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誤読#6『とある日 詩と出会うためのアンソロジー』、『そだつのをやめる』青柳菜摘、『ひかりのそう』山腰亮介

今回も、最近読んだ詩集の中から気になったものを取り上げていきます。これまでよりもテンポよく書くというか、軽やかに書けたら良いなと思っています。

この企画の意図や目的などをまとめた#0は以下のリンクから。


『とある日 詩と出会うためのアンソロジー』

最初は、「詩と出会うための」と副題がつけられた詩のアンソロジーです。

責任編集は川上雨季。メンバーはインカレポエトリというサークルのメンバーから構成されています。インカレポエトリとは、複数の大学で詩の授業を受講している学生たち(およびその卒業生)に詩作の発表および交流の場を提供するために発足したインターカレッジ・サークルのことで、「インカレポエトリ叢書」としてメンバーの詩集を発行したり、様々な文学賞の受賞者が輩出されたりしています。

本書は、大きく分けて二つのパートで構成されています。第一部「代表作と相互評、著者本人による応答/補助線」(以下「代表作パート」)はその題の通り、それぞれの書き手の代表作、その詩を読んだ他メンバーによる批評や感想、そしてそれらに対する書き手本人のコメントという三つの要素がひとセットになっています。

相互評について、川上は「読者のみなさんの読みを広げる手がかりになればいい」と、書き手本人のコメントについては「作品のよりよい読解に繋がるひとつの補助線であると思ってください」と述べています。一方、第二部「新作」には相互評や書き手のコメントが存在しません。「はじめに」にもあるように、ここで読者は第一部の経験をもとに、自由に詩を読むことになるわけです。

このように、本書はこれまで詩をあまり読んでこなかった人のことを意識してつくられています。「詩に興味はあるけど…」という方には特におすすめです。また、様々なタイプの作品が収録されている点も入門にはぴったりだと思います。

本書は詩の間口を広げる役割を担うことにかなり自覚的です。ただし、編集後記として収録されている、編集担当の長濱よし野と川上の対談では、書き手自身の相互評を応答を入れるかどうかの議論をしたという話題が上がっています。そこには「作者の言葉=正解」となってしまうことへの懸念が見てとれます。「はじめに」にも、書き手のコメントは「決して答えではありません」とあって、読み手に広く扉を開きつつ、安易な「わかりやすさ」への懸念をきちんと書いている点に僕は強く惹かれます。

#0や〈誤読〉の他記事を読んだ方ならわかると思いますが、僕は本書のスタンスやバランス感覚にとても共感しています。というか、〈誤読〉はそれを一人でやろうとした結果生まれた試みに他ならないし、そういう意味でこのアンソロジーの存在が羨ましい(僕もこういう本を出したかった!)。

ちなみに、本書とそのコンセプトが評価され、とある日編集部は第12回エルスール財団新人賞現代詩部門を受賞しました。おめでたい。

さて、ここからは特に気になった作品に対する、僕なりの〈誤読〉を書いていきます。

青木風香「ぎゃるお」

個人的にもっとも発見があったのがこの詩でした。詩の新しい面白さを教えてもらった気がします。

まずタイトルがすごい。何を食べたら「ぎゃるお」をタイトルにしようと思うのでしょう。思いつくことはあるかもしれない。でも、それで最後まで書き切り、作品として成立さえてしまう力量がすごい。

分析的に読んでいくと、この詩は読者の中のステレオタイプを効果的に刺激し、そしてそれを絶妙にずらすことによって「ぎゃるお」の存在感の解像度を上げていくように感じられます。

「ぎゃるお」という言葉を読んだとき、実際にギャル男を見たことがないのに、自分の中にそのステレオタイプが強烈に存在していることに気づかされます。このときはまだ、「ぎゃるお」とギャル男は一致している。

「だからおれは言ってやったわけ。それって”イミフ”じゃん? って」

「ぎゃるお」

細部が曖昧なまま、全体としては強烈なイメージを持った存在としてギャル男は僕の頭の中にいて、「ぎゃるお」もそのイメージ通りのことを言います。偏見に他ならないけれど、実際のギャル男もそういうこと言いそうだと思う。

でも、「ぎゃるお」は唇が切れていて、飲んだオレンジジュースのコップには血がついているのだという。ここで「ぎゃるお」が一気に「実際にいそう」になる気がします。このあとも彼のナイーブさは絶妙に表現されていきます。

しかし、それだけにとどまらず、青木は「ぎゃるお」に別の方向の肉づけをしていく。

「ぎゃるおはキリンを知らない。見たことがない」という詩句が登場したり、果てには宇宙人まで登場します。ちなみに、「ぎゃるお」の兄は宇宙人の仲間らしいです。この「宇宙人」は「宇宙人のような人」と読んでもいいけど、個人的には宇宙人そのものと解釈したい。今度は、非日常的な要素によってギャル男のステレオタイプからずれていくところに、「ぎゃるお」のリアリティが生まれていくのです。

その振り幅を味わっているうちに、いつの間にか読者は「ぎゃるお」に惹かれています。しかも、後半には「両手を広げる背中の青やかな感じ」という凄まじい抒情があるのです。僕はここで完全にやられました。降参です。

また、相互評を読むと、三者とも程度の差はあれど、自分の話をしているという点が興味深いです。「ぎゃるお」について語っていると、いつの間にか自分の話をしてしまう。それは、この詩がステレオタイプという「他者としての自分」とでも言うようなものを刺激するからなのかもしれません。「ぎゃるお」について語っているようでいて、実際は「「ぎゃるお」を見ている自分」を語っているわけです。逆に言うと、「ぎゃるお」にはそういう隙というか、言ってしまうとある種のセクシーさがあるような気がします。

その点、作者コメントが簡潔なのも良いです。この作品は作者があらわれなくても大丈夫なのでしょう。「ぎゃるお」がいればそれで充分なのです。

𠮷永太地「市営とは思えない速さのバスだ!」

「ぎゃるお」の相互評でもっとも自分の話をしていたのが𠮷永で、そこには作品に従属した面白さを超えて、単体のエッセイとしての面白さがありました。余談ではあるのですが、それが間接的に詩の魅力を引き立てているのです。

評をきっかけにその書き手の詩を読むという、少し珍しい流れで𠮷永の詩を読みました。こういう出会い方ができるのもこの本ならではかもしれません。

相互評や本人のコメントにもあるのですが、𠮷永の詩は語彙の選択が絶妙です。タイトルについても、バスの速さを「市営とは思えない」と形容する、この視点に唸ってしまいます。何を食べたら(さっきも言った)。

なんというか、「みんな」という言葉が取り逃がしてしまうものを描こうとして個に焦点を当てていくという、ある意味王道なやり方があるとして、𠮷永のアンテナは「みんな」を拡大していったときに最初に見落としてしまう場所、あるいは、まなざしが個に到達する最後の瞬間にピントが合わなくなる部分に反応しているような気がします。また、落ち研的な感性があるような気もして、実際に思わず笑ってしまう箇所も多い。

独特の視点だけでなく、七五に近いリズムを基本にリズミカルに展開していく詩は、イメージの展開も非常に心地よいものとなっています。この詩においては、「ご破産で願いましては」からの展開は一つのピークになると思っていて、それまで断片的に感じられたフレーズの要素が一本に回収されていくような快感があります。

今日の俺様は 誰よりも香車
飛車角落ちでも 余裕で王手
イージーでやんす イージーでやんす
土俵入りを見てる…好角家っ
そうなるかっ いやどうなるかっ

「市営とは思えない速さのバスだ!」

一読したときは詩句の面白さに夢中になっていたけれど、ここでは「将棋」のモチーフが「好角家」という言葉からリニアに「相撲」に移行しています。このあと、「相撲」のモチーフは「食事」にモーフィングし、ひと匙の切なさを残して詩は完成します。これはぜひ実際に味わってほしいので引用はしませんが、切なさで終わるというところも良い。

間違いなく技量があって、独特な言葉選びの感性もある。滑稽に振る舞っているようにも見えて、実際笑えるのだけれど、かすかな哀愁を忘れない。なんというか、そういう、非常にニクい詩なのです。

ここまでを(僕にしては珍しく)一気に書いて、ふと𠮷永の代表作パートに掲載されている作者コメントを読み返すと、そこには「最近は道端に石ころが落ちていたら、似たような大きさの石ころがたくさんあるところまで運んでいる」とあって、これ以上ないくらいに納得しました。

國松絵梨「あるい」

僕は國松作品を詩集『たましいの移動』ですでに読んでいたのですが、本書をきっかけにもう一段階深く國松の詩を味わうことができるようになった気がします。

國松の詩は、代表作パートにある「均衡」もそうなのだけれど、中心が透明になっているような感じがします。ここでいう「中心」をもっと直接的にいうと「何について語っているのか」ということで、(言葉のあり方において、それが中心にあるということ自体が、「意味伝達の手段としての言葉」の使い方の世界観に他ならないわけだけれど)、國松は、おそらく意図的に「中心」を不在にしたまま詩を成り立たせているように思う。

詩のタイトルは「あるい」。ここにも一文字分の不在がある。

そういった
踊りなのだと思えばあるいは、
身を寄せることは可能だ 足を
踏み出すとき宙を切ることも可能だ

「あるい」

冒頭を読むと、その不在は埋まります。「あるい」は「あるいは」のことか、と。でも、それだけじゃないのかもしれないとも思う。言葉に付箋をつけたような気持ちでいると、今度はここで「踊りなのだと思えば」と語られているもの、その対象は何なのだろうと気になってくる。

そのあともう一度同じフレーズが繰り返されて、「踏み出しても構わない、ようやく/たどりついている」と語られます。語り手は明確に何かについて語っていることがわかる。けれど、やはりそれがなんなのかははっきりしない。ただ、ある種の身体感覚が表現されているようには感じられる。

すると、「流されながら書けば何かが宿ると」とあって、ああこれはつまり「書くこと」について語っているのかと思い至る。書くことと身体感覚の関係が重ねられているのかもしれないと思けれど、やはり確証は持てないままです。しかも、ここではまた別の「何か」が示唆されている。「何か」とはなんでしょう。ここにも次の不在が現れているのです。でも、間違いなく詩句の流れを味わうことはできている。何を食べているのかわからないけれど美味しいことは伝わっているわけです。

「預けてしまってもいい/(預けてはいけない)」という詩句にも、揺らぎが表現されています。ただ、ここは一義的な解釈からすり抜けようとする語りというより、この詩で語られている「何か」に、一種の両義性があるような感じがします。

今、僕はこの詩を「書くこと」について語っている詩なのだと解釈しています。でも、それは読み終わったあとの、この詩の表現を使うなら、踊り終わったあと、流れ着いたあとの感覚でしかない。こう解釈するのは僕自身が書き手だからなのかもしれないとも思います。こんなふうに自分の解釈にあまり自信はないわけだけれど、その状態が不思議と心地よくて、時間を空けてもう一度この詩を読むと、「書くこと」の留まらない、より大きく、多様なイメージが感じられたこともありました。

「中心」の不在を前提として、それを無視するのではなく、常にその不在を意識しながら詩を味わうことによって無限の広がりが可能になる、そんな魅力のある詩であると思います。

青柳菜摘『そだつのをやめる』

最近の中原中也賞受賞作は読むようにしていて、「誤読」でも何冊か扱っているのだけれど、この詩集の第一印象はこれまでにないもので、それは「不思議な本」というものでした。

難解な語彙はほとんどないし、複雑な飛躍が繰り返されるというわけでもありません(そうでないように読めてしまう、のかもしれませんが)。だから、「理解できる」詩であると思うし、惹かれる詩句も多くあって、「共鳴」できる箇所もたしかにある。

しかし、僕はずっと何か読み逃しているような気分でこの詩集を読んでいました。

僕はまだこの詩集の美味しさが全然わかっていない。そんな気がするのです。それは僕とこの詩集との相性もあるのかもしれないけれど、読み返しているうちに、もしかしたらそうではなく、この詩集に対する僕の感じ方それ自体に、ある種の「わからなさ」が内包されているのでないかと思うようになっていきました。「理解」や「共鳴」できるから面白いのではなく、そこに困難さがあるということ自体に僕は惹かれているのではないか、というわけです。

では、その「わからなさ」とはどんなもので、何に由来しているのか。

キーワードだと思ったのは冒頭に置かれた、タイトルのない詩の「だから尺度を探してぼくを見てほしい」という詩句でした。そうか、尺度が違うのか、と僕は詩集にヒントをもらいました。

たとえば、「ソテツはぼくの名前」という詩には「同級生のはずなのにぼくはいま教育実習を終えて大学四年で/あの子は中学生だった」とあり、複数の時間が混線して同時に存在しているような描写があります。また、「ぼく」が人間以外の別の生き物の感覚で語っているような詩がいくつも収録されています。

「ユキちゃんユキちゃん」という詩には「濁ったタイの目玉とぼくの目玉がくっつくくっついたら目の水分が逆浸透こちらへきてあちらへいった。濁ったタイの目玉はぼくの目玉に映る光になった」とあります。ここでは見ることによって語り手の存在が「ぼく」からタイの方へ行ってしまったことがわかります。他にも「小さい生き物を探すには//まず自分が小さくなる」(「さがしもの」)という詩句もある。

そう言えば、この詩集を楽しむ糸口を掴もうと読んだ中原中也賞の選評には「自由研究」という言葉が出てきていました。誰の選評だったかは曖昧だしすぐに参照はできないのだけれど、その単語だけは覚えています。

なんというか、この詩集はイノセンスな視点な持っているように感じられます。そして作品ごとに、あるいは一つの作品の中でそのまなざしの尺度が変化していくのです。人間は万物の尺度である、なんて言葉もあるけれど、ここで言う尺度とは主観のことで、子どもの感じ方、大学四年生の感じ方、そんな年齢による人間の尺度だけでなく、虫の主観によってもこの詩集は語ってしまう。語り手は観察によって主観を越境しているのです。

そんな詩集に対して、僕が感じている「わからなさ」とは何なのか。思うに、読みの感覚に歩幅のようなものがあるとして、僕の歩幅はこの詩集の語りのそれに対して大きすぎるのだと思う。僕が大股で歩いてしまうものだから、詩集の感覚の一部を感じることはできても、その少なくない部分を取りこぼしてしまうわけです。

実際、一行ごとに切断のような飛躍があるようには思えない。まったく別方向の読みに進んでいるわけではないからこそ、行はたしかに繋がっているように感じるのだけれど、その取りこぼしてしまった部分によって、僕の主観では飛躍しているように感じられてしまう。つまり、僕とこの詩集の尺度が噛み合わないところに、僕の感じるわからなさがある。

(とある人にこの詩集の話をしたところ、その人は「十六進数で書かれた言葉を十進数で読んでいたみたいな感じ?」と言われました。その例えも良いなと思ったのでここに書いておきます。)

ここであえて、前述の言う「語り手の歩幅」とは作者の歩幅のことではない、と考えてみたい。つまり「語り手の歩幅」とは実は読者の側にある、と。つまり、僕のどこかにも、この詩集を味わうことができる波長のようなものは存在するような気はするのです。しかし、どうにも僕はそれを自分に実現することができない。ここに僕の違和感がある。どうしても大股で追い越して、素通りしてしまう。そこには「何か」があるはずなのに粘ることができない。先を急いでしまうわけです。

これは自分自身の内側に方向を持った一つの距離であり、前述のイノセンスという言葉から連想すると、この距離は時間的なものだと解釈できます。つまり、この距離とは、自分の中にかつてあった、あるいは現在の自分に深く深く埋まっている無垢さとの距離なのではないかと、擦れているという自己認識のある僕は考えてしまうわけです。

詩集は文字として書かれているから、「何か」は「何か」のままあることはわかって、まったく同じものではないかもしれないけれど、この詩集と同種の「何か」を、僕もたしかに感じていたときがあった。そのこともなんとなく覚えている。しかし、今の僕にはそれらを直接受け取ることができない。

この詩集はそのイノセンスと共鳴しながら楽しんでいる方が多いように観測されます。しかし、残念ながら僕にはそのような楽しみ方は(今のところ)難しいわけで、むしろ、そこに対する埋めのようのない、もしかしたら錯覚にすぎないノスタルジーに対する愛憎を楽しみに、僕はこの詩集を繰り返し読んでいるのです。

山腰亮介『ひかりのそう』

最後に取り上げるのは山腰亮介の作品です。

話の枕として個人的な話をすると、僕の詩集『壁、窓、鏡』は文字のレイアウトや組版等に自分なりにこだわってつくりました。それは「本」という形式の枠組みの中で、詩集の内容と形式が一致していること、あるいは内容と形式が不可分であるような表現をするという試みでした。

山腰は試みているのは、それよりももっとラディカルなもので、詩集が「本」の形をしていることも自明なことではない、という地点から詩集をつくっていることが伝わってきます。

『ひかりのそう』という詩集は、一枚の紙の形をしています。

正方形の薄紙の両面がこの詩集の紙面です。薄く白い紙に対して本文はすべてグレーで記されており、全体的に繊細で儚い印象を受けます。その片面を正方形の3×3マスに九等分したスペース(実線が引いてあるわけではありません)の中央を除いた8マス分の位置に詩が配置されています。自分で書いていてわかりにくいと思ったので、参考画像を以下に貼ります。


詩集『ひかりのそう』(「on the MARGINALIA」より)

本文の反対側の面には書誌情報と、左右反転した文字で各詩篇のタイトルが記されています。本文のある側から見ると、タイトルが透けて、正しい向きで読むことができるようになっているわけです。

また、正しい詩集の向きや、どちらが表でどちらが裏なのかがわからないようにレイアウトが工夫されています。つまり、詩集の形式から詩を読む順番が導けないようになっているのです。逆に言えば、それを(暫定的に)決めるのは読者であるということになります。

一般的な書籍の場合、ページをめくりながら表紙の側から順に読んでいくという形式の力が働いています。もちろん、その力に抗いながら読むことは可能ですが、本を作る側のほとんどもその力を自明のものとしています。

一方、この詩集にはページをめくるという行為が存在しません。代わりに、読み始めるタイミングでテキスト全体を見渡して、八篇の詩集から読むものを選ぶという行為が発生するのです。そして、ページをめくるのではく、くるくると紙面を回しながら作品から作品へ移っていくことになります。

この読み方は、一般的な書籍よりも自由なものだと言えます。この順路のなさに頼りない気持ちになる人もいるような気がしますが、正解も不正解もないようにデザインされているわけですから、そのときどきの気分に合わせて好きに読んで構わないわけです。

僕の場合は、初読の際はふと手に取ったときに横書きで正面にあった「光の中の光」から読み始めました。それを読み終えると、その右側で縦書きになっている「——光?」に気づいて、次の詩の部屋のドアが半開きになっているようなイメージを抱いて、そっちに進んでいきました。自然に時計回りの読み順が生まれていたのです。通しで読んだあと、僕は意図的に一篇を読み終えるたびに紙を回転させないといけない順番で再読をしました。

この詩集は「本」ではない代わりに、公園のような「場」としての存在感がある気がします。「場」の比喩は『砂時計』第3号に掲載されている「誤読#3」で扱った山田亮太の「みんなの宮下公園」でも使ったのですが、そのときの「場」が宮下公園という具体的な存在だったのに対し、『ひかりのそう』はより抽象的なものとして存在しています。

外側から、詩集という場所に足を踏み入れて、そのとき目についた遊具で遊ぶように詩を味わうわけです。近寄りがたさを感じてしまう人もいるかもしれないけれど、近づいたり遠くから眺めてみたりして作品との距離を測ってみたり、あるいは恐るおそる遊具の様子を伺うみたいにみたいにくるくると紙を回してみたら、そのときの自分にしっくりくる一篇を見つけられる気がします。

また、これまでは形式の話ばかりをしてきたので、詩集の内容であるテキストにも触れていこうと思います。

これは自戒でもあるのですが、形式にこだわった作品を読んでいると、形式の面白さをきっかけに読み始めたものの、そこで紡がれている詩の言葉が形式に負けてしまっているように感じることが往々にしてあります。しかし、山腰の言葉はデザインと同じように、繊細に磨かれています。

まず、『ひかりのそう』に収録されているのは、同一の文章を、異なる箇所から開始した八篇です。その詩行はフレーズを「|」で区切りながら展開していくのですが、異なる始点を持つ(それはつまり、異なる終点を持つことでもある)同一の詩行を読むという経験は、僕の中に半透明な感覚を呼び起こしました。

詩句もまた、音やイメージに近さに由来した連想的な展開、そしてそれらを屈折させる疑問文によって展開されていきます。フレーズを区切っている縦線も、切断の象徴ではなく窓のように感じられます。

また、この詩集の言葉は、目が合った瞬間にまなざしに反応して透明になってしまう気がします。読者は自分の中に残った残像を読んでいるような具合なのです。なんというか、光に触れることができたら、こんな感触なのではないかと思いました。

フレーズの接続のされ方や読み味は、曇りガラス越しに光を認識するような、そんな繋がり方を連想させます。

そして、全体的に白やグレーの印象が強い詩集なのですが、何度か読んだあとにふと詩集全体を俯瞰すると、その印象は意外にもカラフルです。ただ、その色もビビッドなものというより、補色残像によって見える色彩のような具合なのです。

読み始めると自然と紙を回転させることを促すレイアウトや、同一の詩行を循環させたような各詩篇のあり方、そして緩やかに転換していくフレーズから、僕は色相環を連想しました。それは詩集全体が一つの環であり、一篇一篇の詩も別の環をなしているような、一種のフラクタル構造のようにも思われます。

読者は「場」的な横の広がりの中を歩き回るように詩を味わったり、また、詩集を仰望・鳥瞰しながらその構造を楽しむことができるのです。

最後に。この詩集を楽しむサブテキストとして、山腰らによって発行された批評紙「——の〈余白〉に」があります。1号では『ひかりのそう』と山腰の別の詩集『ときのきと』が扱われています。非常に興味深いので、『ひかりのそう』(ともう一つの詩集『ときのきと』)を楽しむきっかけ、あるいはより深く楽しむ手掛かりとしてセットで読んでもらいたいです。

さて、今回は以上です。ここまでお読みいただきありがとうございました。またいつか。

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