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日曜日のnote4月11日:考えてから発言をしたい


この日曜日のnoteでは、アセクシャルな私の悩み・経験・過程等、様々な支えと共に今、そしてこれからのことを記録していきます。同じ悩みを抱える人の目に偶然止まった時、どこか楽な気持ちになれますように、そして読んだことをすぐに忘れられるくらい優しい日常になりますように心を込めて。



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「変わっている」と言われることが多かったけれど、勿論私自身は何に対しても自分は平均だと思ってきたから何度そう言われても軽く考えていた。でもそれは中学生になり男女が視覚化され始めると特に同性に言われることが増え、恋愛に憧れを強く抱きはじめる女の子の友達の中で私はその輪に入ることが出来ず、距離だけが広がる日々を苦しく感じていた。


今まで普通にしていた会話が年頃の恋愛トークに切り替わった途端、友達に言わせれば子供であるかのように、飽きてしまったと言わんばかりに、私は邪険に扱われ始めたことを理解した。それでも私は好きな本や部活のこと、次に遊びに行きたい所など日常的な話をしたかったけれど、そこの円から遠のいくことの方が怖かったんだと思う。一生懸命に聞いて頷いて、共感しているフリを続けてることに務めていた心の中では理解が出来ずに退屈と感じていたのも事実。


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女の子はやたらと群れを作る。それは好きな人の話或いは、嫌いな人の話で盛り上がれる関係性で出来上がったものばかりで、そこに所属していないとあっという間に気楽な日々が崩れていくという絶対的なものだった。その女の子達の輪の対象外に私はいた。

理解しているフリをして頷いていても、自分からのエピソードは話せない。自分からの気持ちのアピールが出来ない。いつも同じリアクションになってしまう。そんなところからか、「しいなってつまらない」「そう言って欲しいわけじゃない」「話が合わない」「感情ないんじゃない?」と言われ始め、あっという間に浮いた存在になる。


仲のいい友人は男の子ばかりになり、そしてまた噂を立てられていく。当時から趣味が野球観戦だった私が男の子と話をするだけで、グループと廊下ですれ違うたびにたくさんの舌打ちを受けてきた。そういうのを「辞めて欲しい」とグループの一人にメールをしてみても、そのメール自体を拡散されて更に非難されてきた。私の中学時代の同性との関わりはこんな感じで、楽しい思い出はほぼない。


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苦しく感じていたあの時を今振り返ると、周囲と感覚が違う人がいるだけで過敏に反応し合うことで自己主張をしていた期間だったかのように思う。そしてその瞬間は高校生の時に同性の友人3人に出会った事をきっかけに25にして今、環境と人に恵まれ嫌な思いをすることはなくなった。本当に彼女達には感謝している。


昨年10年ぶりに当時の吹奏楽部のメンバーと会う機会があり、ドキドキしながら参加したらみんな穏やかで、あの時のことなんて触れる人はいなかった。そんなものなのだ。言った側はグループだからいつでも強気で連帯感があり、大きな出来事という認識はない。対して私は今でも中学時代を振り返るのが億劫だ。


何かを発言する時、相手が傷つかないかよく考えなさいと多くの場所で教わってきたけれど、それは難しすぎる事だ。この件に関しては私は言われる側の意見だけれども、きっと私も不謹慎なことを知らず知らずの内に誰かに言ってしまっている。そしてそれに気がつく事なく相手に傷を与えたままなんだろう。でも、それでは関係は脆くなるばかりだ。


だから、100%の対応は出来ないと理解しつつも、やっぱり考えてから発言することは何よりも大切で、そして相手の表情仕草を観察することも大事なのだと思う。何か悲しそうな顔をしたら必ず言動を振り返って、悪さに気がついたら謝る。そうやって修復しながらコミュニケーションを築いていかなければ「友人」という名前だけの関係になってしまうと思うから。


中学生の時の私は恋愛未経験だから皆んなの話に上手くついていけなくて、それに対しての周囲の冷たい視線がとにかく苦しかった。当時はケータイに制限が掛かっていてインターネットに繋げることは出来ず、セクシャルなんて言葉すら知らなかったけれど、高校生・大人になって自分のそれを知った以上、より友人・家族を大切に思えるようになった気がしている。


特別な愛情を抱けなくても特別な愛自体は持つことができる。だから今側にいてくれる人達、支えてくれる人達を傷つけないように。この関係性が途切れないように守っていきたいと、強く思っているのだ。思春期を苦しく感じてきた、今感じている、という人達はたくさんいる。そういう人達と触れ合って、優しい世界を作っていきたい。




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