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あの音楽を聴きたくなる短編小説3


光について -Into The Light-


 オレンジ色の外灯の下、胸に手を当てたビル・アシュレイは、長らく訪れることの無かったその店の、あの頃より少しだけ古びたドアの前に立っていた。


 それは数年前のこと。ランチを共にした音楽好きの同僚が、サンドウィッチのツナをこぼしながら言った。


「すげえシンガーを見つけたんだ。今晩ライブがあるんだけど、一緒に観に行かないか」


 その週に大きめの商談を控えていたことあって、夜の、それも月曜日からの外出にあまり乗り気でなかったビルだったが、同僚の強引さに押されてイースト・ヴィレッジのアイリッシュカフェに足を運んだ。


 その夜、客席との仕切りもない壁際のステージでビルが目撃したのは、ギターを抱えた美しき音楽の化身だった。それまでのビルの淡々とした人生を、一瞬にしてまばゆい黄金色に輝かせた、声という魔法。


 結局、約束の時間になっても現れなかった同僚や、数ヶ月かかって進めてきた商談のことなど、もはや彼にはどうだってよかった。深夜にまで及んだ熱いライヴの最後の曲を見届けると、機材を片付け始めた若者のもとへ走り寄り、自分がいかに君の音楽に心酔したか、さっきまでのライヴと同じくらいの熱量で力説した。


 苦笑いしながら聞いていた若者であったが、白々とした朝日が昇る頃には、その見知らぬ年上の男を新しい友人として迎え入れていた。テーブルにはバリケードのように積まれたビールジョッキ。散らかったフィッシュフライの衣と、ポテトチップスのかけら。そしてそれは、毎週月曜日のライブ後に繰り返される日常となった。





 美しき若者はそれが彼の使命であるかのように、その才能の羽ばたきを強め、ビルの前から飛び去ってしまった。


 それまでの弾き語りではなく、バンドを従えたアルバムのリリース。名だたるアーティスト達からの絶賛。海外を含む長いツアー。伝え聞く熱狂の渦にわずかばかりの寂しさを感じつつも、心からのエールを送り続けていたビルだったが、ある日、落雷の如き衝撃が彼の身に訪れる。


 若きミュージシャンの事故死。地方紙の一角に記された突然の別れ。








 輝ける過去は色褪せた現在へと姿を変え、ビルの顔には深く硬いしわが刻まれていた。



 辛さを感じて近場にさえ来る気にならなかったこの店に、今夜はどういう訳だか足が向いた。立ち止まらずにたどり着いたのは、それだけ時が経ったということなのだろう。

 照明があたる片開きのドアの前に立ち、ビルは目を閉じた。店内の喧噪が漏れ聞こえる。テーブルの間を立ち回るウエイターのダンスのようなステップ。乾杯で打ち付けられるグラス。床に落ちるスプーン。笑い声。変わらず賑わってるんだな。何もかもが甘苦しいセピア色の風景。


 そして、微かにギターをチューニングする音が聴こえ出した。響き合い、ともに登り詰めるような。今も誰かが歌っているんだ。そう言えば、今日は月曜日じゃないか。


 ビルは目を開けた。胸に当てていた手をドアに伸ばす。しかしそのドアは、彼が触れる前に向こう側から勢いよく押し開けられた。視界を覆う、まばゆい光。







「よう、ビル。どうした、そんなとこに突っ立って。あれか、また、股でも腫れてんのか」


 若者はあの頃の姿のまま、くしゃくしゃの笑顔でそこに立っていた。ひと目見たとたん、溢れ出る感情がビルのほおを熱く濡らした。

「どこへ行ってたんだ、ジェフ。俺は、俺は……」


 無言で微笑む若者の、そのまっすぐで深い、瞳の透明な黒さ。





「もう一度、お前の」


  ビルは自分の声が震えているのがわかった。
若者はさっきまでのふざけた様子から一転、真剣な表情で待つ。何かを。


「お前の歌を聴かせてくれないか」



 若者は大きく両手を拡げ、ビルの肩を強く掴んだ。


「もちろんだ! このクソ野郎! さあ、はやく中に入れよ!」

 ふたりの背中が光の中へ消え、追憶のドアは閉じた。


 おかえり。また、お前に会えてよかった。




光について -Into The Light-

Thanks For Inspiration,
JEFF BUCKLEY 『Live at Sin-e』LEGACY EDITION (2003)







 ニューヨーク、イースト・ヴィレッジにあるアイリッシュカフェ・シネイは、ジェフ・バックリィがデビュー前の時代に週一月曜日のレギュラーとしてソロ演奏をしていたカフェ。


 そこにお店の常連客や彼の気のおけない友人たちを招いてライブレコーディングされたのがこの作品。愛用のテレキャスターと本当に楽しそうな歌声。数々の名曲カバーと後の代表曲。ジェフ・バックリィの魅力がダイレクトに伝わる素晴らしいこの夜の記録は、生前唯一にして最上のアルバム『GRACE』に先駆ける形で、4曲入りのEPとして発売されました。


 その『Live at Sin-e』の終盤に収録された最後のMC部分で、ステージ上のジェフと軽口をたたきあっているひとりの常連客。それがこの物語の主人公です。彼はジェフの事故の後、何を思い、どんな人生を送ったのでしょうね。


 ジェフの早すぎる死後、その夜の全貌は、CD2枚、DVD1枚というボリュームで、3枚組レガシーエディションとして再リリースされました。大ファンである私はもちろん発売日に手に入れ、それからずっと、その日その場所にいる観客の一人となって胸を熱くしているのです。


サポートいただけたら嬉しいです。あの頃の私が報われます。今の私の励みになります。