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恐怖によって人心を掌握する方法では未来を築ける人材は育たない。

『これらデジタル化に必要な最低限の環境(教師が担う)とコンテンツ(どうにかする)があって初めて「Society 5.0を担う人材育成とは何ですかね」という議論になり、そのためには「子ども1人ひとりの学びの状況を把握できるシステムを作り、運営しましょう」という流れになるわけです。本来なら、ここで初めてマイナンバーっすよね、という議論が起きるはずです。そして、いま話題になっている教育ログ、学習ログ、スタディログ(全部指し示す意味は同じ)こそが、デジタル化された教育の根幹であり、子どもたちの個性、性質そのものだと言えます。つまり、その子が何に興味を持ち、何を自発的に学び、どうアウトプットしようとしているのか、という子どもの「頭の中」そのものを意味するからです。それが、子どもに1人1台配られたPCの使われたログを、仮名加工情報として統計的に分析されることで、この子たち1人ひとりの状況にあった学びが提供されるようになる、という話になります。もちろん、教師の役割も大きく変わっていくのですが、デジタル化が教育にもたらす恩恵は大きいはずです。明治維新以降、営々と続いてきた大教室で生徒が並び、教師が黒板に板書する内容を書き写し眠気と闘いながら苦労して学問を修める、というスタイルから、自ら考え、興味や能力に見合った知識が得られ、ネットの向こう側に山といる有識者からの教えを乞えるという仕組みです。究極には、クラスどころか学年がなくなり、したい学問を自ら選び、学び取る方向へシフトするのが「理想」です。もちろん、そこに至る現実は公教育の現場がデジタル化への対応だけでなく、教育の仕組みを教師、子ども、保護者と一体となりながら進めていくのだという改革への熱意と明確な目標が必要になるのですが。これは、2018年暮れに提言された「柴山プラン(当時文科大臣だった)」にも方向づけられ、経済産業省の「未来の教室」プロジェクトにも明記されておるわけですよ。さらに、これらは実はプラットフォーム論争にも直結してきます。上記はいわば学校が配ったPCの閲覧ログも含まれて、それを解析すれば、その人の知的レベルや興味対象が統計的に分かるから、学校教育の現場でも上手く使って行きましょうという話です。でも、これってすでに我らがGoogle様やFacebook様、アリババ様が、世界中の膨大な検索ログを個人情報と勝手に紐づけてマーケティングに生かし、名指しで「あっ、こいつはたぶん年収400万円台だな」とか、「お、いまハゲの悩みについて検索しとるやないか。ほんならヅラの広告配信したろ」などと、本人の資質や意向を先回りして情報提供をすることで膨大な利益を上げています。Society 5.0時代の教育デジタル化とは、すなわち教育ログのデータをたくさん集めてきてビッグデータ解析をすることも基盤としつつも、やっていることは、Googleやアリババが顧客の信用状況や関心領域を吸い上げて、マーケティングに生かしていることと、大きな違いはないのです。そこに一から立ち向かおうというのが、我が国のいまの公教育、学びの現場で起きることであり、同時に学校制度を未来に向けてどのように変えていき、私たちの子どもの世代が豊かな学びの環境を享受できるようにするかの議論になっていると言えます。1人ひとりに合った教育の在り方が、もう少しきちんと精査され制度設計されるためには、いままでスポイルされてきた「勉強のできる子や早熟な子は、ギフテッドとして飛び級やハイランクの特別学習を認めるかどうか(いわゆる才能教育)」という別人を遇するものではなく、本来の教育が目指すべき、1人ひとりに合った学習環境や内容の提供まで行けて、初めてゴールなのではないのかなと思う次第です。そういう学びに対する重要さと環境の大事さがきちんと子どものうちから伝わらないと、大人になってから、まるで新興宗教のようなIT教祖のネットサロンに入れあげたり、「コロナは風邪」と称して毎晩飲み歩くようなリテラシーの低い、痛い大人になってしまいかねません。教育が大事なのは当然ですが、そのデジタル化が遅れている我が国が後発国らしく、もっと合理的な制度で未来の世代に良い環境を与えられないものかと、思い悩む日々です。』

「サービスされることに慣れ切ったダメなオトナ」をこれだけ多く輩出した最近の日本の教育は教育環境の劣悪な処より悪いのかもしれない。恐怖によって人心を掌握する方法では未来を築ける人材は育たない。

子どもに1人1台PCだけで教育デジタル化が進むとは思ってないよね
マイナンバー叩きで騒ぐ愚かさじゃね
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/78500


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