私にとっての「家族」とは私が大切にしているモノ達の最小単位に過ぎない。
『もしもヨーロッパの一部の国々のように、もはや結婚制度に重きを置かない文化であったら、「法的な結婚なんてどうでもいい」となり、彼らはこのような行動を取らなかったかもしれません。しかし台湾の人々にとって、家庭生活や結婚に対する考え方は、パートナーが異性であろうと同性であろうと、同じように大切なものです。そこで私たちは話し合いを行い、国民投票を行いました。台湾の人々が下した結論は、「同性間の結婚の権利を合法化する」というものでした。異性婚カップルと同等の権利と義務が保障されたわけです。結婚を登記することができ、パートナーが先立った場合は残された人に相続の権利が生じます。結婚した二人には相互扶養の義務があり、パートナーのどちらかと血縁関係がある子どもを養子にすることもできます。ただし、この結婚によって、お互いの家族が姻族になるわけではなく、同性カップルの結婚とは当事者間のものです。私たちは国民投票を経て、「家族同士の姻戚関係については文化的判断に委ねる」としました。「個人と個人の結びつき」という発想は、台湾原住民の発想から得たものでもあります。結婚は個人と個人のものであり、それぞれの家族は関係ない――世界には結婚制度に重きを置かない文化の国もあり、彼らにとって、これは当たり前の話です。「AさんとBさんが結婚したら、自動的にAさんの両親はBさんにとっても義理の親になる」という、家と家との結婚という概念などもっていないのです。そういう考え方をする人がいてもいいのですが、台湾で同性婚を合法化した際には、これは非常に重要なポイントでした。「家族は姻族としての形を取らなくて良い」という手法のおかげで、一部の抵抗勢力の声も下火になったのです。なぜなら台湾には父系社会の伝統もあり、「先祖や家を守る『永続的結婚』が大切だ」とか「それぞれの親族も姻戚関係になるのは当たり前だ」という考えを主張する人々が一定数います。彼らは「同性婚は個人と個人の関係であるなら、社会的脅威にならない」と見なしたのでしょう。このやり方は、日本でも検討してもいいのではないでしょうか。同性婚の合法化は、結婚の再定義です。これはソーシャルイノベーションであり、世代や宗教を越えて、本当の意味で市民の考え方を変えました。従来の「家族」という考え方や在り方から解き放たれたということです。~私は若い頃、オーストリアの哲学者、ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの熱烈な愛読者でした。ヴィトゲンシュタインは著書『哲学探究』(邦訳:岩波書店)のなかで、「家族的類似」という考え方を提唱しています。たとえば「家族」という単語は、使う人によってさまざまに異なるものを意味するでしょう。でも私たちが「家族」という語を使うときは、必ずしも顔や性質がそっくりである必要はありません。そこに何かひとつでも共通の特徴があれば、「家族」的関係を認識していると考えます。・「家族」に限らず、あらゆる語に明確な定義というものは存在しない。・語の意味とは、部分的な共通性によって成り立っている。これがヴィトゲンシュタインの言語哲学の概念です。たとえば、「男と女が結婚していたら家族」「家と家が姻戚関係になるのが家族」「血縁関係があるのが家族」「同居して生計を共にするのが家族」などなど、決められた要件を満たしたとき、初めて家族になるということです。まるで、個人と個人の間に愛が生まれるためには、相手が何かのカテゴリーに当てはまるのが必須条件であるかのように、家族も“条件つき”です。私たちが現在やろうとしているのは、この本質的特徴の要件を緩和すること。結婚する本人同士が「私たちは家族的関係になった」と感じたとき、その二人の家族像を尊重する環境をつくることです。どんなかたちでもいい。どんなつながりでもいい。家族の一員になった人が、それを「家族だ」と認識できるようにすることが大切です。これが、哲学における家族的類似が意味するところであり、台湾の同性婚合法化についての私の考えでもあるのです。』
「家族」とは「二人以上の最小単位の運命共同体」なだけであってそこに違う関係によって発生した権利と義務を付与してあるから「家族とはこうあるべき」の様な縛りができてしまうのだ。私にとっての「家族」とは私が大切にしているモノ達の最小単位に過ぎない。
【台湾の天才】オードリー・タンが語る“家族”という枠組みから自由になる方法
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/77286
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