大切なことから逃げつづけた私が見たあの日の朝陽 ~私の「履歴書の空白期」~
20年近く経った今でも、時々夢に見る景色。
真っ黒な天板の実験台
ドラフトチャンバーの排気音
教授の部屋のドアの威圧感
それが夢だと分かっていても心が焦燥感と絶望感に押しつぶされそうになって、夢から醒めたときにホッとする……そんな景色。
今日の記事は、夢にまで見るその記憶をしまい込んだ『履歴書の空白期』のお話です。
1.履歴書の空白期
私の履歴書には空白期があります。
それは2002年4月から2005年3月までのおよそ3年間。
2002年3月に大学を卒業してから、
2005年4月にさいたま市役所に入職するまで。
その間がすっぽり履歴書から抜け落ちているのです。
正確に言えば、2002年4月からは大学院に籍を置いていました。
でも、修士課程を修了することなく、2005年3月に退学しています。その期間が履歴書の上では空白になっています。
この空白期のことは、20代の頃から私の中で半ば禁忌になっていました。ジュラルミンケースに詰めて、太平洋プレートと北米プレートの隙間に埋めてしまいたいような、二度と見たくないもの。
いつまでも完治しないカサブタのような記憶。
2.自分を見失ったままの就職活動
そんな空白期にやっていたのは、就職活動と大学院での研究です。
2002年、大学院1年目の夏頃からセミナーやインターンシップに参加したり、学部3年生の人たちと一緒に情報交換のコミュニティをつくったり、OB訪問をしたり。
当時の私は「書く」ことと関わる仕事に就きたいと考えて、出版社を中心にエントリーしていました。
学部生の頃から、気に入った楽曲の感想やライブレポートを書いて自分でホームページで発表するのが趣味でした。音楽を聴き、文章を書き、htmlタグを打ち込んでホームページをつくり込むことに1日の大半を使う日々。
読んでくれた人からコメントをもらったり、それがキッカケで人のつながりも広がりました。
学部3年生くらいから徐々に、「自分は工学部を卒業してメーカーなどに就職するのではなく、書くことに関わっていきたい」という気持ちが強くなって、平日の夜にライター養成講座に通ったり、高田馬場のメディア関係の専門学校を見学したりもしました。
学部4年生の夏には、大学院に進学せず専門学校に行くと言い出して母親を困らせます。
一旦、進学はしたのですが、大学院1年目に始めた就職活動では結局、出版社をターゲットに挑戦していました。
でも、当時は就職氷河期。
さらに書籍離れの影響で出版業界の雲行きも怪しいと言われ始めていた最中で、大手でも各社数名しか採用しない時代。
私のような工学部を出て大学院に進学した学生が出版業界で編集をやりたいと言っても、そう簡単に激戦の内定者の枠に滑り込める雰囲気ではありません。
今思えば、当時の私は、ちょっと自分の文章が褒められたくらいで調子に乗って「文章に関わる仕事=編集(出版社)」と決めつけていましたが、本当に自分がどんな大人になりたいのか、ちゃんと向き合っていませんでした。
自分に対する理解に乏しく、志望動機も強みも、そこに添えるエピソードもチグハグで、面接もボロボロでした。
どこからも内定をもらえないまま、大学院2年目の夏が終わり、秋が深まっていき。
その時点で、最終面接までたどり着いた2社のどちらかから内定をもらえれば就活が終わるという週。
逆に、ここで内定をもらえなければ、エントリー済みの手持ちのカードがなくなるという週。
2社の最終面接を終えた日、心の中では「最悪でもどちらか一方は拾ってくれるんじゃないか」そんなふうに思っていました。
しかし、アパートの6畳間で電話から聞こえてきたのは、不採用という結果。2社とも。
その時点で、エントリーしている企業はもちろん、あたりをつけている企業もない状態。
これは本気でヤバい。
そう思いながら、布団の中で丸まって震えていました。
「どうしよう、どうしよう、どうしよう」
3.研究からの逃避
布団にくるまって震えていた夜から1年間と少しさかのぼって、大学院1年目の夏。
就職活動ではセミナーやインターンシップに参加したり、学部3年生の人たちと一緒に情報交換するコミュニティをつくったり、OB訪問などに取り組んでいた頃。
大学院の研究室では、指導役を務めてくれていた博士課程の留学生とコミュニケーションがうまくとれず、そもそもあまり進学したいと思っていなかったというモチベーションの低さも手伝って、研究は全然進んでいませんでした。
そのうえ、就職活動のせいにして研究室には寄り付かず、挙句に学科の講義も休みがちに。この時点ですでに大学院生としての学校生活は破綻しかかっていました。
指導役の院生や教官などともあまり顔を合わせたくないために、夜にコッソリと実験をしたりもしました。が、まともに指導も受けずに研究が予定通り進むわけもなく。そして、いよいよ学科の単位も落とすようになります。
大学院1年目が終わる頃には「内定さえとったら、ちゃんと研究室に戻って遅れた分もちゃんと取り戻すんだ」と思っていましたが、ズルズルと内定がとれないままその年の後半には、最終面接まで進んだ2社も不採用となって就職活動で詰んでしまい、途方に暮れることに。
研究室の先輩や教授、学部時代から一緒に過ごしてきた同期の友人らの中には「島田はどうしているんだろう?」と心配してくれていた人もいたんだろうと思います。
でも、当時の私は誰かに頼ることもできず、困っていることを隠したまま何とか課題を解決したいと思うのですが、そんな都合のいい方法なんてありません。
今思えば、「自分は努力しているんだ」という雰囲気だけ醸し出して、結局本当に大切なことからは逃げていただけ。
最低の学生だったと思います。
最終的に、内定も取れず、単位も取れず、修士論文も作成できず、そのまま大学院2年目が終わる春を迎えます。
4.心の病と実家への帰還
内定もなく、修了もできない大学院生となった私は、母親や教授とも話し合って、1年後の就職を目指すこと、留年して1年間で修了を目指すことになります。
ただし、この段階で母親にも教授にも話していなかったことがあります。
それが、心の病のことでした。
大学院2年目の秋の終わり。最終面接まで進んだ2社から不採用の連絡を受けて、その後、しばらくは研究室に行くどころか、外出もできず、一人暮らしの6畳間でボーっと布団にくるまって過ごしていました。
当時、奨学金をもらっていましたが、それだけでは足りず日雇いのバイトもしていて、そのバイトに出かけて、稼いだ日給でまた何日か近所の松屋に通い、そしてまたバイトに出かけるような毎日。
この時期に貯金が底をつき、家賃も電気・ガス・水道もひと通り滞納し「電気、ガス、水道の順に止まるんだな~」というのを学びました。
就職活動もどうしたらいいか分からない。
研究も進められない。
そのうち、自分が何をやっているのか分からなくなり、徐々に電車の駅のホームに立つのが怖くなりました。
「コレ、衝動的に……ヤバいな」
そう思った頃、ギリギリの理性の中で当時住んでいた街の近くにあった心療内科に相談に行ったのです。
心療内科の先生からは、うつ状態にあるということで薬が処方され、その薬を頼りに日々の生活を送れるようになりました。
でも、病院にもお薬にも、それほど長い期間、お世話にはなりませんでした。
私自身がもう限界だと感じて、ひとまず実家に帰ることにしたのです。
友人にも助けてもらって引っ越し、大学院3年目は、実家から就職活動と大学院での研究に取り組むことになりました。学部時代のように実家から大岡山のキャンパスに通う生活。
とはいえ、もはや新卒でもなく、25歳で半分ニートになりつつある私のエントリーシートをまっとうに見てもらえるとも思えないこの状況で、何とか母親のことは安心させたいと思って選んだのが公務員でした。
しかも、公務員なら平日の夜や土日は時間がたっぷりあって、きっと何かを書いたりといった創作活動の時間も確保できるに違いない。そんな邪な気持ちで勉強を始めました。
国家一種(現在の国家・総合職)で落ちた以外は、皮肉なくらい、どこもトントンと進んで就職先を選べるような状況になり、最終的にさいたま市役所にお世話になることにしました。あれだけ苦労した民間の就職活動は何だったのかと思うほどスムーズ。
一方で大学院の研究の方は、距離が離れたことも手伝ってより一層、足が遠のきました。
さいたま市役所の内定をもらってからは「修士でも学士でも、地方公務員になるなら関係ない」という気持ちがいよいよ強くなり、最後の方は1か月に一度、顔を出すかどうか。
もう、これ以上、研究は進められないと思った段階で、学科の責任者の教授にお会いし、退学する意思を伝え手続きをしていただきました。
その教授の「ああ、君だったのか。意外だな、残念だよ」というひと言は、今でも忘れられません。紛れもなく、私がそれまでのルートからハッキリとドロップアウトした瞬間です。
最後は、研究室のメンバーに挨拶もせず、夜中のうちに荷物をまとめて、キャリーバッグに山盛りになった荷物を引きずりながら、東急目黒線の始発で大岡山をあとにしました。
3月の平日の朝、通勤ラッシュとは逆に埼玉に向かう埼京線の中。
そんなことを呟きながら、終わったという解放感と逃げ出したという敗北感とを感じて、視界の中の朝陽がにじんで見えたのをよく憶えています。
5.空白期に敬意と慈しみを
素敵な上司や先輩に恵まれ、仕事を楽しみ。
化学技師の枠を越えた経験をさせてもらい。
2枚目の名刺で職業の枠を越えて活動し。
ブログで発信をしたり、本まで出させてもらい。
今は、あの日、朝の埼京線で解放感と敗北感を覚えた私にはとうてい想像できないような場所にいます。
あの3年間の空白期はいったい何だったのか。
上手に言語化できないのですが、ただ一つ言えるのは、あの3年間が私にとってもがき苦しんだ人生の大きな危機だったということ。
では、あの空白期は、なかった方がよかったのか。
確かに、日本海溝に沈めたくなるほど思い出したくない記憶となりました。今でもたまにあの頃のことを夢に見ることがあって、夢から醒めたときにホッとします。
でも、あの3年間に感謝することも増えてきています。
例えば、
そんなふうに感じられたり、
全部、痛いくらいの生々しい記憶とともに、知恵として私の一部になっています。
そして何より、
という覚悟が、私の心を常に支えてくれています。
世の中には、私と同じように新卒の就職活動がうまくいかなくて、悩む人がそれなりにいるんだろうと思います。
そんな言葉を想像すると「悪いことをしているんじゃないか」とか「ダメ人間なんじゃないか」なんて思って、自分の心の居場所を失ってしまう人がいるんじゃないでしょうか。とても心配になります。
それは就職活動に失敗したときだけではなく、志望校に合格できなかったときも、パートナーと別れることになったときも、職場との契約を打ち切られたときも、きっと他にもいろいろな場面で起こり得ることで。
誰もが予期せぬ空白期が生まれてしまう季節を生きていて、自分の心の居場所を失ってしまいそうになる機会と常に隣り合わせなんだということを、忘れないでいたい。強くそう思います。
私は、一所懸命お勉強をして、一見すると高校も大学もスムーズに歩んできました。でも、結局お勉強しかしていなくて、その道程では常に「私の主体性」がフワフワと宙に浮いたまま大切なことを自分で考えずに歳を重ねてしまいました。
一方で、もがき苦しんだあの空白期の経験をとおして、生きる上での知恵も得て、様々な立場の人の気持ちも理解できるようになりました。
だから、今は自分の『履歴書の空白期』に、敬意と慈しみを感じています。
最後に。
今まさに遠回りすることになりそうな人も、遠回りをしている途中の人も、今は分からなくても、その空白期に意味を見出せる日が来ます。
そう信じてほしいのですが、今はそんなことを信じられない状況なら、ただただ心と身体の安全だけは確保してどうか命をつないでください。
そんなことを願って筆を置きます。
あらゆる人の『履歴書の空白期』に
敬意と慈しみの花束を捧げます
(おしまい)
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◆おまけ
長い独白にお付き合いいただきありがとうございました。
「どうして今、履歴書の空白期のことを……?」
そう思った方もいらっしゃると思います。
実は2019年に、生き方編集者の山中康司さん( @koji_yamanaka )のこちらのnoteの記事を拝見して、いつか書こうと思いながら、長いあいだ下書きのまま保存されていた記事なんです。
キャリアコンサルタントとして活動するにあたり、この記事のことは公開しておきたいと考え、まとめることにしました。
今後、クライエントやこのnoteの読者の皆さんにお伝えする「私のキャリアの一部」として、ここに公開しておきます。
読みやすくなるように、時々書き直すかもです。
この記事よりも前に書いたスピンオフ的な記事がこちらです。
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