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この20年のネット普及は、実は社会コミュニケーションの失敗?

インターネットが普及して20年以上経った。デバイスはPCからスマホやIoT端末、オンラインTVへと様変わりした。世界中の誰とでも昼夜問わず繋がるようになって、普通の一個人の生活者がブログやSNSで発信できるようになった。

だけど……。
人の間、国の間、民族の間の相互理解が深まった気がしない。むしろ冷戦後の世界にとって、亀裂をさらに深めている気がする。これは国内の個人とか組織間でも同様だ。
『いつでもどこでもコミュニケーションできる』『膨大な情報が世界を横断して飛び交う』ことと『相互理解が深まる』こと、
は別物なのか?!

引用型のメディアが混沌(カオス)を生んだ。
インターネットが普及することで世界が緊密に繋がって加速したと感じるのはビジネスや経済の分野。
報道・ジャーナリズム・メディアについては確かにリアルタイム性とか情報量は莫大に増えたけど、それによってヒトの世界認識が深まったか?というと疑問を感じる。むしろ新聞とTV(マスメディア)しかなかった時代の方が自分の頭でその裏にある事実を推理・想像して考えていた気がする。

インターネットやSNSが普及してちょっとウザくなった点は、『外野』が異常に増えたことだ。人の意見を安易に引用して(熟考せずに)ちょっと変えて話をする。自分の勝手な解釈で意見したり捻じ曲げる。悪意は全くなくてもそんな発信が日常茶飯事になった。この”イージー引用&拡散習慣”によって、情報がマスメディアしかなかった時代よりも、受け取るヒトは自分の頭で考えなくなった
人間という生き物は、正確に情報を受け取ろうという意欲よりも自分が理解しやすく、自分を肯定してくれる『耳に心地よい』情報を求める。大量の情報の中から、自分にとって都合の良い情報だけを無意識に選んでいるのだ。

言語と文化・習慣・宗教・歴史・教育のギャップは繋がっても埋まらない!
グローバリスト達が夢見た世界統一化の夢は遠いかもしれない。
情報は指数関数的に増えているが、日本人が接触してるインターネット媒体は圧倒的に日本語記事・コンテンツだ。世界各国の国民も母国語のネット媒体やSNSが閲覧や発言の中心だろう。たとえ海外ニュースがリアルタイムに翻訳されていたとしても、その時点でかなりバイアスがかかってくる。物理的にはネット回線で繋がってはいるけど、帰属する社会同志の意識ギャップは簡単には埋まらない。宗教的、政治的、教育によるプロパガンダも多いだろう。
仮に完全翻訳AIが登場してSNSをグローバルで一本化。多国籍・多民族が母国語でリアルタイムにやり取りできるようになったらどうだろうか?文化や歴史が異なる人たちの日常会話を翻訳することはリスクが大きいかもしれない。罵りあいが起こって紛争のきっかけになるかもしれない、ならないかもしれない。ちょっと実験してみたい欲求には駆られる。

世界共通言語はSNSとかじゃなくて『経済』ってこと?
冷戦のあと、世界を緊密に結び付けて、地域紛争は激化したが、とにもかくにも大規模な世界大戦が起こらずに済んでいるのは、経済が各国を結びつけているからだ。社会通念や文化や宗教が違う国民でも、事業や商売の話題に交流すれば会話や交渉が成立したりする。政治や外交はネット社会のおかげで半ばパフォーマンス(演出)の世界に陥っており、実体の調整は経済交渉だ。
その意味ではビジネスに絞ったインターネット空間を作り、そこを単一言語化(完全自動翻訳)するのはありかもしれない。人種や宗教が異なっても、富と仕事・就業の概念はベースとしてはある。

ジャンルを切り分けたインターネット(コミュニケーション)空間
現実味が無いと言われればそれまでだが、政治的な思惑や欲を切り離すことができれば、ディープなグローバルコミュニケーションが成立するかもしれない。
それは特定分野のアーチストやスポーツ、職人などの専門性の高いフィールドだ。日常会話は通じないけど、専門性の高いジャンルでの技術論や芸術論は通じやすいという事実がある。プロフェッショナルなどの一芸を極めた人たちにとって、言葉は違えど、ぶち当たる壁やコンセプト、心理プロセスなどにそもそもの共有項が大きいからだ。なので、専門チャンネルのような形で、グローバル統合SNSを作ることは有効かもしれない。