無限の彼方へさあ行こう
気を抜くと、すくっても手からさらさらこぼれ落ちる砂か、どんなものでも手応えなく透過していく透明人間になったかのように、無機的(無気力)になる。
予定調和的な都市での生活は、いつまでこれを続けるんだろうと思ってしまうし、農山漁村で自然の大きなリズムの中にいたらいたで、その手に負えないものに埋没していく。
生まれたものは必ず老いて死んでゆくから、生きることがどうしようもない徒労であることにはかわりない。
強いて言えば、こうして考えてなにかを書いているときが唯一、無限の広がりを感じて正気でいられるかもしれない。
いや、仲間と合唱でひとつの作品を作るときも同様だ。
あと誰かに触れて人間の体温を感じたときとか、
それから、こういうどこにでもある石垣にも太陽の熱が蓄えられていることや、規則的に並べられていてもよくみるとひとつとして同じ表面をしていないことがわかったときも、だ。
もう暦はとっくに秋なのに夏の忘れものみたいな雲が見えたとき、
机に埋め込まれたゲーム機で花札するおじおばちゃんしか来てない渋すぎるレトロ喫茶がやっぱりいちばんすばらしいなと確信したとき、
那覇の飲食店のトイレのドアにこんなステッカーが貼ってあったとき、
いただき物の梨やぶどうがおいしくて秋を感じたとき。
ああ、案外たくさんあったな。無限の広がりを持った正気になれる瞬間。
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