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人はなぜ、古典に行く着くのか?私は何故「カラマーゾフの兄弟」を読むのか。いや、読まねばならぬのか。【カラマーゾフの兄弟との格闘日記①】

世の中には二種類の人間がいる。『カラマーゾフの兄弟』を読破したことのある人と、読破したことのない人だ。

ブックオフオンラインコラムより
http://pro.bookoffonline.co.jp/hon-deai/bungaku/20161025-brothers_karamazov.html

これは村上春樹さんの言葉です。

また、私が私淑している、明治大学文学部教授の齋藤孝さんは「カラマーゾフの兄弟」についてこんなふうに評しています。

これぞ最高峰の総合小説。これを読まずして文学を、いや人間を語るなかれ。

「古典力」(齋藤孝)岩波新書 p92

齋藤先生は他の多くの著書の中でも「カラマーゾフの兄弟」を推しまくっています。

更に、私は最近三島由紀夫に興味があって、いくつか著書を読んでいく中で読んだ「仮面の告白」の序文では「カラマーゾフの兄弟」の一節が引用されていました。

更に更に、私は北野武さんの映画が好きなのですが、その北野武さんが本の中で戦後の代表的な映画監督3人として挙げている内の一人が、黒澤明監督。(『Kitano par Kitano:北野武による「たけし」 』ハヤカワ・ノンフィクション文庫より)

その黒澤明監督はロシア文学が好きで、ドストエフスキーも好んでいました。そのドストエフスキーの最高傑作と(一般的に)呼ばれているのが「カラマーゾフの兄弟」。

すなわち、私の「好きな映画監督の好きな映画監督の好きな作家の最高傑作」が「カラマーゾフの兄弟」。
言ってみれば、好きなものの、好きなものの、好きなものの中の最高傑作。

たぶん、多くの人が最終的に古典に行きつくのってこういう原理なんだと思いました。
つまり、自分の好きなもの、興味のある者、尊敬するものについて調べていくと、その人たちが好きだったもの、興味のあったもの、尊敬するものが分かってきてそれを調べます。
更に同様のプロセスで連鎖的に何世代か遡っていく
すると、気づけば古典と呼ばれるような時代のものに行きつく。

つまり・・・。
私が自分の興味の源泉を追求していく時、尊敬するものの根源を探求していく時、あらゆる道中で、「カラマーゾフの兄弟」に出くわしてきたのです。

こういう訳で、私は「カラマーゾフの兄弟」を読もう、いや、読まねばならぬと決心を固めたのでした。

読むのが難しすぎる

という訳で、少し前からカラマーゾフの兄弟を読んでいます。
しかし、読み始めてすぐ、読むのがとてつもなく大変だと判りました。
本文に入る前から・・・否、ブックカバーの見出しから挫折するところでした。

「貪婪淫蕩な父、フョードルの・・・(後略)」

「カラマーゾフの兄弟」(ドストエフスキー)岩波文庫 訳:米川正夫 ブックカバー見出しより

よ、読めない・・・。

21世紀の叡智の結晶・Google検索をもってしても、読めない文字は検索すらできないのだと気づかされました。

早くも挫折しそうでした。
しかし、先人たちが登ってきた世界文学最高峰と呼ばれるこの山を登って、どんな景色が見えるのか見てみたい‥‥。
先人たちが絶賛してきたその景色を見てみたい‥‥。
その思いが蘇り、食らいつきました。
(勿論、同じ景色といっても、天才たちの見え方と私のような平々凡々の凡凡人の見え方は、全く違うことは承知の上で・・・。)

という訳で、「カラマーゾフの兄弟」を読んでいます。

いま、ちょうど第一巻が終わったところですが、もう読むのが大変で大変で‥‥。
ひいひい言いながら、時折、涙目になりながら読んできました。
気を失っていたところも何箇所かあった気がします。

せっかくなので、これから、その読書体験を綴っていこうと思います。

いやぁ、それにしても「カラマーゾフの兄弟」を読破した人はそれだけで尊敬します!敬語を使います。毎年、夏には暑中見舞いとお中元を、冬には年賀状とお歳暮を贈りたくなります。(※比喩表現です。)
というか、「カラマーゾフの兄弟」を読破した人がいるなんて、都市伝説なんじゃないか?会ったことないですもん。それとも、聞いてないから答えてないだけで、本当はみんな読んでるのかしら?

とにかく、大変だけど読み切りたいと思っています。


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