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ルワンダ大虐殺から25年―民族和解に向けた挑戦!

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#和解

第8章―マイクロセービングで生活を立て直した女性たち



①クラリッセ・ニラポンガさん(35)はマイクロセービングのグループの一つである「INTAMBWE」のメンバーです。彼女は4人の子どもを持つ母親です。彼女は、小学校は卒業しましたが、その後に中等学校に進学する機会を持てず、20歳で結婚しました。INTAMBWEに参加するまでは農業とニットづくりをしていました。グループに参加してから彼女は、マイクロセービングからの資金をもとに、ニットに刺繍をして販

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第7章―マイクロセービング活動が民族和解の糸口に!



 このマイクロセービングの場を民族和解の一助にする方法としては、現地パートナー団体のARTCFのフィールドオフィサーが、グループミーティングの場で、メンバーたちに和解のためのトレーニングを行います。その場では、皆一緒の人間であるということに気付かせ、民族の違いに関係なく同じ「ルワンダ人」として生きていこうと語りかけていきます。毎週のグループミーティングの場では、元・加害者も被害者も一堂に集まる

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第4章―「家もない、食べ物もない、仕事もないし、学校にも行けない・・・そんなことで和解なんてできるの?」

 私がルワンダに初めて降り立ったのが、1997年の8月でした。ジェノサイドが終わってからわずか3年のちのことでした。初めてキガリの空港に降り立ったときの感動は今でも覚えています。「いよいよアフリカに来たんだ」。空港に足を踏み入れた時、そのような感慨でいっぱいでした。

↑ 1997年当時のキガリの街並み

 空港から市内に入ると、まだあちこちの建物に銃弾の跡が残っていました。実際にここでジェノサイ

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第3章―私はなぜルワンダへ?



 ところで、なぜ私、小峯茂嗣はルワンダにかかわるようになったのでしょうか?しかも25年も。
 少し、私がルワンダにかかわるようになったいきさつをお話させていただきたいと思います。
 私は幼少のころから、戦争というものに関心がありました。
 もちろん、戦争は人類の最大の関心事でから、あたりまえと言えばあたりまえかもしれません。
 ただ私の場合は、自分の父親が戦争遺児だったことが大きいかもしれませ

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第2章―アフリカ平和再建委員会(ARC)の発足

 1994年4月、世界の人々は、突然、大量の難民がルワンダから周辺国に流出していることを知り、多くの人々が、ルワンダという国の名前をはじめて知りました。その時は、なぜこのような大量の難民が発生したのかを、誰も知りませんでした。しかし徐々に、ルワンダの国内でツチと呼ばれる少数派の人々が大量に殺戮されていたことが明らかになりました。これはのちに「ジェノサイド」と呼ばれることとなりました。しかし当時の世

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第1章―ルワンダのジェノサイド



 ここではルワンダのジェノサイドがなぜ起こり、その後のルワンダはどうなっていったかについてお話したいと思います。

 1994年、内戦下のルワンダで、多数派フツによる少数派ツチへのジェノサイド(大量虐殺)が起こりました。全土に組織された民兵集団に扇動された住民が銃や農具を手に取って、実に当時の人口の1割にあたる80万人以上が犠牲となりました。

ジェノサイドの犠牲者

教会に避難していたところ

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はじめに―平和構築のために行動する研究者、小峯茂嗣です♪



 こんにちは。平和構築のために行動する研究者、小峯茂嗣です!

 1994年のルワンダのジェノサイド(大量虐殺)をきっかけにNGO活動に参加し、それからは何度もルワンダに足を運び、ジェノサイド後の「民族和解」のためにルワンダの人々と行動してきました。気がつけばこの当時から今までルワンダにかかわっている数人の日本人の一人となりました。

 ルワンダという国の名前を知っている人は多いと思います。ジ

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