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文学の本質は、映像化できないことを描くことではないか? 「仮面の告白」(三島由紀夫)を読んで思ったこと

美しい文章

三島由紀夫の作品をしっかり読むのは初めてでした。
文章は固く、難しいのですが、とても美しい文章…!

難しいので読むにはグッと集中する必要があります。

しかし真似したくなるというか、読み返したくなるというか、音読したくなるというか、そういう魅力を文章に感じました。

美しい言葉

使われている言葉もとにかく固い・・・。
しょっちゅう辞書を引かないと読めませんでした。
しかし途中からそのことが面白くなってきました。
新しい言葉を覚える愉しみ。

「生まれてからずっと日本語を使い続けてきたのに、まだこんなに知らない言葉があるのか!」
という感動を覚えました。

いくら日本人で日本に住んでいるからといっても、常用漢字でなければ使わないので接する機会がなく、すなわち習得する機会がありません。

文学作品を通して言葉(日本語)の奥深さを垣間見た気がします。

文学の本質は、映像化できないことを描くことではないか?

作品を通して感じたのは、内面、感情の描写が巧みすぎるということです。

文学とは何か?が最近の自分の疑問であり関心でありテーマなのですが、それについて一歩理解が進んだと思います。

すなわち、「文学の本質とは映像化できないものを描くこと」じゃないかということです。

映像化できないもの、映像だけでは表現しきれないもの、映像化すると陳腐化するもの。

例えば人間の内面で起こること、観念、感情、意識の動き、思考・・・。

「仮面の告白」では主人公の内面を深く描いています。
下記は本文からの引用で、「女性に魅力を感じない主人公の青年が、園子という女性と恋愛をしようと試みるがやはりそれは演じているに過ぎないということを自覚し内省している」描写です。

一人になるといつも私をおびやかす暗い苛立たしさに搗てて加えて、今朝ほど園子を見たときに私の存在の根底をゆるがした悲しみが、また鮮明に私の心に立ち返っていた。それが今日私の言った一言一句、私のした一挙手一投足の偽りをあばき立てた。それというのも、偽りだとする断定が、もしかしてその全部が偽りかもしれないと思い迷う辛い憶測よりもまだしも辛くはなかったので、それを殊更にあばき立てるやり方が、いつしか私にとって心安いものになっていたからだ。こうした場合も、人間の根本的な条件と謂ったもの、人間の心の確実な組織と謂ったものへの私の執拗な不安は、私の内省を実りのない堂々巡りへしか導かなかった。他の青年ならどう感じるだろう、正常な人間ならどう感じるだろうという強迫観念が私を責め立て、私が確実に得たと思った幸福の一トかけらをも、忽ちばらばらにしてしまうのであった。
 例の「演技」が私の組織の一部と化してしまった。それはもはや演技ではなかった。自分を正常な人間だと装うことの意識が、私の中にある本来の正常さをも侵蝕して、それが装われた正常さに他ならないと、一々言いきかさねばすまぬようになった。裏からいえば、私はおよそ贋物をしか信じない人間になりつつあった。そうすれば、園子への心の接近を、頭から贋物だと考えたがるこの感情は、実はそれを真実の愛だと考えたいという欲求が、仮面をかぶって現れたのかもしれなかった。これでは私は自分を否定することさえ出来ない人間になりかかっているのかもしれなかった。

新潮文庫 「仮面の告白」三島由紀夫 著 p140-p141

上記のような内容は、映像化できず、あるいは映像化すべきではなく、言葉によって描写されることが最適なのではないでしょうか。
それこそが文学の本質の一つではないかと思った次第です。
そして三島由紀夫は言葉を使った芸術家、すなわち文学者なのだと思いました。

もちろん、映像でしかなし得ない表現もあり、それらが映画やドラマといった映像作品として表現されているのだと思います。

まとめ

仮面の告白は主人公の内面に抱える問題を三島由紀夫の芸術的な文章・表現力によって描き切った文学作品だと思います。
また、映像化できない/難しい/すべきでない、言葉でしかなし得ない表現を行うことこそが文学なのではないか?という発見をするきっかけとなりました。

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