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高齢化社会、ある日それを街の中で実感した。

もはや、感染者数云々やマンボウというものが出ているかどうかに関わらず、日中の街にはそれなりの活気が戻ってきている。

少なくとも、私の居住地域はそうだ。

通勤電車も、コロナ禍突入前よりは若干空いたものの、約2年前の突然世の中全体が止まったような事態と比べれば、完全なる混雑復活。
ちなみに、このたびのダイヤ改正で幸運にもわたしは空いた車両を使えるようになった。その一方で、明らかに以前より混雑する電車も出没している。
密回避、なんてあったものじゃない。
それが実情なのだ。


***



先日行ったショッピングモールも、年度末の別れや旅立ちに備えてのことだろうか、平日にもかかわらず贈答用のお菓子のフロアが賑わっていた。
そんなことを言いながら、わたしも結局は混雑の一要因になっているのは否めないけど。

人が行き来する、モール内の狭い通路。

次々と正面から避けねばならない人が来る、気を抜けば横にいる人とぶつかりそうになる。

そして、圧倒的な商品の種類と量。

HSPのわたしは、人混みと物の量の多さに疲れてしまい、気持ちが上がらない中で人に贈る物を選ばねばならないのがとても辛かった。



そんな疲労感を抱えながらモールを歩いていた時。
ふと、『 ある物 』をやたらと目にしていることに気がついた。


今まで意識してなかっただけ、とも言えない気がする。

人混みを歩くのは人生で初めてじゃないし。 



……… というのも、

混雑した状況で、
やたらと視界に『 杖 』が目に入るのだ。


杖をついて歩かずとも持ち歩いていたり、さらには杖でなく疲れたら座れるような形をした手押しの荷車を使っていたり。
歩いていて、突然近くのお年寄りが差し出す杖に、何度も足がからまりそうになった。

洗面所に行けば、杖をついた方がおぼつかない足取りで個室から出てくる光景をたびたび目にした。


明らかに頭の中で、「…… 世の中って、こんなふうだったか?」という思いがよぎった。

つまりは、ニュースや統計上の数値のみでなく、高齢化社会の一面を間違いなくリアルに感じたのだ。

25年程前だけど、やはり混雑した街を歩く機会が多かった頃を考えると、これほど杖を持った人が気にかかったことはなかった。

緊急事態宣言まっただ中の時期を挟み、それ以前の混雑の感覚を忘れてしまっているという可能性もある。
しかし、混雑が控えめだったのはせいぜい1年半程度のこと。
それまでに根付いた雑踏の混雑という記憶に、それほど狂いはないはずだ。
久しぶりだからそう感じるだけ、とも思えなかった。


年代を問わず人が集まるような場所における、いわゆる高齢者の方の数が明らかに増えたのだと実感した。



一定の集団における高齢者の方の割合も増えたし、高齢者の方々の出歩く機会も増えたのだろう。

自分が子供の頃、約40年前の昭和の時代は、60歳、70歳なんて「おじいちゃん・おばあちゃん」であり、そういう方々は混雑した場所を歩く存在ではなく、近所を散歩したり家でゆっくりテレビを見て過ごしたりする、そんな感覚だった。

それが、今じゃ人生100年などと言われ、60歳で定年を迎え余生の20年程度をのんびり……なんて許されない。
70歳でも80歳でも、用事があったら杖をついて人混みへ出歩かなければならない時代なのだ。



ふとすれば視界のどこかに必ずといっていいくらい存在する『 杖 』。

子供の頃から、将来そうなるのだと聞かされ続けてきた『 高齢化社会 』、今の日本は間違いなくその社会なのだと実感してしまった。

今は2022年。
子供の頃の教えの記憶によれば、2025年に年代別のピラミッドの形状が異常事態になると言われていた。
それまで、たったのあと3年。

そして、こんな社会を、この先わたしは生きねばならないのだろう。
やがて自分もその『 高齢者 』の一員として。

……… いや、75歳で死んでもいいと思っている私は『高齢者』の仲間にはならないかもしれない。

あと20年もすれば、『 高齢者 』とは80歳以上だと定義されて、60歳70歳はまだまだ現役現役!と生き生きアクティブを強要されることだろう。

そうしなければ、少数の若者だけでは日本を回せなくなるからだ。



………… 嫌だな。
今までさんざん無理して労働をしてきた。
60歳近くになったら、というか、もう今からでもゆっくりゆったりと過ごしたい。
なるべく杖をつかない身体でいたいし、そのためには今からきちんと運動する習慣が必須だ。

万が一杖をつくにしても近所の散歩くらいにとどめて、大嫌いな人混みなんてわざわざ歩きたくはないな。

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