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“波乱万丈すぎる”人生! 近代建築の巨匠 “フランク・ロイド・ライト”

知っておきたい建築家たち

何人かの重要な建築家を知るとそれだけで建築や家具の全体について、ざっくり知ることも楽しむこともできるようになります。そんな建築家について紹介していきます。


フランク・ロイド・ライト

フランク・ロイド・ライト氏
By New York World-Telegram and the Sun staff photographer: Al Ravenna - This image is available from the United States Library of Congress's Prints and Photographs divisionunder the digital ID cph.3c16657.This tag does not indicate the copyright status of the attached work. A normal copyright tag is still required. See Commons:Licensing for more information., Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4096246

名前:フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright)
生没:1867–1959(91歳没)
国:アメリカ合衆国

フランク・ロイド・ライト氏は、アメリカの建築家。ヴァルター・グロピウス、ル・コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエと共に“近代建築の四大巨匠”と呼ばれています。アメリカで多く活躍していましたが、日本にもいくつか作品があります。1930年代にユーソニアン住宅にカーポートを設置し、これを初めてカーポートと呼んだがライト氏。ただし、世界で初めてカーポート付き住宅を造ったのは、ライトの建築設計事務所に勤務していたウォルター・バーリー・グリフィン(Walter Burley Griffin)でした。


フランク・ロイド・ライト氏の生涯

1867年 ウィスコンシン州に牧師の父ウィリアム・ライトと母アンナの間の第1子として生まれる。ライト氏の自伝によると、彼の母アンナ氏は妊娠中に「最初の子供は美しい建物を作るように育つ」と宣言したそうです。アンナ氏は彼の子供部屋を定期刊行物から破いたイギリスの大聖堂の彫刻で飾り、子供の野心を刺激ようとしました。

1876年(9歳) アンナ氏は、幼稚園の革新的なカリキュラムの基礎となる「フレーベルの贈り物」と呼ばれる教育用ブロックを目にします。教師としての訓練を受けていたアンナ氏は、このブロックに興奮し、9歳のライト氏に買い与えました。ライト氏は、この「フレーベル・ギフト」の中で、幾何学的な形状のブロックをさまざまに組み合わせ、平面や立体を構成して遊びました。自伝の中で、この遊びがデザインへのアプローチに与えた影響について次のように語っています。「数年間、私は幼稚園の小さな机の上に座り、立方体、球体、三角形、これらの滑らかな木製メープルブロックで遊んだ。これらはすべて、今日まで私の指の中にある......」(※1)

1881年(14歳) ライト氏が14歳になってすぐ、両親が別居しました。

1884年(17歳) ライト氏の父親は「精神的虐待と身体的暴力、配偶者の遺棄」を理由にアンナとの離婚を訴えます。このときライト氏はマディソン高校に通っていましたが、卒業したかどうか定かでありません。1885年に離婚が成立すると父親はウィスコンシンを離れます。以来、ライト氏は父親と二度と会わうことはありませんでした。

1886年(19歳) ライト氏は建築家を志し、ウィスコンシン大学マディソン校に特待生として入学し、土木工学の教授であるアラン・D・コノーバー(Allan D. Conover)の下で働き、学位を取ることなく退学しました。 同年、ライト氏はシカゴの建築事務所ジョセフ・ライマン・シルスビー(Joseph Lyman Silsbee)と共同で、ウィスコンシン州スプリンググリーンにあるライトの家族のための統一礼拝堂を設計し、製図と工事監理を担当しました。1年ほどでシルスビー事務所を辞し、シカゴへ移、アドラー=サリヴァン事務所(Chicago firm of Adler & Sullivan)へと移りました。アドラー=サリヴァン事務所ではその才能を見込まれ、事務所における1888年以降のほとんどの住宅の設計を任せられました。ライト氏自身もサリヴァン氏をLieber Meister (愛する師匠)と呼んで尊敬し、生涯にわたりその影響を肯定し続けました。


イリノイ州オークパークにあるライトの家(1889年)
By John Delano of Hammond, Indiana, Attribution, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1720184

1893年(24歳) アドラー=サリヴァン事務所に勤めて7年ほど経った頃、事務所での設計業務とは別にアルバイトの住宅設計を行っていたことがサリヴァンの知るところとなり、その件を咎められたライトはアドラー=サリヴァン事務所を辞し、独立して事務所を構えます。ライト氏の経済的困窮は、子だくさんに加え、洋服や車など、贅沢品を好むそのライフスタイルにもありました

独立した1893年から1910年までの17年間に計画案も含め200件近い建築の設計を行い、プレイリースタイル(草原様式 Prairie Style)の作品で知られるようになりました。プレイリースタイルの特徴は、当時シカゴ周辺の住宅にあった屋根裏、地下室などを廃して建物の高さを抑えたこと、水平線を強調した佇まい部屋同士を完全に区切ることなく、一つの空間として緩やかにつないだことなど。1906年のロビー邸はその代表的作品。

プレイリースタイルの代表作ロビー邸(1906年)
Lykantrop - 投稿者自身による著作物, Copyrighted free use, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3985039による

ヨーロッパの建築様式の模倣である新古典主義(こちらの記事に詳しく書きました)が全盛であった当時のアメリカにおいて、ライト氏は、プレイリースタイルの作品でアメリカの郊外住宅に新しい建築様式を打ち出し、建築家としての評価されていきました。しかしこの後、1936年(69歳)のカウフマン邸(落水荘)までの間、長い低迷期を迎えることになります。そのきっかけになった出来事が1904年(37歳)に竣工したチェニー邸の施主の妻ママー・チェニーとの不倫関係でした。

当時、ライトは1889年(22歳)に結婚したキャサリン・トビンとの間に6人の子供をもうけていました。既にチェニー夫人と恋仲にあったライトは妻キャサリンに離婚を切り出しましたが、キャサリン氏はそれに応じませんでした。1909年(42歳)、ライトはついに事務所を閉じ、家庭をも捨て、チェニー夫人とニューヨーク、さらにはヨーロッパへの駆け落ちします。1911年(44歳)にアメリカに帰国するまでの2年間に設計活動が行われることはありませんでした。しかしその間に滞在したベルリンにおいて、後にライト氏の建築を広く知らしめ、ヨーロッパの近代建築運動に大きな影響を与えるきっかけとなったヴァスムート社出版のライト作品集の編集及び監修に関わることになりました。

1911年(44歳) アメリカに帰国するも、不倫事件によって地に落ちた名声と設計依頼の激減という危機的状況にありました。妻は依然として離婚に応じないなか、ライトいsはチェニー夫人との新居を構えるべく、母アンナに与えられたウィスコンシン州スプリング・グリーンの土地にタリアセン(Taliesin)と名づけた自分たちの邸宅の設計を始めました。

タリアセンの最初の冬に撮影された初期の写真(1911-12年)
By Henry Fuermann and Sons - Wisconsin Historical Society http://www.wisconsinhistory.org/whi/fullimage.asp?id=83133, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=28958581

その後、少しずつではあるが設計の依頼が増えてきたライト氏を更なる事件が襲いました。1914年(47歳)タリアセンの使用人であったジュリアン・カールトンが建物に放火した上、チェニー夫人と2人の子供、及び弟子達の計7人を斧で惨殺したのです。なお、逮捕されたカールトンは犯行の動機を語ることなく、7週間後に獄中で餓死しました。当時、シカゴの現場に出ていたライト氏は難を逃れましたが、これにより大きな精神的痛手を受け、且つ再びスキャンダルの渦中の人となりました。そのような中で依頼が来ていたのが日本の帝国ホテル新館設計の仕事でした

1913年(46歳)、帝国ホテル新館設計のためにライト氏訪日。以後もたびたび訪日し設計を進めていましたが、大幅な予算オーバーと工期の遅れに起因する経営陣との衝突から、このホテルの完成を見ることなく離日を余儀なくされました。ホテルの建設は弟子の遠藤新(えんどう あらた)の指揮のもと続けられ1923年(ライト氏56歳)に竣工しました。

帝国ホテルライト館の正面
不明 - http://architectstudio3d.org/AS3d/about_imperial.html, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2702786による

数々の不幸に見舞われ、公私にわたり大打撃を受けたライト氏であったが、1930年代後半になるとカウフマン邸(落水荘)ジョンソンワックス社と相次いで2つの代表作を世に送り出し、70歳代になって再び歴史の表舞台に返り咲くことになります。ちなみにカウフマン邸では、スウェーデンのブルーノ・マットソン氏デザインの椅子が使われていました。

カウフマン邸(落水荘)Fallingwater, Mill Run, Pennsylvania (1937)
By Sxenko, CC BY 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3171223


ジョンソンワックス本社(1969)
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2721529

この2作ともにカンチレバー(cantilever、片持ち梁)が効果的に用いられています。カンチレバーとは、一端が固定端、他端が自由端とされた構造体です。同時期にはプレイリースタイルの発展形である「ユーソニアン・ハウス(Usonian Houses)」と名付けた新たな建設方式を考案し、これに則った工業化住宅を次々と設計しました。ここでは万人に、より安価でより良い住宅を提供することを目標としていました。1936年のジェイコブス邸はその第1作目の作品です。

ハーバート・ジェイコブスとキャサリン・ジェイコブスのファーストハウスは、通称ジェイコブスIと呼ばれ、ウィスコンシン州マディソンの441トープファー通りに位置する一戸建て住宅である。アメリカの著名な建築家フランク・ロイド・ライトの設計で1937年に建てられ、一般にユーソニアン住宅の第1号とされています。
By James Steakley - Own work, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=7092428

ライト氏のスタイルは変遷もあるも基本的にはモダニズムの流れをくみ、幾何学的な装飾と流れるような空間構成を特徴としています浮世絵の収集でも知られ、日本文化から少なからぬ影響を受けているようです。

その他のフランク・ロイド・ライト氏の作品

旧山邑家住宅(1923)兵庫県芦屋市

旧山邑家住宅(ヨドコウ迎賓館)
663highland - 投稿者自身による著作物, CC 表示 2.5, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5591209による

自由学園明日館(1926)東京都豊島区西池袋

自由学園明日館、中央棟(重要文化財)。東京都豊島区。フランク・ロイド・ライト設計、1922。
Kakidai - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=73843766による

グッゲンハイム美術館(1959)ニューヨーク

ソロモン・R・グッゲンハイム美術館(ニューヨーク)(1959年)
CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=34389


フランク・ロイド・ライト氏デザインの照明

TALIESIN 1(タリアセン)

タリアセンにあるフランク・ロイド・ライトの夏の家のためにデザインされた照明。
画像引用:yamagiwa Online Store

TALIESIN 2(タリアセン)

夏の家「タリアセン」に併設された体育館、ヒルサイド・ホーム・スクール(1902)を劇場に改装する際、生まれたペンダント照明を元にデザインされた。ガラスやシェードを用いず心地よい間接光を生み出すように設計されています。
画像引用:yamagiwa Online Store


STORER 1(ストラー 1)

画像引用:yamagiwa Online Store


まとめ

使用人による家族を含めた惨殺事件が凄まじいフランク・ロイド・ライト氏の波乱万丈な人生。順風満帆というわけではないなか、それでもその後もカウフマン邸やグッゲンハイム美術館などを設計し続けたことに畏敬の念をいだきます。

デザインに限った話をするとフランク・ロイド・ライト氏は、モダニズム建築のなかでは、ヴァルター・グロピウス氏より派手で、ミース・ファン・デル・ローエ氏よりは人間味の濃いデザインといえます。ステンドグラスなどを含め、幾何学的だが装飾が多く、いわゆるアールデコ的な要素が多い。それでいて、水平に展開したり、空間を閉じないなどモダニズム的な特徴も強く持っています。

帝国ホテルのバー・インペリアルには、ライト氏の照明があったり、バーテンダーに余裕があるときは、いくつかの資料を見せてもらえたりします帝国ホテル東京は、ライト氏の作り出そうとした空間を味合うことができる良い場所です。


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参照

※1


*2



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