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日記は、未来の自分を面白がらせるために書く

性懲りもなくまた日記を再開した。いまのところ5日間続けて書けている。ひとまずはここnoteに毎日書くことにした。

日記は何度も始め、何度も終えてきた。
「禁煙なら得意ですよ。なんせこれまで何十回と禁煙をしてきましたので」という、インターネットでたびたび見かけるジョークと同じでなんとも気恥ずかしいが、自分でも日記を「始める」のはこれで何回目なのか、覚えていないほど多い。

もちろん今回の日記もいつまで続くかわかったものではない。これまで大抵の場合、生活(仕事を含め)が忙しくなれば、日記のような、せずとも死なないで済むものはサボるようになる。
言い換えれば、いまは時間にも体力にも余裕があるため日記を再開しようという気になったということだ(本当は資格勉強などしなければならないことは山積みなのだけれど)。

私の「日記”開始”歴」は小学校入学前まで遡るはずだ。記憶は確かではないけれど、ひらがなを書けるようになったことを楽しんでいたあのころ、日記というものの存在をアニメか何かで知り、書こうとしたような気がする(本当に読める形で書けていたのかはわからない)。

それから小学生、中学生、高校生、大学生、新社会人……すべてのライフステージのどこかのタイミングでは日記を”始めて”きた。これまで日記を書いてきた期間は短いが、日記を書かないでいられた期間もまた長くない。

いろいろな形式で、いろいろなところに書いてきた。
紙のノート、ルーズリーフ、ほぼ日手帳、豪華な箱に入った分厚い数年単位の日記帳、アメーバブログ、ニコッとタウン、Twitter、Notion、そしてこのnote。
特に制約のない身辺雑記であることがほとんどだが、「就活日記」と題し話題を絞った日記を書いたこともある。
さまざまな媒体=メディアに、さまざまな形で書いてきた。

しかし日記を書く動機に関しては、次の2つのいずれかだった。
それは「他人に読んでもらいたい」「自分のための記録」か、である。
先述の媒体の違いも、他人に見せたいかどうかによって容易に大別できる。多くの人がこのどちらかの動機と、私はどうやら持ち合わせていないらしい忍耐力とで、日記を続けているのではなかろうか。

この動機の違いと度合いによって、たとえ同じ出来事を経験していても、日記に書きつけられる文言は全く変わってくる。

たとえば、それがハンドルネームであろうと個人であることを特定できる形で署名した上で、インターネット上の不特定多数に読まれることを望む日記の場合は、地名や個人名、勤めている会社名や業務上の機密事項など、決して書けるわけがない。
また、腹の奥底から突き上げるあまりにも反道徳的な欲望も言わずもがな、基本的には書けまい。特定の個人への中傷などは言うまでもない。

反対に個人的な記録へと徹した場合は、他者を楽しませようと文章を工夫する必要も、それによる報酬(感想や反応など)もなく、読んでも書いてもさしたる娯楽的な楽しみはない。
考えていることを文字として吐き出すことでスッキリしたりはするだろうけど、それは別に日記に限ったメリットでもない。

この2つの動機、実はどちらも私にとって(おそらくは多くの人にとっても)日記継続の挫折要因たる要素を最初から含んでいる。

他人に読んで欲しくて日記を書く場合、当然の結果として、誰にも読まれず反応もなければモチベーションが下がる。個人名や住所がバレるような記述をなるべく避けながら出来事を記述するために必要不可欠な言い換えやはぐらかしの努力も面倒だ(嘘を書いてはそもそもの日記の理念に反する)。

自分のためだけの記録として書く場合は、誰にも見せないゆえ日記の継続を監視する者がそもそも存在しない。だからついついサボってしまう。そんな日が何日か続いてしまったら、日記の継続などという簡単なことすらできない自分への無力感や負い目によって、いずれ日記をやめるという逃げ道しか見えなくなる。

そこで、今回の日記の開始にあたっては、これら2つとは違う動機を用意してみた。「未来の自分を楽しませるために書く」である。

過去の自分の日記を読むのは楽しい。これは皆共感してもらえる事実だと思う。誰でも大掃除中に偶然見つけた古い日記や、消し忘れていたSNSのアカウントへ久しぶりにログインした際に目に入った過去のブログなどを読む楽しさを、一度は経験したことがあるのではないか。

それに加え、私は自分の書く文章が嫌いではない。たとえそれを下手と感じたとしても、である。社会人となったいまでも大学の課題で必死に書いたレポートなどを引っ張り出して読んだりすることもある。

日記の読者として未来の自分というただひとりの他者を想定すれば、不特定多数へ向けた文章のように、自分にとって当たり前すぎることをわざわざ1から説明する労力もいらず、かといって誰の目にも触れないことが前提の無味乾燥な記録に徹する必要もない。
それに、毎日書けば書くほど未来の自分に楽しみを提供できるのだ。

未来の自分が楽しむためだから、書いたことは忘れても一向に構わないし、むしろ忘れていた方が読むときの喜びは大きい。

さらに思わぬ副次的な利潤として、未来の自分が「こんなことあったな」「こんなこと考えてたんだ」と思えるような日記を書こうと現在の日常を意識してみると、忘れないであろう重大な出来事でもなければ他人を面白がらせるためのものでもない、通常の意識が見逃していた日々の断片にどうやら気がつきやすくなるようだ。

今回の日記がいつまで続くかはわからない。おそらく何年もは続かない。でもある程度まとまった数の面白い文章を、未来の自分に渡してあげられるのではないかと予感している。

私のように日記が断続的にしか続けられない人は、一度試してみることをおすすめします。

ただ、いくら未来の自分に向けたものではあるとはいえ、noteに書いているからには自分以外の人たちにも読んでほしいというのもホンネ。下から読めるのでぜひ読んでみてくださいね。


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