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あの音楽を聴きたくなる短編小説4

ドゥ・ユー・リメンバー・ミー? (トム・ウェイツに捧ぐ)
-Do you remember me?-


 重たい赤褐色のドアを押し開くと、開店直後の店内はまだ前日の淀んだ空気をはらんでいた。薄暗い照明、天井で回る大型ファンのめまいにも似た振動。ほこりをかぶったエアコンはハーモニカのような吹き出し口から、生ぬるく、ヤニ臭い息を吐き出している。

 男は足を引きずるように店内へ入ると、カウンターの店員に一瞥をくれ、何を言うでもなくその前を通り過ぎ、入口から一番遠い角の席を今夜の河岸と決めた。

「ずいぶん見なかったな。何かまた、うまい話にありついてたのかい?」

 襟のボタンを外しながら声をかけてきた店員の表情には、ある類いの人間に対する侮蔑と、それとは裏腹な、親しみの情のようなものが浮かんでいた。

「何を飲る? いつものやつは切らしちまってるんだが」

 男は問いに答えるでもなく、テーブルにオニオンスープで煮こんだようなツイードのジャケットと帽子を放り、ニスのはげたイスに体を投げ出した。何故かそれだけきっちりプレス線の入った濃いグレーのスラックスからは、表皮のはげた黒いエンジニア・ブーツがのぞいている。

 注文を促すように、もう一度開きかけた店員の口を遮って、男は言った。

「酒はやめたんだ」

 その声は低く、ざらついていたが、妙な安心感と暖かみがあった。例えるなら、コントラバスを錆びたノコギリで奏でる子守唄と言ったところ。

「紅茶をくれ。セイロンを濃いめで」

「なんだって?」

「セイロンだ」

 きついウェーブのかかった髪を無理やり後ろに流した男は、熱すぎるダージリンをソーサーに移してすすりながらながら、数日前の新聞の訃報欄を熱心に読み始めた。店員の方も放っておく事に決めたらしく、店内には時おり激しくなる冷蔵庫のモーター音だけが響いている。

 突然、ヒステリックなベルとともに公衆電話の受話器が踊り始めた。店員は急ぐでもなく近寄ってそれを取り上げると、店の名を告げ、ひとこと、ふたこと話した後、男の顔にその穴だらけの器具を向けた。

「あんたにだ」

 男はそれを無視した。

「ほら、顔の長いダンディってさ。あんたにかかってきた電話だよ」

 男は新聞でテーブルを叩いて立ち上がり、面倒そうに受話器を受け取ると、その長い顔の側面と肩で挟んだ。

 それは若い女の声だった。

「ハーイ、トム。お元気? ねえ、私のこと覚えてる?」

 男は、店員の胸ポケットから折れた煙草をつまみ出して口の端にくわえた。

 その女の声は耳触りがよく、魅力を感じるには充分なものであったが彼には全く聞き覚えがなかった。

 それに、たいした事ではないが、彼の名前はトムではなかったのだ。

 男は灰皿の上のマッチを手にしながら言った。

「ああ、もちろん。覚えてるさ」

 鼻をかすめる硝煙のにおい。

「あの夜の、ベッドの固さもな」

 奇妙な二人の喜悲劇(トラジコメディ)、これがその始まりであった。



ドゥ・ユー・リメンバー・ミー? (トム・ウェイツに捧ぐ)
-Do you remember me?-

Thanks For Inspiration,
TOM WAITS『Small Change』 (1976)    


              



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