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I Recall, Therefore, I Am

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山あり谷ありの海外生活。今思えば毎日が自分を作る・伸ばすチャンスの場でした。チャンスをつかんだこともあれば、逃したこともある。そして今振り返ってやっと”あれがチャンスだったんだ”…
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#英語教師

選ばれない私

アメリカの大学院で燃え尽きて、中国へ渡り英語教師をしていた私(昔のお話です)。*現在はアメリカ在住です。 中国へ行った当初の話はここ↓ 私は勤務先の大学から毎月のお給料とビザを貰っていたが授業は1週間に三日しかなく、残りの時間を埋めるため(と稼ぐため)にアルバイトをしていた。 教師の資格と経験のある私は、語学学校や移民斡旋の会社、お金持ちの奥さんやお子さんの家庭教師、外資系ホテルのワークショップや羽振りがいい会社の専属トレーナーなど、中国語が出来るのもあり、割と引く手数

灼熱の教室と嘘

今日はサマースクールの初日!2020年の3月以来、初めて生徒たちを前にして授業をして心から楽しい時間を過ごせた。 ひとつ大変だったのは室内はマスクと換気が必須のため、エアコンは切られており、教室が蒸し暑かったこと。生徒たちにたくさん水を飲め、とコップに注いで回るが、なぜだか彼らはあまり水を飲まない。 のどが乾いてない、というが、乾いてからだと遅いのだ!熱中症になるよ!と脅してもちょびちょびとしか飲んでくれない。 そんな様子を見ていて、中国の某大都市の大学で初めてサマース

サワディカーしか言わない女

昨日知り合った 和歌子さんのnote を読んで、図々しくも似たような経験をしているな〜と勝手に共感し、もっと勝手に親近感もおぼえている。 彼女がお住いのタイについての記事も嬉しい。私はタイが日本に次いで好きだからだ。タイの話はこちら↓ 自分が書いている自分の経験もどこかでどなたかが読んで下さって親近感を感じたり、違いに驚いたり、そりゃねぇぜと唖然としたり、そうだそうだと共感していただいてるのかな・・・そうだといいなぁ〜うれしいなぁ〜 さて、その大好きな国、タイのあれこれを

オレンジチキンとカロリナ

アメリカに留学して8年ほどたち、博士課程の1年目を終えるかどうかの時に急に何もかもが嫌になった。今思えば Burned out ・燃え尽きていたのだな、とわかるがその時はちょっとだけ息抜きをすればまた楽しく論文を書いたり研究したりできるかもしれないと思っていた。 30目前で、まだフルタイムで働いたことはなく、仕事自体も大学内だったため外に出て毎日働くというのは魅力的に映った。そしてその息抜きというフルタイムの仕事のために中国まで渡った(ここでその話が読めます)。 結局中国に

日・米・中3カ国またにかけたA-ha!

アメリカでの博士課程の途中で、どうにもパンクしそうだった私は、あんまり何も考えずに中国で英語教師の職を見つけてアメリカを出た。 1年のつもりで来たけれども、結局は5年以上も中国に住んだ。 その暮らしの中で、些細なことだけれど頭の上にピーンと電球が光るような 💡はーーーーそうかーーーーー💡 と、点と点がつながる一瞬が何度かあった。 一昔前に流行った A-ha体験のようなものだ。 最初は中国語をまだ本格的に学ぶ前(そこらへんの自分の話はこちらへ)。 街をぶらぶらしている時

中国で日本人の私が歌うアメリカ国歌

中国の大学で英語を教えていた時にアメリカの国歌の話になり、その流れで生徒たちに懇願され次の週の授業で私が歌うことになってしまった。 1クラスでの話だと思っていたのに、当日は周りのクラスも集まり、先生や生徒や職員も含め80人ほど教室にぎゅうぎゅうに入っていた。 そもそも国歌を歌って欲しいと言われた理由は、その当時の中国ではまだネットは広く普及しておらずほとんどがインターネットカフェなどでの限られた使用で、外国の情報が制限されていた(であろう)せいで、皆きちんとアメリカの国歌を

やっぱり宮崎じゃった

自分の故郷、hometown、はどこなのかなとあらためて考える機会が今日ありました。ほとんどの方は生まれた町、育った町、帰る町、を故郷と呼ぶのではないでしょうか、でも私はそれぞれ違う町がその場にあてはまります。 わたしの生誕の地は宮崎でしたが、実際そこに住んだのは小学校3年生くらいまでで、そのあとは宮崎県内の違う市で高校卒業まで過ごしたのでいわゆる”成長の場”は県南部の小さな町。そのあとは東京の大学へ進学して、それ以降は海外のあっちこっちです。親戚一同はまだ宮崎におりますが

役に立つ英語:誰も教えてくれなかったあの言葉

ウンコという単語は学校でも英会話教室でも習いませんでした。さらには”なんて言うの?”なんて友達に尋ねたりしたこともありませんでした。馬鹿馬鹿しいと感じる方もいるかと思いますが私の実体験からこの記事を書いています。 留学して一年ほど経った頃に寂しさのあまりペットショップで見たチワワを買ってしまった私がその2週間後に彼を連れて初めて獣医さんに行った時の事でした。 ワクチンを打ったりした後にお医者さんに Next time you come, please bring a st

”白痴”と呼ばれていた自分

アメリカを出て、全く興味のなかった中国に引っ越したのは色々と疲れていたからでしょう。でなければ、それまでに溜まりに溜まった荷物を処分して、飼っていたチワワ2匹を前のボーイフレンドに泣く泣く預け、車を売って、出て行く理由はありませんでした。博士課程に進み2年経った頃でしたが、もう本を読むのも論文を書くのも、人と話すのも嫌で嫌で、今から思えばまさしくburn out (燃え尽き)だったのだと思います。環境を変えるのはその時の自分にとっては唯一の手段だと一杯一杯の頭で決断したのでし

私が出会った自由すぎた英語名リスト

私が現在勤務している高校にも世界中から留学生が来ていますが、英語名がある生徒も多数います。中国・台湾・香港・韓国・東南アジアの中華系の生徒はほぼ100%英語名を持っておりお互いも本名ではなく Eric やら Cindyやらと呼び合っています。ただ発音・読みはお互いの場合は中国語風(Eric の場合は エリッカゥのような音)です。日本人はあまり英語名をつける人はいませんよね。なんとなくはずかしいからでしょうか。 私が中国の大学で英語を教えていた時もほとんどの生徒が英語名を使っ

教師を続ける理由:透明のエンジニアと春巻に思う

どうして先生になったの?と聞かれることが多いのですが、コレだ!という理由は見つかりません。 学校は特に好きではなかったし、覚えている先生もほとんどいません。 ただ先生を続けるきっかけとなった出来事はありました。それは自分の人生で一番に後悔がいっぱいの、思い出すたびにぎゅっと胸が締め付けられる出来事です。 アメリカの大学3年、4年時にボランティア活動をすると就職に有利だと大学に言われ、ボランティアをいくつかしたことがあります。 留学生で労働ビザもありませんし、ボランティアし