センチメンタルになって、終点よりも先へ向かいたい時はいつだって頑張っている証。
とにかく長くて長くて退屈しなかった今週の勤務を終え、肩の重さと達成感を引き連れて帰路につく。
ふと思うことがある。
このままの最寄りの駅を通りすぎて、終点まで行ってしまいたい、と。
県を跨ぐ「この」電車に乗って、ほんの少しの勇気とお金があれば、自由に縛られることなく走れるのではないのか、と。そんな時の私は決まって、泣かないように笑おうとしていて、遠くを見ているふりをして、目の前のことに悩み続けている。
社会に出ると金銭的余裕が出て、少しの我慢を越えれば、ある程度のものは手に入れやすくなった。その分子供の頃のワクワクは減った。
社会に出ると自己責任が増えて行動に規制がかからなくなった。その分守ってくれる人はいないという寂しさを受け入れなくてはいけない。
社会に出ると会社名や役職の名前をみんなが気にするようになった。その分、今住んでいる空間は見栄や嘘で溢れかえっている。
上があれば下があり、右があれば左があるように、全てのことにはその向かい側が存在していて、その向かい側とのバランスが崩れた時、誰かとぶつかったり自分を苦しく感じたり、不安を駆り立てられてしまう。
自分がいる場所が上なのか下なのか、そんなことも分からない。
とにかくどこかへ行きたい。
でもそんな勇気があるはずもなくビビリで、毎日同じ時間に起きて電車に乗って、くたくたヨレヨレになって1日が終わる。
私は何に縛られているのだろう。
今週は色々なことがありすぎて、涙ポロリしてしまいそうだ。
布団に入り目を閉じれば、その一瞬で意識がなくなる能力を手に入れられたら、どれだけ心が楽になるのだろうか。
そんな経験をたくさん積んできた今だから
同じ人が近くにいたらそっと肩を抱き寄せて、一緒に終電でも、終点でも、終点の先でも行ってあげたい。だって、センチメンタルになるのは頑張っている証だもの。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?