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ベートーヴェンのアトリエ (五)

 毎日、一回は車の練習をさせられた。上達しないので人見さんは少し困っている。
 それ以外の時間、人見さんはほとんどアトリエにこもっていた。夕食だけは一緒にと、その時間になると帰ってくる。食べるとまた出かけて、遅くまで描いているようだ。わたしの暮らしていた部屋に、泊まり込むこともあった。
 それほど淋しくはなかった。人見さんが絵を描いている。その様子は、みていなくても鮮明に思い浮かんだ。
 歌を一つ、完成させた。歌詞もそれなりに書けたと思う。今は少し希望に満ちた歌をと思っている。
 ギターの練習ばかりしていた。外の音が聞こえないせいか、時間の感覚がなくなった。おなかがなるまで空腹にも気づかない。夕食の時間を忘れて人見さんを待たせることもあった。
 今朝、顔を合わせた時「今日は車を買いに行く」と言われた。
「このままだと、胃に穴があく」と、笑っていた。
「律は何色の車がいい?」
 訊かれて「青」とこたえた。
 人見さんは青のイメージだった。冬に巻いていたマフラーがとてもきれいだったからかもしれない。
 車屋さんに飾ってある車は、とにかく、煌めいていた。人見さんが、わたしを『妻』と言っていた。応対してくれる人には『奥様』と呼ばれた。気恥ずかしくて、人見さんの背中に常に隠れていた。
「ハイブリッドにしよう」
 わからないから、何でも頷いた。
「今の車は『下取り』に出すよ」
 わたしの名義にしようとしていたけれど、いろいろとすぐには揃わないものがあって、諦めていた。
 小さめの車だった。わたしでも、まともに運転できそうだと思った。納車は一週間先だと言われていた。
 三月最後の日、人見さんが夕食後も家にいた。
「今日は一緒に寝よう」
 恥ずかしくなってうつむいた。
「僕の部屋においで」
 初めての日は、そんなつもりもなくシャワーを浴びたので、特に気にもしなかった。今夜は、丁寧に体を洗ってしまった。
 ドライヤーで髪を乾かす。前の夜を思い出して、ぼーっとしていた。髪が熱くなりすぎて、やけどしそうになった。
 リビングの電気は消えていた。
 人見さんの寝室に入った。人見さんはもう、ベッドで横になっていた。掛け布団を捲って、手招きをする。ゆっくりと近づいていく。そっと布団に入った。
 恥ずかしくて、背中を向けていた。
 人見さんの温もりと香りに包まれる。鼓動のリズムがはやまっていく。
 電気を消した。目を閉じる。腕が、わたしの腰の上にのる。肩口に呼吸がかかった。匂いをかがれている。くすぐったかった。
「明日は、早起きしよう」
 冗談かと思った。だけど、しばらくすると本当に眠ってしまった。
 期待していた自分が恥ずかしくて、駆け回りたいぐらいの気分だった。
 腕が乗っているので、動けなかった。寝息が聞こえている。人の腕って、結構重いものだと思う。
 わたしは、なんとか体をねじって向きをかえた。人見さんと向き合う。暗闇に目がなれてきた。まつげが本当に長い。そっと頬に触れてみた。ひげが少し伸びていた。疲れているのだろうか、深く眠っている。
 唇に、指で触れてみた。反応はない。顔を近づける。唇で触れた。すぐに離した。胸に顔を埋めてみた。鼓動が、優しいリズムを刻んでいた。
 婚姻届を出した日、ここで一人眠ったのを思い出す。あの時は本当に不安だった。
 今はこんなに心が温かい。
 けたたましいアラームの音で目を覚ました。心臓が、これ以上ないというぐらい強く打つ。
 人見さんは、アラームを止め、リモコンで電気をつけた。眩しくて布団に潜り込んだ。
 人見さんが「始発に乗って京都へ行こう」と言って、体を起こした。隙間から冷たい空気が入ってくる。大きな体が布団から抜け出ていく。完全に出てしまうと入り口がふさがれ、暗闇になった。埋もれて息苦しくなる。少し顔を出す。
 人見さんは、着替え始めている。何も身に付けていない背中を、初めてみた。体を動かすと、筋肉の形がかわる。絵でみたわたしの背中とは全然違う。つい、じっとみてしまう。
 いきなり、振り向いた。
「京都行きは、エイプリルフールの嘘じゃないよ」
 慌てて起き上がった。
「今の時期の京都は宿がとれないから日帰りする」
 念のため下着くらいは持つように言われた。
 新幹線の駅までは、車で移動した。乗ってしまえば、京都まで一時間もかからないはずだ。
 京都へは、夏休みの家族旅行で行ったことがある。金閣寺や清水寺、伏見稲荷にも行った。とにかく暑かったおぼえしかない。
「山崎から京都の桜が見頃だって連絡があった」
 本屋でみかけた写真を思い浮かべて、笑顔になった。
 始発には間に合わなかったが、六時のうちには京都に着いた。人見さんは、京都駅の外でタクシーをつかまえた。
「嵐山まで」
 運転手さんに行き先をいう。
「お客さん、嵐山ならJRで行けますよ」
 京都のイントネーションだ。
「寄り道したいんですよ。西京極から天神川沿いを通った後、四条通を西に向かって、松尾橋の手前から桂川沿いをお願いします」
「ああ、いいですね! なかなかお詳しい」
 運転手さんがいう。
「仕事の関係で二年ほど住んでたんです」
 知らなかった。人見さんが暮らしていた。それだけで、京都に親しみがわいてきた。「早い時間でないと道路が混むからね。嵐山から後は電車を乗り継いでまわるよ」
 タクシーの中で京都での話をしてくれた。髪をのばすように言ったのは、京都の人らしい。
「死んだ息子に似てるって、可愛がってくれてさ」
 息子さんを亡くすなんて気の毒だと思った。
「病気かなにかで……」
「いや、前の担当者にも、その前の担当者にも、同じことを言ってたんだけどね」
「みんな似てたんですか?」
 人見さんが笑う。
「まさか、みた目も年齢もバラバラ。要は、自分の母親のお金だと思って、真剣に運用を考えなさいってこと」
 わたしは驚いた。世の中には、想像のつかない考え方をする人がいる。
「その人さ、前に話したリーマンショックの頃、担当してたんだ」 
『百年に一度の』と言っていた。
「損したんですか」
 人見さんは深く頷いた。
「僕が謝りに行ったら『あほやな、あんた』って言われた。『こっからが、投資の醍醐味でっせ。たんと儲けさせてもらいますさかい』って。なんか、凄かった。人間の器っていうのかな。『戻りの、はやそうなん探してや』って、あの時ほど、銘柄探すのに必死になったことなかった」
 目を細めて遠くをみた。
「なんか、話したら、会いたくなってきたな」
「連絡……」
 言いかけた。アドレス帳を消したと言っていた。
「直アポでいけるよ」
 首をかしげた。
「いつもお宅に伺ってたからね……。インターホンを押せば会える」
 年賀状のやりとりもあるらしい。
「僕も若かったし、あの人には本当にほれちゃってさ。いつも和服姿で、綺麗な人なんだ」
 横顔をみていた。
 その人は、随分年上だと思い込んでいたのに、違うのだろうか。
「会いたいけど、悲しませるからやめとく」
 目を閉じてため息をついている。
「結婚しましたなんて言えない。この髪型をみせたら、叱られるしね」
 人見さんがわたしをみた。
「なんて顔してんの? もう、八十過ぎのおばあちゃんだよ」と、笑ったけれど、その顔はどこか寂しげだ。髪が伸びてからもう一度くればいいのにと思った。
 途中、車線とかわらない幅の小川に添って桜並木があった。遠くまで続いている。タクシーに待ってもらって少し歩いた。
 川は、道路と並んで流れている。川を横切る道が区画ごとにあり、橋が等間隔で架けられている。渡る途中で下を覗く。川面に桜の花びらが散りばめられている。鴨がゆったりと泳ぎ、線を描いていく。
 桜並木は遊歩道になっていて、所々にベンチが置いてあった。遊歩道に屋根をつくるようにして桜が咲き乱れていた。手を少し伸ばせば届きそうなところまで、枝がある。人見さんは、時々身をかがめて花を避けながら歩く。
「なかなかでしょう」
 頷いた。
「ここも、結構いいんだけど、序の口」
 驚いた。
「混む前に行こう」
 タクシーに戻り、嵐山へ向かった。
 先ほどよりは随分幅の広い川に沿って走る。道は緩やかなカーブを描いている。土手に所々に桜が咲いている。河川敷は整備されていない。川の中に木がたくさん生えていた。中州は枯れ草で覆い尽くされている。
 ずっと窓の外をみていた。
「ここでいいです」
 人見さんが運転手さんに声をかけた。
 テレビでみかけたことのある有名な橋が少し先にある。ここからでも、桜が満開なのがわかる。
 人見さんは、一万円札を渡して、お釣りを断っていた。さらに、丁寧にお礼を言った。降りると、運転手さんも出てきて深く頭を下げた。
 橋のほうへ歩き始めた。
 犬の散歩をしている人がいる。
 ジョギングをしている人もいる。地元の人だろう。
「渡月橋が好きだった。住んでいたのは左京の方だったんだけど……あっ、ここは右京区ね」
 わからなかったけれど頷いた。
「季節を問わず、わざわざ、来ていた」
 今までみてきた桜のなかで、一番綺麗だった。
 川は緩やかに流れる。川へせりだした枝いっぱいに、薄紅色の花が咲いている。その向こうに『渡月橋』がみえた。
 石垣のようになった堤防を降りていく。足元がおぼつかない。わたしの手をとってくれた。川原を歩く。日差しは優しく、風は少し冷たい。かすかに葉の匂いがする。
 渡月橋の下流に真っ白な筋が二本、岸と岸を繋いでいる。よくみると、川の中に段差がある。小さな小さな滝みたいだ。対岸に桜がみえていた。
「橋を渡ろう」
 堤防を上がっていく。
「初めてみたとき、橋桁が気に入ってさ」
 木を組んであるような形をしている。
 橋を渡り始めた。真ん中で人見さんが立ち止まった。
「ここからみる桂川がいいんだ」
 人見さんは、欄干に手を置いた。わたしは横顔から、川に視線をうつした。
 川面が輝いていた。大きなカーブを描く川の両端には木や雑草が繁っていた。
 真っ白な鳥が、羽をひろげ飛び立った。
 タクシーの中からみた道沿いの桜が霞んでいて、それはまた違う美しさだった。
「律」
 人見さんをみた。突然、顔が近づいてきてキスをされた。驚いて、バッグを落とす。
 人見さんが拾ってくれた。
「こういうの『路チュウ』って言うんでしょ」
 何も反応できなかった。
「僕にとって『ろちゅう』は路上駐車のことなんだけどな」
 今更ながら、辺りをみまわす。誰も気にしている様子はなかった。
 橋を渡りきったところには、広場があった。砂利が敷き詰められている。たくさんの桜がみえる。
 砂利を踏みしめながら歩く。人見さんとわたしの足音が交互になる。
 見事な枝垂れ桜が風に枝を揺らしていた。
 お食事処もあるが、まだ開店していない。ゆっくりと歩いた。
 小さな川を渡る。その先をみて思わず息をのんだ。
 大きな桜の木が、たくさん、それほど間隔もあけずに立ち並んでいる。
 視界が桜の花でいっぱいになった。じっと見上げていた。
「ここ凄いでしょう。見下ろしたら、雲海みたいになってると思うんだよね」
 言葉の意味がわからなかった。
「雲海、知らない?」
 首をかしげた。
「飛行機から、雲を見下ろすと海みたいでしょう?」
 わたしは、何かでみた映像を思い出して頷いた。
「さあ、移動しようか。次は、市内を横断して東山まで行こう」
 人見さんは、笑った。楽しそうなのでわたしも笑う。 渡月橋を渡ってもといた岸に戻った。お土産屋さんが立ち並ぶ道を歩くとすぐにわたし鉄の駅についた。『嵐電』と書いてある。文字をみていると「『らんでん』って読むんだよ」と教えてくれた。
 ホームに、一両だけの小さな電車が止まっていた。薄っぺらいカードを渡された。
「これ一枚で、嵐電と地下鉄乗り放題。いちいち切符を買わずに好きなところで何度でも乗り降りできるよ」
「便利ですね」
 電車に乗り込んだ。窓から、大きな和柄の筒がたくさん立ち並んでいるのがみえた。人の背丈をこえるけれど、万華鏡の筒に似ている。
「友禅のポールは六百本あるらしいよ」と、言った。
「僕がいたころはなかったんだ。夜、光ってきれいみたいなんだよね……みたい気もするな」
「わたしも、みたいです」
「じゃあ、戻ってこよう」
 嵐電はゆっくり走る。車内アナウンスの観光案内が面白かった。
 途中、地下鉄に乗り換えた。
「今から行く場所は、ものすごく混んでると思うから、覚悟しておいてね」
 頷いた。
「京都に住んでいた頃、キレイだって知ってたんだけど、人も多いって聞いてたから近寄らなかったんだ」
 人見さんがその場所の名前を言ったけれど、聞き取れなかった。
「けあげのインクライン」
 言い直してくれた。
 蹴上駅でたくさんの人が降りた。改札も混雑している。列に並んでついて行く。
 地上に出て、ほっとした。向かう場所は同じようで、ばらけながらも列になって歩く状況はかわらなかった。
 古めかしい煉瓦造りのトンネルをくぐる。階段のたもとにたこ焼きの屋台があった。舗装されていない階段をあがっていく。桜が並んでいる。しばらくすると、広場があった。わたしは立ち止まった。
 桜もキレイだった。だけど、目を奪われたのは、風になびく白いベールだった。
 桜の木の下に、ウエディングドレスを着た女性が立っていた。ベールは風になびいていたわけではなかった。少し距離をおいてスタッフらしい女性が手に持っていた。
 傍らにはタキシードを着た男性がいた。
 雑誌か何かの撮影だろうか。正面にカメラマンが立っていた。可愛らしい女の人だった。新郎をみつめている。好青年ではあったけれど、モデルではなさそうだった。
 二人の邪魔をする人はいなかった。遠巻きに見守っている。
 花嫁さんは、幸せそうに微笑んで寄り添っていた。
 時にはみつめあう。
 カメラマンはいろんな角度から二人を撮影していた。
「律も、ドレス着たい?」
 訊かれた。恥ずかしくてうつむいた。憧れてはいる。だけど、似合わない気がした。
「写真だけでも……撮る……?」と言ったあと、「先に」と付け加えた。
 首を左右にふった。
「まあ、いいや。練習! 練習しとこう」
 なんの練習だろうと思う。それでも、人見さんの言い出したことは、実行される気がした。
 インクラインへ桜をみに来る人が多いのには、納得できた。
 緩やかな坂に、今は使われていない線路が残っている。砂利が敷き詰められ、所々に枕木もある。その両端に桜が並んでいた。本当にトンネルのようだ。遠くまで続いている。その向こうに濃い色で塗りつぶされた山並みがみえる。澄んだ青空に桜並木の淡いピンクがよく合う。
 ただ人の多さには圧倒される。
「夜は、もっとすごいことになるよ。ライトアップされるんだけど、カップルだらけだって」
 さぞかし幻想的だろう。
「レールの上を歩いてごらんよ」
 バランスを取りながら歩く。
「初めて?」
 振り向いた途端バランスを崩す。人見さんが腕をとった。
「レールの上なんて、なかなか歩けないよね」
 手を離し、わたしの前に割り込んできた。
「砂利より、かえって歩きやすい」
 そう言ったわりには、しばらくすると落ちていた。
 どこを歩いても桜が見頃だった。
 動物園や美術館のある場所に、朱塗りの立派な鳥居があった。みたこともない大きさで驚いた。
「平安神宮の鳥居だ」と教えてくれた。
 その辺りを散策した。
 急に、人見さんが「もう、無理」と言いだした。まだ、お昼前だった。
「絵、ばっかり描いてるから、足が弱ってる」
 顔を歪めている。
 そこから、しばらく別行動になった。人見さんは美術館に行くと言っていた。ついて行こうとしたら「一人で、みたい」と断られた。
 わたしはあてもなく美術館の近くを歩いて回った。一時間ほどで、人見さんから連絡が入り、合流した。
 昼食は、混む時間をさけて遅めにとった。
「食べたら回復した」
 そう言ったけれど、疲れているのか、それからも無口だった。
 タクシーで移動したあと、『哲学の道』を銀閣寺近くまで歩いた。人がとにかく多く、哲学について考える雰囲気ではなかった。
 嵐山までは、タクシーで戻った。眠ってしまったので、どのくらい時間がかかったのかわからなかった。いつのまにか、すっかり日が暮れていた。
 和柄のポールに明かりがついていた。昼間みたときも十分キレイだった。今は、オレンジがかった柔らかな光を放っていた。道を縁取るように立ち並んでとても幻想的だった。
 光りに誘われて、小道を奥へと進んでいく。
 しばらくいくと小さな池があった。
 池の中に大きな玉がある。龍の絵が彫ってある。龍に祈ると希望が叶うと説明があった。水に手をひたすと幸せが訪れるらしい。二人で並んで手をつけた。水が冷たかった。
「お願いもしておこうかな」
 わたしは、人見さんをみた。わたしの願いは一つ叶ったところだ。
 龍をみつめて「ギターが巧くなりたい」と念じた。
 人見さんは何を願っているのだろうと思った。 晩は嵐山で湯豆腐を食べた。
「疲れたし、泊まるところを探そう」
 わたしは頷いた。
 人見さんは、タクシーを拾った。乗り込む。行き先を訊かれ「できるだけキレイなラブホテルにお願いします」と、返した。
 息がつまるかと思った。
「少し距離はありますが……」
 運転手さんは言う。
「かまいません」
 人見さんをみた。
「行ったことないでしょう?」
 当たり前だと思った。
 旅の恥はかきすてって言うけど、恥ずかしすぎる。
 窓の外に顔を向けて、黙っていた。どこをどう走っているのか、わからなかった。人見さんが、わたしの腕に触れた。引っ張って、手を握る。それだけで、背中が少しむずがゆくなって、うつむいた。
 ホテルが建ち並んでいた。やたらと明るい。一言も話せなかった。
 降りてからも、ずっと、うつむいていた。わたしの肩に腕をまわしてきた。ため息がもれる。ひどく緊張していた。
「ちょっと、肩の力抜いてもらえるかな? かなり怪しげにみえると思うんだよね」
 そうかもしれないけれど、どうしようもない。
「そうだ、せめて律が僕の腕につかまってよ」
 頷いた。とにかく、腕にしがみついて、地面ばかりみて歩いた。気分は、お化け屋敷に入るのと、そうかわらない。
 個室に入ると、少しは気分が楽になった。人見さんは、先に奥へと入っていった。後を追う。
 大きなベッドがあった。
 人見さんはエアコンを調節している。わたしは、部屋の端に立っていた。
 みていると、次にテレビ画面の前に立って、別のリモコンを手に持った。振り向いた。
「律、エッチなビデオって、みたことある?」
 全力で否定した。
「みてみる?」
 もう一度、頭を強く振った。
「一生、みない?」
 頷く。
「じゃあ、いいや」と、リモコンを置いた。
「疲れたから、お風呂に入って寝よう」
 頷いた。確かに歩き疲れていた。人見さんがお風呂をために行った。
 ベッドの端に腰掛けて、少し部屋のなかをみまわした。絨毯や壁紙がメルヘン調だった。天井を見上げて絶句した。わたしの驚いた顔が映っていた。
 うつむいて、ため息をつく。
 どうしてこうなんだろうと思う。人見さんは「それでいい」って言ってくれたけれど、あの夜だって、何もうまくはできなかった。明かりを消していても、闇に浮かんでみえた人見さんの姿を思い出して、変な気分になってしまった。
「マットがあってびっくりした」と言いながら戻ってきた。
 なんのことかわからない。
「あれはいいや。律は一生使わないと思うから……あっ、断っておくけど、僕だって使ったことないからね」
 首をかしげた。 人見さんは、笑った。わたしに近づいてきて、手を取る。「一緒に入ろう」と、甘えたような顔をした。すぐには頷けなかった。
「明かりは消してていいからさ」
 微笑んでこたえた。
 お風呂がとにかく広いのに驚いた。
「位置を確認しておいてよ。先に入っておくから電気を消して入っておいで」
 一度、脱衣所から離れた。呼ばれて戻る。
 服を脱いで、電気を消した。お風呂場の扉をそっと押して中に入った。
 人見さんが「右から順に、ボディーソープ、シャンプー、コンディショナー、ローション、憶えておいて」と言った。化粧品まで置いてあるのかと感心する。
 湯船から出る音が聞こえた。緊張が増す。
 わたしの髪を丁寧に洗ってくれた。体は背中と腕を洗ってから「後は自分で洗って」と言われた。
 泡のお風呂も初めてだった。
 中に入っている間だけ「みえないからいいよね」と、湯船の中のライトをつけた。七色に光ってキレイだった。
 泡も少なくなってきたので、ライトを消し、また暗闇になる。
 湯船から出て、泡を流していた。後ろから「手を出して」と言われた。冷たい液体が手のひらにたまった。その手で、腕を撫でるように言われた。ぬるぬるとすべった。驚く。人見さんも手につけて、わたしの腕を撫でた。
「どう?」
「どうって……変な感じです」
 人見さんが笑っている。
「滑ると危ないから、流そうか」と、お湯を出してわたしの腕にかけた。
 出たあと、髪を乾かしてくれた。
 バスローブのまま、布団に入った。腕枕をしてくれた。温もりが心地よくて、すぐにうとうとし始めた。
「僕の家には、山崎以外の男をいれないでよ」
 人見さんが言う。
「浮気しそうにみえますか?」
 目を閉じたまま訊いた。
「ううん、絶対に、浮気はしなさそう」
 体をわたしの方へ向けた。優しく包み込まれる。
「律が、ずっと、僕だけのものならいいのに……」
 人見さんは何を心配しているんだろう。わたしが、人見さん以外に心奪われるなんて、あり得ないことなのに。 眠りに落ちながらそう思った。  
六時過ぎには起こされた。
「タクシー呼ぶから、早く支度して」
 起き出す。バスローブははだけていた。慌てて前を合わせた。
 人見さんは、先に着替えている。わたしも急いで服を着た。慌ただしく外に出る。
「もう一度、嵐山に寄る」
 また、あの桜をみられるのかと思って嬉しくなった。
 人見さんが先にタクシーを呼んでおいたので、用意が終わり出た頃にはもう来ていた。昨日同じ道を来たはずなのに明るいと随分印象が違う。しばらくすると雲海みたいだと言った場所に着いた。タクシーには待ってもらうようだ。昨日より早いので、さらに人が少なかった。
 人見さんは一人、桜の間を奥に入って行った。なんとなく、少し離れてみていた。真ん中辺りで、人見さんは顔を上に向けた。
 雪が降った日のことを思い出す。
 風が吹き抜けた。桜の花がざわめく。花びらが舞いはじめる。わたしは、スマートフォンを手に持った。
 風が強まる。桜吹雪だと思った。たたずむ人見さんを、何枚も何枚も撮った。
 人見さんが気づいて、こちらをみた。
「何? モデル料高いよ!」と、笑う。その顔もちゃっかり撮っておいた。
 手招きをされた。ゆっくりと近づいていく。足に伝わる土の感触は柔らかだった。
 幹に苔がはえている。鮮やかな緑色をしていた。土の匂いを吸い込む。
 桜の花びらが、無数に落ちている。
 人見さんの隣で空を見上げた。
 桜の隙間から、青空がみえた。
「ねえ、律……律はどうありたい?」
 なんと答えたらいいのかわからない。
「僕は……」
 人見さんがわたしの手をとった。強く握った。
「美しく、ありたい」
 また、風が吹いた。花びらが降りしきる。ひとひら、まぶたに触れた。そっと、目を閉じた。
 駅へ向かうタクシーの中で、人見さんは無口だった。
 窓の外をみながらわたしの名前を呼んだ。
「桜もキレイだけど、京都は紅葉の方がいいよ。いつか……」
 それきり黙った。
 桜よりもキレイだなんて、どれほどのものだろう。また一緒に京都へ来たいと思った。
 駅について「この近くに水族館があるよ。ついでに寄っていく?」と訊ねられた。開館時間まで二時間ほどあったので「今度で良いですよ」と返した。
 人見さんは、しばらく考えて「今度にしようか」と言った。

 家に戻ってから、すぐに、ドレス選びに連れて行かれた。
「絵に集中したいから、先にすます」
 幸いなことに、標準的な体型なので、気に入ったドレスが体にあった。
「僕はなんでもいい」と言ったけれど、深い群青色のタキシードがキレイだったので、それにしてもらった。
 人見さんはまた無理を通して、三日後に撮影した。
 結構、いろんな場所で写真を撮った。できあがるのはひと月以上後だ。
 それから、人見さんはアトリエに入り浸りだった。
 どんな絵を描いているか訊ねたら、少し間を置いて「抽象画」と返ってきた。
 納車の日は、半日ほど、車の運転に付き合ってくれた。
「まあ、これなら心配いらないかな」
 及第点をもらえた。
 大学も始まり、少し忙しくなった。美佐子にはまだ結婚したことを黙っていた。
 四月も中頃になった。
「もうすぐ描き上がる」
 最近、根をつめすぎているように思う。顔色も悪い。食欲がないと言って、夕食を断ってくることもあった。
 心配すると「いや、花粉症がひどくて、薬を飲んでいる」と言った。ゴールデンウィーク頃までは、毎年体調をくずすらしい。
 この頃、頻繁に山崎さんが来る。
 わたしには挨拶だけですぐに人見さんと部屋にこもる。
「ちょっと今後のことを相談している。律のご両親にもきちんとしないといけないしね」と、言われた。
 呼ばれる時以外は、ほとんど自分の部屋にいた。時々、人見さんの写真を眺めていた。
 朝日をみた日と、桜の下と、それと、こっそり、タキシード姿の写真も持っていた。
 練習のかいあって、前よりはましに、レスポールの音を引き出せるようになってきた。
 四月下旬になった。
 朝、人見さんは普段通りアトリエに出て行った。夕方、電話があった。
「絵ができたんだ」
 嬉しかった。だいぶ弾けるようになったので、聴いてももらいたかった。
「だからさ、これから、北海道に行くことにした。もう、空港なんだ」
 言葉を失う。
「山崎から、花粉がおさまるまで行っとけって言われてさ。この際、風景画でも描いてみようかと思って」
「本気ですか?」
 山崎さんはどうしてそんな余計なことを言うんだろう。泣いてしまいそうだった。絵を描いていると思うから、我慢していた。
 人見さんも人見さんだ。少しは相談してくれてもよかった。
「SNSに北海道の写真をあげるから『イイネ』してよ」
「いいですけど……」
「それに電話はしないでね。帰りたくなっちゃうからさ」
 別に、帰ってくればいいのにと思う。
「律、泣いてない?」
「泣いてません」
 本当は、涙がこぼれていた。
「律、君は表現者だから、人生に無駄な物なんて何一つ存在しない。嬉しいときには嬉しいときにしか生まれない歌があり、悲しいときには悲しいときにしか生まれない歌がある。離れていても、僕を思って歌を作ってほしい。僕は、いつでも律のことを思ってる」
 人見さんは「時間だ」と言って、電話を切った。
 ゴールデンウィークが終わるまでなら、そう、長くないと思い直した。

 それからは、人見さんがSNSに写真をあげないかと、スマホを常に気にしていた。人見さんは、何度も写真を呟いた。この辺りではみられない風景ばかりだった。どんな絵を描いているのか気になりながら、イイねを押した。
 五月に入った。
 人見さんから、SNSにダイレクトメッセージが届いた。
『リクエストがあるんだけど、いい?』
 すぐに気づいて『何ですか?』と返した。
『配信してよ。律の作った歌が聴きたい。それから、エレキギターも弾いて』
 自分で作った歌かと、ため息を吐く。
『仕方ありませんね。リクエストを受けつけます。準備しますね』
『ありがとう』
 配信はまず、エレキギターの演奏からにした。いろんな曲をさわりだけ弾いていった。
 アコギに持ちかえる。
 自分の作った曲を歌うのは、恥ずかしかった。
『なんにも知らないわたしをいつも笑顔で許してくれる』
 さびのフレーズは最初にできあがった。片思いをしていた時の思いがつまっている。タイトルはまだ決まっていない。
 歌うと、一緒に過ごしてきた時間が鮮明に思い出された。コンビニの前で声をかけられたことも、お互いの家が近くて驚いたことも、ほんの数ヶ月前なのに、本当に懐かしかった。
 考えたら、あれからお酒飲んでいない。
 朝日をみたこと。椅子を選んだこと。あの日、服をたくさん買い込んだのに、まだ、ほとんど着ていない。
 画材屋さんはたのしかった。
 美佐子も一緒に学食で昼食をとった。
 大学の前の坂道を、手を引かれて走ったとき、わたしは、自分の気持ちに気づいた。
 人見さんの描いたギターはキレイだ。
 キャンバスの下塗りも楽しかった。
 人見さんが初めてわたしの部屋に来たとき、美味しそうにチャーハンを食べてくれた。
 どんな人見さんも、とても好きだけれど、わたしは、絵を描くときの人見さんが一番好きだ。
 配信の後、またダイレクトメッセージが届いた。
『生で、聴きたかった』
 気に入ってもらえたのかもしれない。
『早く帰ってきてくださいね』
 しばらく、返信がなかった。
『もうすぐ、帰るよ』
 その文字をみて、安心した。
 それなのに、ゴールデンウィークが終わっても、人見さんは帰ってこなかった。不安に耐えられず、一度電話をしたけれど出なかった。
 最近、北海道の写真もあがらない。
 それからしばらく経った日の講義中に、スマートフォンが震えた。人見さんからだと思ったが、山崎さんからだった。
 少し迷う。抜け出して電話に出た。
「どこにいる?」
 訊かれた。
「講義中なんです」
「タクシーを向かわすから、早く来い」
 山崎さんの口調が、いつも以上に怖かった。荷物を持って正門前に立っていると、タクシーが来た。言われた病院をつげる。
 嫌な予感しかせず、苦しかった。
 タクシーが病院の入り口につくと、山崎さんが駆け寄ってきて運転席の窓を叩いた。運転手が窓を開ける。「足りるだろ」と、一万円札を渡している。
 わたしに早く降りろという。
 何がなんだかわからなかった。山崎さんに引きずられて病院内に入った。
 病室の入り口に、人見さんの名前が書いてあった。
「けが……? 北海道で事故に遭ったんですか」
 山崎さんの腕をつかんだ。
「本気で知らなかったんだな」と、山崎さんが言った。
 病室のドアをあけた。
 個室だった。背中を押されて中に入った。
 みても、すぐには人見さんだとわからなかった。
 痩せている。
 腕に、点滴の管が繋がっていた。
「昨日から、目を覚まさない」
 山崎さんは言った。わたしは、首をかしげた。
「本当は、すべて終わるまで、絶対に言わないように頼まれていた。だけど、俺には、黙っておくことは……」
 山崎さんは、大きく息を吐いた。
「人見は、生きてる」
 目の前の空間が歪んだ。
「今ならまだ、生きてるんだ」
 わたしはその場に座り込んだ。
 山崎さんが立たせてくれた。人見さんのそばまで支えてくれた。
 顔をみる。静かに眠っている。本当に痩せていた。だけど、人見さんだった。
 手に触れた。温かかった。わたしは、頭を横に振り続けた。
 こんなことが、現実のはずはないと思った。
「人見の描いた絵をみてやってくれ」
 山崎さんが、ベッドの横のカーテンをひいた。
 二枚あった。
 一枚は、白いワンピースを着たわたしだった。
 もう一枚は、黒いパーカーを着て、ギターを持って歌うわたしだった。
 いつの間に……。
 こもって描いていたのは、この絵だったんだとわかった。
「君に、歌があることを、忘れないでほしいと言っていた」
 わたしは泣いた。ただ人見さんの名前を呼び続けた。
 涙が枯れ果てた頃、山崎さんに手紙を渡された。


 人見 律 さま

 宛名をこう書くことに、少しの罪悪感を抱きながらも、この上もない幸福を味わっています。
 最初に、謝りたいと思います。
 あなたにはたくさんの嘘をつきました。もしかしたら、ほとんどが嘘だったかもしれないと思えるほどに、嘘ばかりつきました。
 そして内緒にしていたことも、たくさんあります。
 僕が禁煙に願掛けしていたことは「誰かを愛したい」でした。
 自分の人生が残り少ないと知った時に、何よりも辛かったのは僕には愛する人がいないことでした。そう長くはないけれど三十五年も生きてきて、まだ出会えていなかった。
 告知を受けた後、しばらくは、いっそのこと死んでしまおうと考えていました。それでも、自ら命を絶つことはできずに、家にあるものを次々捨てていきました。家具や、もう着ることのない夏服を捨てると、部屋に、イーゼルとキャンバスが残りました。
 僕は、最後に絵を描こうと決めたのです。
 あなたに初めて声をかけた日、僕は本当に旅へ出るつもりでした。病室で最期を迎える時、見ていたいと思える景色を探しに行こうとしていたのです。
 あの日、あなたが僕にくれた笑顔が、どれほど僕の心を震わせたか、わかるでしょうか。
 絵も、もちろん描きたかったのだけれど、何よりも、残された時間をできるだけあなたと過ごしたいと思いました。あなたに僕が存在したことを憶えていて欲しいと願いました。
 最初のうち、僕は、あなたから奪うことばかり考えていました。時間を奪い、心を奪い、突然消えることで、深く深く傷つけ、あなたに僕の存在を刻みこもうとしていました。
 いつからか、僕はかわりました。
 あなたに何をしてあげられるのか、あなたに何を遺せるのか。お金ではない何かを、今の僕に、短い時間でどれほどのことができるのか。常に考えるようになりました。
 愛を知ると人は強くなるとよくいうけれど、僕は強くはなれませんでした。
 あなたに嘘をついて離れたのは、取り乱す姿を見せたくなかったからです。
 あなたの、涙を見たくなかったからです。
 だけど、そのおかげで、今、僕の心はあなたの笑顔で満たされています。
 山崎には、残酷だとしかられました。本当に、許されることではないけれど、それでも、僕の弱さを許してください。
 後の事は、山崎に頼んであります。だから、心配しないでください。
 僕の遺したお金は、老後まで取っておいてください。お金があると人は怠惰になります。あなたはまだ若いのだから、惜しみない努力で自分の世界を切り開いてほしい。だけど、本当に必要な時は、使ってください。
 あなたに、素敵な出会いが訪れることを心から願います。
 幸せに笑うあなたの中で、僕は、生きていきたい。
 それが、僕が最後に抱いた夢です。
 一緒にいてくれてありがとう。
 僕はあなたに出会えて、本当に幸せでした。
                        人見 靖彦


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