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「伝えたい」という気持ちで書くこと。

「 何か書く人達のうち、成功していると言える人が明らかに抱くもの。
それは、『 書きたい 』よりも『 伝えたい 』という気持ちなのだ。」

……ということが書かれた文章を、最近ちらほら拝見した。

この気持ちは、今までの、いや、今でも明らかに自分には足りないマインドだ。


伝えたいという強い想いがあるからこそ、書きたいだけのひとりよがりの文章ではなく、読み手の立場の視線も考えられ、工夫を重ねられている良文が生まれる。
そして、そこには読み手の心に響くような、熱い思いも乗っているはずだ。



わたしの場合、文章を書きたい気持ちは、自分の中に十二分に溢れかえっている。
そんなわたしが、こういう場で何かを書いている。
それは、間違いなく誰かに聞いてほしい(つまり、読んでほしい)からだ。

でも、みんなに是非とも読んでもらいたい、多くの人に届けたい、という熱い気持ちがあるかというと、それもちょっと違うんだよなぁ………と違和感が生じる。

読まれたいし、読んでいただけたらとってもとってもとってもとっても嬉しい。

ただ、それは、何かの偶発でわたしの文字を目にした方が、ふと目を止めて文字をたどり、少しでも何かを感じてくれたらいいな……という程度。

伝えたい・主張したい、だから書いているのだという感覚はあまりない。
結局、自分の書きたいことを書いて終わるという自己満足が大部分を占めてしまう。

現時点でそんなわたしが、この『 伝えたい気持ち 』をキープしながら書くなら、最もむいているのは取材記事だ。
取材で得た材料をもとに、出来事や誰かの話・想いを伝えるための文章だから。そう、まさに伝えたいから書くものだ。


それが、自分の小説なりエッセイなりだと、『 伝えたい 』がどうしても欠落しがち。
そもそも、自分のこと、あるいは自分の中に生まれた思いや物語を伝えたいとか知ってほしいという強い欲が、わたしにあまりない。

実生活でも、身の回りの出来事を面白おかしく話すことはあるけれど、自分についてのただの情報を積極的に周知することはほとんどない。
それは、わたしに関することなんて、大多数の人にはどうでもいいことだと思っているから。
出来事を面白く話しているのは、HSPなので、誰かと一緒にいるときの沈黙が大の苦手で相手が笑っていると安心する、という性質に由来するものだ。



だから、何を書いても、「 誰かが聞いてくれたらいいな 」というだだ流しレベルになってしまうのだ。
特に、小説なんて、頭の中に降ってきたストーリーを文字化しているという感覚が主なので、小説を通して世の中に伝えたい強烈な想いやテーマが特にあるわけではない。




もともと、小説は、誰かの何らかの出来事を切り取って提示しているにすぎない。
『 誰か 』というのは、現実に存在する人か想像上の人物かを問わない。
現実かどうかに関わらず、どこかで起こっている出来事、それを物語として文字化したものが小説なのだと理解している。
リアルに生きている誰かの人生や日常の事を書けばノンフィクション小説になる。
歴史上の人物を題材に書けば歴史小説。
完全なフィクションであっても、現実に存在しないというだけで、何らかの出来事を完全に想像で描いたものだ。

どこかの誰かの出来事を切り取ったものだとすれば、生きてて起こり続ける出来事に、いちいち意義や意味が前提としてあるわけではない。
あるとするば、それらは後付けだ。
だから、物語・小説も同じで、こういう出来事がありました、と書き手が物語として提示すれば、あとは読み手が好きに読めばいいと思っているのだ。
それゆえに、書き手が伝えたいテーマは必須のものではないという持論がある。


特にわたしの場合、頭に浮かんだストーリーを文字化しているだけで、その描写や表現は考えて書いているとしても、物語に何かテーマを乗せて書くということを今まで考えたこともなかった。

ただし、小説を書くなら、「伝えたい」というよりも「射したい」はある。
小説の中のワンシーンでもワンフレーズでも、自分の文字力だけで、誰かの心に刺さってきゅっと伸縮させたり、心の中をうっすらとでも何色かに染める。
そんな文章を書くのが願望だし、本望でもある。
何かのテーマを伝えるのではなく、一瞬でも心を動かす、そういうエンターテインメントとしての自分の小説でありたいとは思っている。


……… という異質なことを考えているのはわたしくらいのもので、ほとんどの小説には伝えたいテーマや柱があるのだろう。
小説とは、本来、作者が伝えたいことを登場人物の言動などを通じて描き出す、ストーリー性のある散文体のこと。
そして、作者は懸命に書くはずだ。伝えるために、伝わるように。

以前、通りすがりに目にしたものだけど、誰かの小説に対し、誰かが「これは何を言いたい話なんですか?」とコメントしていた。
それに対して、作者の方が「小説に、何が言いたいか、なんて必要なんですか?」と返していた。
コメントした方は、小説について正統派の意見をお持ちで、作者の方は、もしかしたらわたしに近い感覚で書かれていたのかもしれない。



こんなことを考えたりしているのは、この先文字とどう向き合うかをちょっと真剣に考えているから。
適当な文章をダラ書きして満足したいわけではない、と最近思うようになった。
できれば、文字を書くことでお金を得たい。
そのために、本腰を入れてWEBライターの勉強をするスイッチがようやく入りかかって、ちらほらと色々なライターさんの御意見を拝読している。

そんな中でひっかかったのが、この『 書きたい 』<『 伝えたい 』ということだ。

小説家とライターはもちろん違うけれど、いずれも『 伝えたい 』という思いを元に書かないと精進できないことがわかった。
だから、何にせよわたしの場合、ちゃんと物書きをするなら『 伝える 』へのマインドセットが必須なのだ。

とはいえ、マインドセットだけで書けたら、多くの人は苦労しない。
マインドのみならず当たり前だけど言葉や文章の勉強も必要だし、まずはとにかく書いてみる事だと思っている。

なお、この文章は、伝えたいというよりは、自分の心情の備忘録に近い。
書いて文字化・可視化して確認することは、マインドセットに間違いなく有効な手段だ。




今のわたしが『 伝えたい気持ち 』を純粋に持ってるのは、実は写真だと最近気がついた。
自分の目にした世界を、誰かに教えたい。
そのために、色や形を誠実に写し出す写真も撮りたいし、伝えたい部分にはっきりとフォーカスしたり、より美しいと思える姿に補正し誇張した作品も創ってみたい。
だから、ちゃんと勉強したいし、一眼レフも買ってみたい。

でも、文字を書くのも大好きだ。
だから、フォトライターと名乗れるようなものが、自分がもっともなりたい自分なのかもしれない。


ちなみに、わたしのことがどうでもいい、と言っても、自分に価値がないという意味ではない。
世の中の大半にとって、わたしという存在はいてもいなくても体勢に影響はないし、世の中にわざわざわたしの情報を知らせる必要も感じないということ。
ただの何の変哲もない夜ご飯のおかずの写真をわざわざアップして、いいねやコメントを欲しがる人の気持ちもあまりわからない。
が、これも『 伝えたい 』の一環であることくらいは理解できる。


そのかわり、恋人には自分のことをよく知っててほしい。
だから、些細な出来事も何気ない感情も、恋人相手にはとにかく喋る。

フォトライターとして、時には撮りたい風景を旅する活動しながら、ひたすらわたしの話を聞いてくれる、優しくて我慢強い恋人と暮らす日常。
それが、わたしの一番しあわせな姿に違いない。


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