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「哲学ってなんだ」という問いについて〜徒然話

皆様、鹿人(仮)です。

 タイトルの問いですが、哲学科出身の方は必ずといいほど質問されることだと思います笑。この記事では、この質問に対して明確な答えを与えるということはせず、ちょっと反省的に考えみたり、文献をちょっと探ってみたりする、というものになります。

 それでは、始めていきましょう。

「哲学」と一言で言っても、だいぶ違う

 哲学、それはギリシャ語の「φιλοσοφία(フィロソフィア=知恵を愛する)」に由来することが知られています。幕末から明治期の日本では、これが、西周という人物によって翻訳され、「哲(知)を希う学=希哲学」となり、希が省略された「哲学」が用いられるようになったということは、有名な話です。

 さて、このフィロソフィアというものですが、時代時代でその位置づけも異なりますし、その方法や対象となる領域も様々です。有名所でいえば、ソクラテスとカント、ニーチェやヴィトゲンシュタインなど、彼らの問いや対象領域やその手法を、一つの同じ尺度で理解することはかなり難しいと思えます。

驚きは哲学の始まり

 しかしながら、理解のヒントはあります。プラトン『テアイテトス』では、ソクラテスが対話相手である少年のテアイテトスに「驚きは哲学の始まりだ」と、言う一節があります。ごくごく簡略化して言うと、ここでの「驚き」とは「それまで知っていたと思っていたことが、問いを続けられわからなくなってしまう」というような状態のことです。

 こういった経験は、文化のグローバリゼーションと科学技術や情報技術の発達などにより、様々なものが多様化してきた今日でこそ、むしろすることが多いのではないでしょうか。

例えば、様々なものが「アート」と呼ばれるとき、私たちは「アート」という言葉で一体何が名指されるのか、とか、AIの発達が目覚ましい昨今、シンギュラリティ(AIが人間を超えて発達する)の問題が叫ばれるとき、人間とは何か、人間として働くとはどういうことなのか、という問いが出てきたりとか。

 言い換えれば、これらは「線引」の問題と言えますし、「アイデンティティ」の問題とも言えるかもしれません。これらの問いが発生してくるのは、「自分たちが見てきたもの、経験してきたものを覆すような新しいものと出会いがあった」から、なのかもしれません。つまりは、既存の考えでは追いつかないような変化があったとき、私たちは「それは一体何なんだ?」、「私ってなんなんだろう?」と問いたくなるでしょう。そういった、根源的な経験こそ、哲学の始まりなのだと思います。


メタ哲学

 哲学の分野には、「メタ哲学」という分野があります。メタはギリシャ語で「あとに」という意味です。メタなんとか、という言葉をよく聞かれると思いますが、〇〇を反省的に考えるとか(メタ芸術)、付随したもの(メタデータ)に、そういった名前がついたりしています。つまりざっくり言えば、哲学を反省的に考えるようなことがメタ哲学では行われているようです。ウィキペディアの次の記事は意外に詳しく、なるほどとなりました。


メタ哲学という名前を使うこと自体に否定的な意見もある(ヴィトゲンシュタイン、ティモシー・ウィリアムズ)ものの、本記事のタイトルのような問いはこの分野で論究されていそうです。

メタ哲学は哲学を実践することそれ自体に対する哲学的考察である。その最終的な目的は見込みや展望を闡明する※領域の方法を研究することである—ニコラス・レシャー, Philosophical Dialectics, an Essay on Metaphilosophy, p.1

※せんめいする:わからなかったことを明らかにすること。

哲学とは何か知る唯一の方法は哲学すること

 このウィキペディアの記事の中で面白い一節があったので、そちらも見てみましょう。20世紀のイギリスの哲学者、ラッセルの言葉です。

「我々は哲学の特有の形質について指摘できる。誰かが数学とは何かと問うたとき、我々は議論のために辞書的な定義によって数の学問であると言うことができる。そう定義する限り、これは議論を引き起こしそうにない言明なの(だ)…。明確に限定されたひとまとまりの知識が存在する限りどんな分野でも同じやり方で定義が与えられる。しかし哲学はそのようには定義できない。哲学のどんな定義でも議論の的となるし、それらの哲学の定義自体が何らかの哲学的立場を表現している。哲学とは何か知る唯一の方法は哲学することである。」—バートランド・ラッセル、The Wisdom of the West, p.7

ラッセルは数学を例に取り、それが「まとまったひとまとまりの知識が存在する」分野として、その限りにおいて数学を定義できると言っています。それに対して哲学は、「哲学のどんな定義でも議論の的となるし、それらの哲学の定義自体が何らかの哲学的立場を表現している。」といい、哲学がまとまったひとまとまりの知識によっては定義できず、その定義の一つですら、何らかの哲学的な探求の一つだといいます。これは、哲学という営みの性質を的確に表しているように思います。

 ここで、「哲学とは何か知る唯一の方法は哲学すること」と言う事は、特別な意味があります。「〇〇を知るには、〇〇すること」というのは、他の分野にも言えることでもあります。例えば、「テニスを知るには、テニスをすることだ」みたいな言説もよくあると思います。ですが、テニスはテニスをプレーせずとも、ルールブックを読んだり、テニスを観戦したり、選手名鑑を読んだりして、その内実を知ることができます。(もちろん、テニスをすることでしか知り得ない経験的なものもあります。)

しかしながら、哲学においては、特に「哲学とは何か」という問いにおいては、その性質上、哲学をすることでしかその回答を得ることはできないのです。仮にそういった問いの回答をなにか別の本から読んで得たとしましょう。多かれ少なかれ、それに対して何らかの理解をぶつけようとすると思います。その事自体が、すでに哲学的な営みへの参与となってしまうのです。(もちろん、単に議論に参加する事が優れた議論を展開することと異なるように、哲学に参与した人がすべて「哲学者」だ、と言うわけではありません。)

 これは、他の少なからない専門知識を必要とする他の学問領域とは異なります。例えば、物理学や数学であれば、その基礎の理論に則った主張をしたり、数式などのツールを扱うことができなければ、数学や物理学をしたと言うことはできません。極論で言えば、哲学はそういったものぬきに参与することが可能なのです。(そういったものを前提とする分野もありますが…。)もちろん、それは問いの対象となるものを知らなければ、的はずれな議論となること必至であります。哲学の場合でいえば、それは一つには哲学の歴史でしょうか。

プロトレプティコス・ロゴス(哲学のすすめ)

 古代ギリシャ・ローマ時代には、プロトレプティコス・ロゴス(哲学のすすめ)という文学形式があったそうです(うろ覚え)。こちらは、アリストテレスとキケロのものが有名です。

なぜ、このような話をしたかというと「哲学って何?」という問いに答えるには、ある種のプロトレプティコス・ロゴスが必要だからです。その理由は、先の章を見ていただけたらわかると思います。「哲学とは何か」という問いの答えを知るには、哲学するしかないのなら、哲学することを勧めるしかない、ということです(笑)。

 実際、「哲学とは何か」と問う、その興味があるのであれば、それはもう哲学を始める十分な才能だと思います。そして、AIによって知的生産の一部がとって変わられようとする中でも、私たちが何事かを理解しようとし、議論することの価値は、全く損なわれることがないからです。そのような時代であるからこそ、どんな小さく単純な疑問であっても、哲学という言葉のかつての意味に遡って「知を愛する」事で、豊かな心を育むことができるのではないでしょうか。

まとめ

 以上に、「哲学ってなに」という問いについて、徒然に話を進めてきました。結局のところ、「哲学とは何か」という問い自体、それは哲学なのであり、哲学することでしか回答は得られない、ということになるかと思います。しかしながら、哲学をするためには、いろんな書物に出会う必要があると思います。私自身も、数は少ないながらも、そのようにしていくつかの本に出会ってきました。またの機会に、そして復習がてら、その本たちをご紹介できたらと思っています。

それでは皆様、ここまでご精読いただきありがとうございました!


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