーもボディピアスがある生徒もたくさんいるので、特に気にしていない(*アメリカ東の私立校で教師をしています)。 でもその彼女はいつも制服をきちんと着て、休み時間は静かに本を読み、お昼も音楽を聴きながら一人で食べるような子だったので派手な赤をチョイスしたことにちょっとだけ驚いた。 私も大学の時に髪を真っ赤に染めた。自分自身の存在意義に

メモを残すストーカー(again)

授業を終えて車に戻ると、必ず小さなメモがフロントガラスに挟んであるようになった。 コロラド州の大学院で学生をしつつ、学部生を教えていた時のことだ。 自分の専用スペースはないので毎日空いているところに車を停めるのだが、昼に車を停めた自分でさえ時々見つけるのが困難ほど巨大な駐車場だった。 空港などでAの15区、などと覚えていないと永遠に車が見つからないのと同じような感じであったがそんな親切な表示はどこにもなかった。 ある日の帰宅時、そんなだだっ広い駐車場に停めた私の赤い車のフ

夜中のテレビっ子

私は大体が夜10時を回ってから俄然やる気と元気が出てくる、典型的な Night Owl (ナイトアウル、夜型人間)だ。日本でもそうだったが、アメリカの大学生時代も夜もいよいよ本番になってから、課題に取り掛かったり図書館に出向いたりしていた(大学の図書館は24時間オープンでした)。 当時のことはこちらでも書いてます。 私がアメリカに来たばかりの90年代初めはまだネットも普及しておらず、emailはあったものの学校とのやりとりくらいにしか使っていなかった(そして初めてemai

”アメリカに行ってもセレブには会えません”

遥か昔(笑)私がまだ宮崎のど田舎でかわいらしい中学生だった頃、アメリカは遠い世界のもっと向こうのような、現実的な場所ではなく、映画やテレビなんかで目にする異星のような地だった。 私がアメリカに留学したいと言い出した時も、遥か昔のど田舎の話なので、周りの教師や同級生たちは ”アメリカどん行って、なんすっとね?” と不思議がり、それよりも皆の関心は東京や大阪などの都会の大学に進学することで、私の 高校を卒業したらすぐさま渡米したい という思いに共感してくれる人はほとんどいな

チートスドリトススキットル

タイトルが何のことやらわかる人、さてはアメリカのおやつが好きですね! アメリカの大学に進学する前の女子大時代、3度長い休みを使ってカリフォルニア州にホームステイと語学留学をしました。1度目は本当にアメリカ体験!みたいな特に学校に行くこともなく軍人ホストファミリーとの生活や観光のみだったのですが(ここで読めます)、2度目はカリフォルニア大学のESLに通い、1日6時間の集中授業を受けるという “ちゃんとした” 留学でした。 その時点で私の英語は一応ESLの一番上のクラスで、大

動かないモデル

この写真を撮ったときに思い出したことがあった。(シマリス見えますか?) 同じ様なポーズをとったことがある。両手を壁について腰をひねってこちらを見る。そしてこちら側には私を凝視しながら手を動かす人がたくさんいた。 アメリカの大学院にいたときにモデルをしたことがある。どこで誰に声をかけられたのか詳しくは覚えてないのだが、美術系の専門学校でヌードモデルをしないかと誘われたのがきっかけだった。デッサンモデルだ。 その学校はいろんな人種と体型と年齢のモデルに来てもらっていたのだが

もう決まったから変えられない

バスの中で髪の毛を撫でられた。 ストレートのウエストまであるロングヘアの頃で、大学からの帰りのバスだった。 ミネアポリスのダウンタウンへ向かうバスの中はちょうど仕事や学校帰りの人たちで混雑しており、私は黄色い手すりを掴んで外の風景を見ていた。 後ろの誰かが髪を触ったのがわかる。でも揺れるバスのせいだったかもしれない、と振り返りはしなかった。ちょっとしてもう一度、今度は耳の下から背中の中程までをつーっとたどるように撫でたのがわかり、これは故意に触っているのだとわかった。

フロントガラスに残されたメモ

授業を終えて車に戻ると、必ず小さなメモがフロントガラスに挟んであるようになった。 コロラド州の大学院で学生をしつつ、学部生を教えていた時のことだ。 自分の専用スペースはないので毎日空いているところに停めるのだが、大学の駐車場はとてつもなく大きく、昼に車を停めた自分でさえ時々見つけるのが困難だった。空港などでAの15区、などと覚えていないと永遠に車が見つからないのと同じような感じである。 ある日の帰宅時、そんなだだっ広い所に停められた私の車のフロントガラスに小さなメモが挟ま

中国で日本人の私が歌うアメリカ国歌

中国の大学で英語を教えていた時にアメリカの国歌の話になり、その流れで生徒たちに懇願され次の週の授業で私が歌うことになってしまった。 1クラスでの話だと思っていたのに、当日は周りのクラスも集まり、先生や生徒や職員も含め80人ほど教室にぎゅうぎゅうに入っていた。 そもそも国歌を歌って欲しいと言われた理由は、その当時の中国ではまだネットは広く普及しておらずほとんどがインターネットカフェなどでの限られた使用で、外国の情報が制限されていた(であろう)せいで、皆きちんとアメリカの国歌を

役に立つ英語:誰も教えてくれなかったあの言葉

ウンコという単語は学校でも英会話教室でも習いませんでした。さらには”なんて言うの?”なんて友達に尋ねたりしたこともありませんでした。馬鹿馬鹿しいと感じる方もいるかと思いますが私の実体験からこの記事を書いています。 留学して一年ほど経った頃に寂しさのあまりペットショップで見たチワワを買ってしまった私がその2週間後に彼を連れて初めて獣医さんに行った時の事でした。 ワクチンを打ったりした後にお医者さんに Next time you come, please bring a st

バスの中:過去と今とこことあそこと

アメリカ、ミネアポリスの大学に通い始めた頃はバス通学でした。 雪深く、極寒の冬が長く続く街でしたが、特に気にもせず毎日氷点下のバス停でバスを待ち、校舎まで・家まで5分ほどテクテク歩いていました。 車に乗るようになった今、思えばまぁよく文句も言わず鼻の中やらまつげやらを凍らせながらもバスに乗っていたなぁ、と感心しますが、バスは市民の皆さんの足であり凍った道を自分で運転するよりはずっと安全な交通手段だったと思います。 そんなバスの中で、一度だけ嫌な思いをしたことがありました。

弱小運動部が弱くも小さくもない世界

我が校の運動部は弱小チームばかりです。 アメリカでは季節ごとにチームスポーツが変わり、秋はラクロス、冬はバスケット、春はクロスカントリーなど一人の生徒が3学期違うチームで頑張ることも可能です。 運動が好きで得意な生徒はあらゆるクラブで活躍しますが、そんな万能選手がいたとしても1学期という短い期間ではチームの結束やあうんの呼吸のような連帯感は生まれにくく、特に我が校では生徒の入れ替わりも多いため、チームワークの基盤を作るのが難しいようです。 去年まで(今年はオンライン授業です

お尻押し係の退任

私は今でもそうだが、学生の頃は特に、ギリギリのギリギリになるまでやる気がわかないタチで、時間のプレッシャーに押しつぶされる時に最高の出来の何かが書ける人間だ。なので何の宿題でも前日、前夜に取り掛かり、徹夜でやり終えるのが常だった。だいたいはその直前までお酒を飲んだりもしていた。 そんな私には夜更けに宿題をしているかどうかを確認する電話をかけてくる友達がいた。 夜10時とか11時になるとトビーから電話がくる。 “シマ、どれくらいお酒飲んだ?”最初の質問は毎回同じだ。 “ウオッ