繊細は作られている

私という存在を探してきた。
『自分探し』という言葉があるように、
それが、ある時期はカッコいいこととさえ
思っていた。

今では、随分とアホなことしていたなと
思ってしまう。
探し方も今と昔では、情報の差がありすぎて
比べることもできない。

自分探しをすること自体、自分の好きが
分からなかったり、自分を優先できなくて
そのままでいることに、足りないと考えていた。

私たちは、知らずに『足りない』という
価値観を刷り込まれてきた。
何も知らないから勉強して、知識を身につけ
同時に経験をして学んできた。

これさえも誰かが仕組んできたことの一つ。
そうすることが都合の良いと考える人が
概念や世界を作っている。

例えば、好き嫌いや善悪など、比較することは
どちらか一つが正しいと言う価値観を
作り出している。

この正しいと言う価値観が、曖昧なのである。
何を基準にしているのかを明確にした時、
当てはならないことも当然、ある。

にもかかわらず、私たちは考え方を知らないから
そうなんだと受け入れてしまう。

ここに、世間でいう「他人軸」が私たちの中に
入り込んでいる。誰かが決めたことだから、
正しいと思い込んでしまう。

そう、なんの疑いもなく。
これは身近な家族から仕込まれていることが
多い。

その前に、ズレに気づけるといいのだが、
何もわからない子供の頃は、基準がないから
親から聞いた話を信じるしかなかったのである。

私たちはこうして、学び、信じている。
考えるのではなく、思ってしまう。

この時間が長ければ、長いほど、
ここから抜け出すこと2時間がかかる。

もちろん、悪事ではないが、知らないことを
良いことに教える側にとって、子供たちを都合よく
コントロールしようとしてしまうと
この思考の仕方を手放せなくなる。

考えることをしなくなってしまう。

思考とは、思うことと考えることであり、
日常の中で思考している時間の大半は、
思っていることがほとんどである。

考えるとは、反応して行動するのではなく
自分の答えや結論を出して恐れずに行動すること。

誰かに言われたことが気になって、
感情的になったり、暴言を吐いてしまうことは
条件反射的に行動して、考えていない。

一喜一憂することが悪いのではなく、
振り回されていることに気づけていない。

昨今、HSPという言葉が世間に広がり、
もれなく、私もその一端の中に足を踏み入れた。

確かに、枠に囚われ、そこにいることに安心すら
感じている自分がいた。

実はそれこそが、不安の一部であることに
気づいたのである。

そもそもHSPという概念に医学的根拠は
どこにもない。あえていうなら、心理的概念であって
精神医学的な概念ではない。

これを踏まえて、「私はHSPである」というのなら、
当事者にとってその方の都合が良いだけかもしれない。

アメリカの臨床研究心理学者であるエイレン・アーロン博士が
提唱した概念であり、果たしてアメリカの概念が、
日本人に適合するのか甚だ疑問を感じずにはいられない。

国民性や社会的価値観の違う人種を差別するつもりはないが
その傾向や割合についても、妥当と言える根拠を示しているものが
どこにもないのである。

HSPであることを決して否定しているのではない。

これも、誰かが困っている人のために伝えた事でも
すり替えて都合よく使っている人もいるのではないだろうか。

『私たちは言葉の世界にいる。』

この大前提を十分に理解した上で、この概念について
理解していくと、私たち日本人はそもそも繊細なのである。

規定されていることは、自ら不自由になっていることに
気づいて欲しいのである。

いつまでも、悩みの原因を探してしまうのではなく、
そこから逃れることが安心できる状態であることを
学ぶことが生きやすさを手に入れることである。

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