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『ただの幼馴染だから』の適用範囲を考察する

(本投稿中の引用とされる文章は本作の一部ですが、構成の関係上、引用を模した形式を取っております。オリジナルであるため、出典はございません)




 望んでなんかなかったのに。それとも、気づいていなかっただけだろうか。

 もう、ただの幼馴染には戻れない。幼馴染なんて、こんなにも容易く形を変えてしまうんだね。




序論

 人間は社会生活を営んでいく中で多様な人間関係を構築していく。それらの関係の中で、特異的な結びつきを持つものが「幼馴染」である。 

 月館暉映つきだててるあきこと、テルとの出逢いは、私が幼稚園生のとき。彼はあのときから大人しくて、あまり誰かと話さない子だった。
 親しくなったきっかけは、当時の給食の時間が大きく関わっている。

 私はニンジンが極度に嫌いである。給食の時間、ニンジンが自分のお皿に盛られないことを毎日祈っていた。けれど、その期待がへし折られる昼食は度々訪れる。その度に、散々わがままを言ったものだ。
 私の食わず嫌いを見かねた幼稚園の先生は、給食の時間ぎりぎりまで私をニンジン食の拷問に曝した。結局食べられずに毎回残してしまい、先生に叱られ、後片づけを急かされた。それが本当に厭だった。

 席替えをして、ある日からテルが隣の席になった。男子と遊ぶことは特になかった当時の私は、彼と会話をすることもあまりなかった。またニンジンが給食で出るまでは。
 テルが隣の席になって初めて給食にニンジンが出た日、私はいつものように皿に青臭い橙色の塊だけを残して固まっていた。また先生に叱られる。また一人だけ食器を片付けるのが遅れると思うと、悲しくて涙が溢れていた。
 すすり泣く私に気づいたテルは、「食べられないの?」と小声で聞いた。俯いたまま頷く私に、テルはただ「ふう~ん」と返事をしただけだった。
 そのまま時は過ぎていき、各々が食器を片付け始めた。私は残飯にすると決め込んだニンジンを食べることも、食器を片付けるために動き出すこともできずに、ただ叱責が飛ぶのをビクビクと恐れながら待っていた。
 テルが食器を片付けにいく直前、私の机上を影が通過した。そして小さく、カタン、コトンという音が聞こえた。顔を上げてみると、目の前のお皿は全て空になっていて、いつでも片付けることが可能だった。「えっ?」と思ったと同時に、影が伸びてきた方向に目をやると、テルは完食していたはずのお皿を素速く搔き込んで片付けに走っていった。全てを察した私の恐怖と緊張は徐々に和らいでいき、私も何気ない顔をして片付けの群れに交じったのだった。
 

 「幼馴染」とは、子供の頃に親しくしていた間柄を言う。親しい過去が土台となって形成される関係であるため、実際に「幼馴染」と呼べるようになるには、子供に該当する年齢を脱している必要がある。子供であるかないかの境界線を、年齢をもって定めることは一概にできることではない。それをあえて行うとすれば、小学生と中学生の間に境界線を引くことを一案として呈したい。小学校から中学校へと学修課程が昇進することは、大人への階段を明確に一段昇段しており、「幼馴染」を持つことに違和感のない年齢に到達していると感じられる。

 あの苦しみから逃れられる術がなかった私を、幼馴染のテルは助けてくれた。嬉しくって、テルに「ありがとう」ってお礼を言った。彼はただ「いいよ」とだけ答えていた。驕ることも見返りを求めることもなくって、むしろ、あの素っ気なさに優しさを感じたっけ。
 そんなことを毎週のように繰り返していたら、とうとう先生に見つかってしまった。自分の給食を他人に食べさせていた私と同じように、他人の給食を(先生の許可なく)勝手に食べていたテルも叱られてしまった。しょんぼりする私にテルは言った。

「ごめんね。ミエーのおさらとるとき、せんせいとめがあっちゃった」

 私と同じようにしょんぼりするテルは、私を責めることもしないで謝った。悪いのは私の方なのに。

 それ以来、私はニンジンを克服した。別に食べられるようになったわけではない。ニンジンが出る日の給食は変わらず憂鬱だったけれど、自分で自分の問題をなんとかできるようにはなった。小さく潰したり、他のおかずと混ぜて一緒に食べたり、とにかくあの忌まわしきニンジンの存在をなんとか消し去って喉を通した。
 苦痛だった給食を乗り越える努力をするようになって、先生は褒めてくれた。でも、これができるようになったのは、褒められたかったからじゃない。テルに迷惑をかけたくなかったことが根底にあった。私のせいで彼の優しさが咎められることは、私も辛かったから。
 

 交友関係から「幼馴染」を観察する。「幼馴染」が形成されていく時期は幼少期であり、その環境は比較的閉鎖的である。中高生であれば携帯を持ち始めて、SNSやゲームを利用するようになり、オンラインで他者と繫がる者が増える。大学生や社会人ならばより開放的な社会に踏み出し、オフラインで他者と繫がる者が増える。それらと比較すると、通信手段や社会経験が乏しい、特に小学生以下の子供は、閉鎖的な環境でコミュニティが形成されていく。それは保護者や教育者、政府といった管理者たる大人が、大人の都合で与えた環境である。

 私が「幼馴染」と呼べるのはテルしかいない。そして、私が話しかけることができそうな人もまた、今はテルしかいない。進級によるクラス替えを重ねる中で、私の交友関係は淘汰されてしまったみたい。

 私とテルは小学校に上がって、1年は別々のクラスになった。私は同じクラスで女の子の友達を作ったし、幼稚園から同じクラスだった子もいたから、独りにはならなかった。小学校の6年間でテルと同じクラスになったのは3年と5年のときだけ。クラスを違えている間にお互い疎遠になってしまって、小学生の間は特にテルと関わることはなくなってしまった。
 同じ中学校に進学しても関係は変わらなかった。私の日常の中にテルの姿が映ることはほとんどなくて、私は小学校からの友達と日常を送った。
 スマホを持っていない子供にクラス替えの影響は大きかった。物理的な壁ができてしまえば、そこで仲も阻まれてしまう。今までずっと仲の良かった子が、壁を隔てただけの同じ環境で、私を差し置いて他の子と仲良くしている。嫉妬というわけではないけれど、私がその子たちから切り離されてしまったみたいで、寂しかった。
 この時点での友達は、小学校からの生き残りみたいなもの。その分、関係は親密になっていた。私は、これ以上の付き合いを増やすことはしなかった。

 そして、現在は高校1年生。私の中学校時代の友達は、全員が私と違う高校に進学した。中には、私を含む友達のコミュニティメンバーだった女子2人が、同じ高校に進学したと噂で聞いた。
 あの子たちのせいじゃない。むしろ、この環境は自分で選んだもののはずなのに。私は運命にハブられてしまい、孤立してしまった。
 

 以上により、「幼馴染」という関係は、時に当人の意思や意向に背き、環境要因で自然的に形成されるものでもある。そして、幼少期で自身にとっての「幼馴染」の該当者が決定してしまう関係である。一般的な「友達」や「親友」とは異なり、子供の過程を終えてからでは代替が利かない。この点において「幼馴染」は、「友達」や「親友」といった後天的な関係よりも、「家族」のような先天的にもたらされた環境によって決まる関係と似たコニュニティと言えるだろう。 

 これまでの関係に執着しちゃだめだ。新しい環境なんだから、新しい友達を作っていこう。そう思うけれど、それがまた1年の期間をもって更新されてしまうと思うと、少し怖かった。周囲のクラスメイトはすでに多くがスマートフォンを手にしていて、最新の情報を交換し合っている。目に焼き付くその様が、私の踏み出そうとする脚を引き留めて、より一層の孤独感を煽っている。
 新学期で友達を作ろうと、私をその輪に入れてくれたクラスメイトがいた。にも拘らず、私がその輪に馴染めなかった。いずれまた訪れる別れや孤独への恐怖感が、心に潜んでいたからかもしれない。
 けれど、孤独でいることもまた辛かった。中学校を卒業するまでは、当たり前に日常に友達がいた。なのに、話し相手がいない高校生活は、味方がいないみたいで心細かった。

 私の幼馴染の唯一の生き残り、月館暉映に声をかけようか迷った。あの頃の私たちとして。幼馴染として。
 テルもまた一人ぼっちで、よく読書をしているような男子だった。物静かな点は9年前と変わらないけれど、幼稚園生の頃よりも身長が凄く高くなっていて、頼もしそうだった。過去に私を助けてくれた記憶が、テルの印象を補正したのかもしれない。
 

 上述した「幼馴染」の定義に沿って、ここでは、子供の頃に親しくしていたかを重要視する。そのため、「幼馴染」が形成された後の親密度に関しては問題ではない。なぜなら、その後の仲がどのように崩壊しようとも、「幼馴染」として築かれた事実関係が歪むことはないからである。「幼馴染」は代替不可であると同時に、礎が揺るぎなく固定された関係でもある。また、「幼馴染」の形成過程を終えた親密度は、コニュニティによってまちまちである。同じ環境に在りながら相互に特段の干渉をせず、「幼馴染」である認識すら相互に薄らいでしまう者もいれば、「親友」以上の親密さを築き上げて「恋人」に発展する例も存在する。

 けれど、そこからテルと友達関係には発展しなかった。

 高校でテニス部に入った私は、そこでのコニュニティに馴染んだ。部活動であれば、1年間で関係がリセットされないことに気づいたから。
 加えて、私は一足遅れて高1の初夏にスマホデビューした。家の固定電話と違って連絡や通信が格段にしやすい。いずれは疎遠になりゆく相手とも、容易に繫がり、繫ぎ留めることができる。
 だから、一度離れた「幼馴染」との関係を、私から再興させることはなかった。テルもあの性格だから、私に積極的に関わってくることはしなかった。

 このときは、これでも良いと思っていたし、このまま卒業まで人間関係は安泰だと思っていた。

 思っていたのに。

 今回、「幼馴染」を論点に取り上げた理由は、このような「幼馴染」といものの在り方の曖昧さにある。人間関係が多様化、複雑化した現代において、所属の曖昧さは、社会生活や人々との関係に不便を来す可能性が高い。関係を乱さない行動を取るには、自身の所属とその立場を認識しておくことは重要なことである。よって本論文では、定義がありながらその在り方は多様である「幼馴染」という関係が、いかに変容しうるものであるか。それを「幼馴染」であることの適用範囲という観点から、実証と共に論証していく。




本論


 本論では、「ただの幼馴染だから」の適用範囲を考察する。それにあたり、その適用範囲を広く取るため、「ただの幼馴染」という関係から忠実に、その効力が適用される様を観察していく。そのため、「幼馴染」であるという関係が形成されただけの状態であり、親密度は可能な限り0に近い人物を被検体とする。但し、ここでの親密度は、相互に意思疎通が図られたもので、相互に親密であることが了解されているものとする。いわゆる片思いの状態は、ここでの親密に該当しないものとする。
 被検体は空本美栄そらもとみえい。検証年に16歳を迎える高校1年生である。彼女は6歳の頃、幼稚園にて、クラスメイトである月館暉映と友好的な関係にあった。それから9年の空白を経て、現在に至っている。この空白期間に月館暉映との干渉は0に等しく、この状態は親密度が限りなく0に近いと言えるだろう。
 今回、適用範囲の検証として観察するのは、被検体が親密度0の状態で恋愛の告白を「幼馴染」に行い、それが適用されるかどうかである。適用の判断については、被検体の「幼馴染」である月館暉映の反応が、受諾か拒絶かをもって判断する。

 以降は実証の過程になる。なお、このままの論証の形態では、本投稿の面白みに欠けてしまう。そのため、以降は本論文の被検体、改め、本作の主人公である空本美栄による語りに一任し、実証の過程を観察することとする。

 部活内での関係は良好だった。同学年の数人の友達とは、放課後や休日に一緒に出歩くくらい仲が良く、居心地が良かった。けれど、ある時を境に空気が変わった。
 テニス部には、後輩の憧れの的になっているカッコいい先輩がいる。先輩は大会で上位に残るスポーツマンで、後輩の面倒見も良いから人気が高い。私も例外ではなく憧れを抱いていたけれど、恋愛感情にまでは至らなかった。

 先輩みたいに上手くなりたいと、夏休みは先輩にコーチを頼んで、一生懸命練習に励んだ。大会に出場するごとにその結果は現れてきて、練習のやり甲斐を感じていた。
 部活の友達はそれが気に食わなかったみたい。抜け駆けと見做されたのか、私は彼女等の嫉妬に遭った。明らかに冷たく当たられるようになって、再び孤独を感じるようになってしまった。それは秋になっても続いて、私の精神は徐々に擦り減っていった。
 これをどうにか解消できるものなら、誰かに頼りたかった。私が幼いとき、そっと私の苦しみに手を差し伸べてくれたテルのような救いの手を、どこかに乞いたくなった。でも、あのときのこと思い出すと、テルに迷惑はかけられない。誰にも迷惑はかけたくない。自分で何とかしなきゃって、勇気が沸々と湧いてきた。

 私は、また一歩を踏み出した。このもやもやは今年中に片づけてしまおうと思って。
 12月に入って、寒さが一段と増した冬の放課後。部活が始まる前に、私は以前友達と呼べていた面々に切り込んだ。

「みんなが私のことを良く思っていないの分かってる。私が先輩と仲良くしてるのが邪魔なんでしょ」

 更衣室の空気が歪んだのを感じて、怯みそうになった。逃げ出したい感情を押し殺した。

「ミエーばっかりつきっきりで教えてもらっててさあ、ズルくない?」
「先輩はミエーの方にばっか行くしさあ。なんか不平等だよねえ」
「ほんと。先輩ってさあ、ミエーのこと好きなんじゃないのぉ?」
「彼女欲しいって言ってたらしいから、告白とかあるかもね。クリスマス近いしさ」

 追い詰められている。みんなを敵に回したいわけじゃない。
 もう、友達を失って寂しい思いなんてしたくない。

「私は……私はみんなと仲良くしていたいから、みんなに邪険にされるくらいなら、先輩に嫌われた方がマシなの!」

 拍動する心臓を呼吸で押さえつけて、私はみんなに言い切った。

「どうしたらいい? みんなと元通りにいられるには、私どうしたらいい?」

 懇願するように、私は尋ねた。

「じゃあさ、先輩以外の彼氏作っちゃいなよ」
「うん。彼氏持ちの後輩と知れば、気があっても冷めるでしょ」
「でもマジで彼氏できんのもなんか癪だなあ。フリってことで、作る彼氏は偽装ね」
「それがいい。ちゃんと告白して、私らの前に偽装の彼氏紹介してよ。その誠意あったら見直すわ」
「期限は12月23日まで。そしたらさあ、みんなでクリスマス会とかやろうよ」


 もっと困ったことになってしまった。
 高校生になって、私はクラスや部活の男子とは必要最低限の会話しかしてこなかった。その中の誰かに告白をするだなんて、無理。それ以外に候補なんていないし、この試練が達成されなければ、私はなおさら疎外の対象になってしまう。

 こういうとき、幼馴染なら応えてくれるだろうか。今まで疎遠にしていた、私のような人間の頼みに。


「テル、相談があるの」

 会話自体は幼稚園以来というわけではないけれど、今だけは、またあのときみたいに友達として話させてほしい。10年近くの空白があって、今更また同じように接してもらえるなんて、都合が良いよね。
 休み時間で相変わらず読書中だったテルは、私を一瞥した。

「どうしたの。改まって」

 そう言って、本に栞を挟んで閉じ、私の方に身体を向けてくれた。

「何を困ってるの?」
「え、困ってる? ……顔に出てる?」
「うん。ニンジン食べれない時の顔してる(笑)」

 あの頃の私を、まだ覚えててくれているんだ。

「ミエーはミエーの友達がいるからさ、邪魔しないようにしてたんだけど。何か辛いことがあったんでしょ? ごめんね、あの時みたいに声かけられなくて」

 その言葉が、私との空白を一瞬にして繫いでくれた。テルは、また私に微笑んでくれている。こんな私が泣き言を言ってもいいのだろうか。
 他の友達が私から離れていったのを勝手に寂しがっていたくせに、私もテルから心もろとも離れていた。私も同じことをしていたのに、テルは気にも留めずに再び私を迎え入れてくれた。
 やっぱり、テルは優しかった。

「お願いがあります。私の、偽装の彼氏になってください!」

 へんてこりんな告白だけれど、偽装という前提があることは隠せなかった。偽っていることを偽ってしまえば、大切な幼馴染を傷つけてしまうから。
 予想通り、テルは驚いた顔をしていた。こんなお願い、聞いてもらえるわけないよね……。

「それってさあ——」

とテルは答える。
 今度ばかりは、容易に「いいよ」なんて言ってくれるわけ——




 12月25日、クリスマス。の1日早い24日、クリスマス・イヴ。4人のJKが我が家の自室に集まった。チキンやお菓子、交換するプレゼントを手に手に携えて。

「ごめんね~クリぼっち会、イヴになちゃってぇ」
「クリぼっち言うな。あんたがクリスマスにバイト入れるから、仕方なく前倒しになったんでしょうが」
「だってえ~店長にせがまれたんだもん」

 みんなの会話をこうして同じ輪の中で聞いていられて、私は今、とても幸せな気持ちでいる。

「エミーは例外か。彼氏いるもんね、偽装の」
「偽装だから例外じゃないよ」
「偽装にしては悪くなかったくない?」
「むしろ理想?」
「はいはい。偽装の理想彼氏です」
「なにそれ(笑)」
「いや~、ミエーがほんとに彼氏作ってくるとはねえ」
「そして、まさか先輩に告白されて振る展開になるとはねえ」
「ほんとだよぉ。私が一番びっくりしたんだからあ」
「良かったの? せっかくの先輩の告白だったのに」
「私はOKしても良かったんだよ?」
「おいおい、約束どこ行った(笑)」
「本命の彼氏かわいそ(笑)」
「だから偽装だって」
「月館くんだっけ? どうせすぐにポイなら別にいいじゃん?」
「ちょっとぉ~」

 先輩にもテルにも申し訳ないけれど、私は友情を守りたかった。だから恋人は選ばなかった。




 はずだった。

「ほんとにいいの? 偽装で」

 そう言うテルの目は、まっすぐに私を見つめていた。穴が空くほどに。心臓まで射抜かれるような衝撃と昂揚が私を襲った。
 望んでなんかなかったのに。それとも、気づいていなかっただけだろうか。私、テルのことが好きだったんだ。




 テルの問いを拒絶したことも、明日、私には特別な予定があることも、友達には内緒にしている。私はテルを、偽装の彼と偽装している。もう、ただの幼馴染には戻れない。幼馴染なんて、こんなにも容易く形を変えてしまうんだね。


「じゃあ、乾杯しようか!」
「うん!」

 威勢の良いコールの後に、4つグラスが衝突する。
 その音は、ジングルベルのような高らかな音色だった。




結論

 よって、「ただの幼馴染」であることを理由に恋愛の告白を行うことは、適用の範囲内であることが示された。なお、前述の通り「幼馴染」という関係は曖昧であり、「幼馴染」が形骸化することもあれば、今回の実証結果のように、「幼馴染」を保ったままに内実の関係を昇華させることもある。今回の事例が、全ての「幼馴染」に通用するものでないことは踏まえておきたい。
 
 論証は以上である。




参考までに

 この投稿は、西野夏葉様のアドベントカレンダー企画に参加したものです。僭越ながら、群鳥安民は12月24日を担当させていただきました。

【企画概要】アドベントカレンダー2022を開催します。|西野 夏葉|note

 大遅刻になってしまい、投稿が遅れましたことを深々と謝罪いたします。誠に申し訳ございませんでした。

 また、この記事のテーマは、アドベントカレンダー企画が提案される4カ月前に、西野夏葉様から寄せていただいた小説のタイトルになります。

 頭を使いそうなタイトルでしたので、この題名の小説の投稿は放棄していたのですが、せっかく西野様の企画に参加させていただくのですから、「『ただの幼馴染だから』の適応範囲を考察する」ならここしかない!と執筆を決心しました。難しそうな話なら、いっそ難しくしてしまえ!と振り切りまして、小説×小論のハイブリッドという斬新奇抜な形態の記事として、今回繰り出す形になった次第です。かなり時間が空いてしまいましたが、形にできたことは何よりも満足です。
 表現が拙く、論理が筋を通していない箇所もございますが、そこは創作の雰囲気として温かく見守ってください。反応やコメントを頂けますと、非常に嬉しいです!

 当企画の主催者であられます西野様には、心よりお礼を申し上げます。このような盛大な企画に参加させていただき、大変光栄です。24名の凄腕作家様の中に名を連ねさせていただけたこと、非常に誇らしく思います。安民に小説の題名を授けてくださいまして、とても有り難かったです。このような小物の物書きめを温かく迎えてくださいまして、本当にありがとうございました。

 アドベントカレンダー企画。ラストを飾るのは湯呑屋。様です。複数の次元で活躍される湯吞屋。様のガチ小説、とても気になります! どうか最後までお見逃しなく!

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