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らくがき。

 ある日娘が泣いて学校から帰ってきた。理由を尋ねると自分のノートの落書きを友だちにからかわれたらしい。なんとも子どもらしい理由だろうか、そんな理由で人目を憚らずわんわん涙を流せることを羨ましくなった。  

 泣き出した娘を見て友だちはすぐにごめんねと謝ってくれたらしいが、どうしても悲しみがなくならないようだった。

 「ごめんねって言ってくれたならいいじゃない。許してあげなよ。」と私は言った。娘は首を横に振りながら「許す、許さないの話じゃない。私のノートを勝手に見て私が時間をかけて書いた絵をからかったことに怒っているの。」と言った。

 ほお、と思った。9歳の子どもが自分の涙の理由をしっかりと分かっていた。自分が時間をかけた自分だけがみる特別な絵、それを馬鹿にされたことに娘はしっかりと怒っていた。

 私は娘に「許してあげなさいと言ったことママが間違っていたね。あなたが許そうと思ったタイミングで許せばいいよ。出来ないならそのまま怒っているのもありだね。」と言った。娘は急に泣き止み「どうせ私は寝たら忘れるから大丈夫。ただ今は悲しいし怒ってるから泣いてるだけ。」と言って、ママは何をとんちんかんなことを言っているのだろうといわんばかりの眼差しを私に向けてきた。


 「許してあげなよ」って何なのだろうか、と時間が経って考え始めた。私も30年近く生きてきて何年経っても許せない出来事のひとつやふたつ、いや10個くらいはある。相当根にもつタイプの人間だ。小さいことから大きなことまで、何年経って思い返してみてもその時味わった気持ちが再沸騰しては、ヤカンの蓋がガタガタするように腹ワタを煮え繰り返している。

 時々「そんな前のことまだ怒っているの?許してあげなよ。」と半笑いで言ってくる人がいたことを思い出した。そういう人と出会ったときは、この人には二度とこの話をしないでおこう、とそっと心のシャッターを下ろし距離を置くようにしてきた。その時と同じことを私は娘に言ってしまったのだ。

 私はいつも許せないと思ったことを許す気なんてないのだ。その時の「悲しい」「苦しい」「悔しい」そのネガティブイメージは私だけのもので他人が理解できる訳がないし、ましてや許してあげなよと言われる筋合いなんてない。そういう考えかたの私が娘には簡単に「許してあげなよ」と上から物を言ってしまったことを反省した。

 許すは蒸発である。それは時に涙を流すことであったり、お酒を浴びるほど飲むことであったり、ひたすらに時間が経つのを待ったり、その時その時で方法は変わってくる。昨日まで再沸騰していた気持ちが次の日にはくだらないと思えるようになる。ただその瞬間を自分の中で待ち続けるしかない。

 自分が傷ついたということを受け入れ認めることがその第一歩だったりする。9歳になる娘はそれを誰から教わることもなく出来ていた。それでいて寝れば忘れられるらしいから一つの才能そのものだ。 

 「どうしたら許せますかね?」と知人に相談されることもよくあるが決まって私は「なぜ許さなきゃいけないのですか?」と尋ねる。大抵返ってくる答えは「だって随分前の話なのに。」である。時間がそれだけ経っても許せないでいるという時点でそれはその人にとってみたら、それだけ大きな出来事だったのだろう。私の物差しで、ものを言うのは簡単だが許せないと思ったのなら何事もないような顔をしながら日常を過ごし、心ではヤカンの蓋をガタガタさせていたらいい。

 「許せないことが苦しくて」ということもあるが無理に許そうと火加減を弱火にしたところで時間をかけてヤカンの水は再沸騰していく。それならいっそ強火で水が蒸発してくれるのを待ってみたらいいのだ。傷ついたことに何度も向き合うことは簡単ではないし、苦しいことの方が多い。ただ自分の苦しさを私は大切にしたい。それを抱えることができるのは私自身のみなのだ。

 年齢を重ねれば重ねるほど大人でいなきゃいけないような気がしてくる。何事もないような顔することだけが上手になり、大泣きしながら私は傷ついたんだと言うことなんて恥ずかしいと思えてくる。許せないことが情けない気持ちにもなる。傷つけられた被害者なのに時間の経過と共に加害者側になってきてしまう状態に誰か名前をつけて欲しい。

 許せない出来事がまだまだ私自身を苦しめたりもするが、熱湯が全て蒸発する瞬間は必ずくる。いつかその時がくるのを娘のらくがきを見せてもらいながらコーヒーでも飲んで待っていよう。

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