旅好きのベトナム駐在員が、転職、入院、手術を経て気がついたこと
<神谷くんのプロフィール>
1982年神奈川県横浜市出身。大学在学中に一人旅に目覚め、世界各国を放浪する。大学卒業後、大手精密機器メーカーに就職。ベトナム駐在5年を含む13年間の勤務を経て、スカウト型転職サービス会社に転職。その間、内蔵の疾患が発覚し入院、大きな手術を経験する。今できることを、全力で楽しむことを一層痛感し、今日に至る。現在、新たなビジョンを思い描きながら、日本酒ソムリエの資格をとるために勉強中。
(1)家族旅行のイタリアで旅の魅力を知る
「自分が自分を楽しませること、そして人を楽しませることを考えてきてここまで来た」と、自身の人生を振り返る神谷くん。
私と神谷くんは同じ大学で出会った。
確か空手サークルかイベントサークルか何かの新歓コンパの2次会のカラオケだったと思う。
初めて会ったときの印象はエネルギッシュ。目の前のことに全力で楽しもうという雰囲気が溢れていた。当時流行っていたモンゴル800の曲を2人で肩を組んで熱唱し、そしてすぐに仲良くなった。
この時、神谷くんは、手当たり次第に新歓コンパに参加していたそうだ。
そして最終的に旅サークルに入り、大学4年間の間に、タイ、カンボジア、インド、ネパール、ペルー、ボリビア、アルゼンチン、カナダと8ヶ国を放浪した。
「旅に目覚めたのは、中学1年生のとき、家族と親戚でイタリア旅行に行ったことがきっかけだった。イタリアの主要な都市をツアーで回る5日間くらいの行程だった。見る物すべてがはじめてで、こんな世界が広がっているのか、と衝撃を受けた」
この経験を経て、外国の人や英語にまったく抵抗がなくなった。
もともと外交的だった性格にますます拍車がかかった。
神谷くんのご両親は、2人とも公務員だった。週末になると、お出かけに連れて行ってくれることが楽しみだった。しかし中高時代、そんな両親に対して反発したくなることもあった。
「両親の考え方は、すべてにおいてしっかりとしている。それが大人としての本来あるべき姿なんだろうけど、真面目すぎるっていうか、俺はもっと型からはみ出したいっていうような気持ちが芽生えていった」
そんな神谷くんにとって、大学ではじめた一人旅は、自己表現の場になった。自分でゼロから計画を立て、行きたいところに自由に移動する。
これがたまらなく開放的で気持ちが良かった。
イタリアのときに覚えた感動を、今度は一人旅で実現させていく。
8ヶ国を旅しながら、気がついたことがあった。
「結局、日本ってすごいなって思った。誰かのことを考えて思いやりの工夫がされている。例えば公衆トイレの個室のドアの内側についているフック。荷物をかけられてすごく便利なものなのに、日本以外では見たことがない。こういう細かな配慮ができるっていうのは、日本の魅力だと感じた」
行き着いたのは、日本の良さ。
これまで当たり前のように暮らしてきた日本。
そんな日本がもっと元気になって欲しいと思った。
さらに就職活動の時期になり、自分のやりたいことと向き合った。
「これまでの日本を支えてきたものって何だろうって考えたら、ものづくりじゃないかと思った。メーカーが日本の誇れるものの1つだと気がついた」
(2)就職し、ベトナム駐在員に
そして、神谷くんは大手カメラメーカーに就職した。
はじめは茨城の工場で経理を4年、その後本社へ異動してさらに4年過ごした。そして入社して8年目に、ベトナムへの異動を命じられた。
「ベトナムに行けることになってすごく楽しみだった。準備のときからわくわくして過ごしていた」
しかしベトナム駐在員としての生活は、はじめから順風満帆とはいかなかった。
まずは言語の壁。お互いに、不十分な英語を使って会話をするので、小さいすれ違いが多発した。
ベトナムでは、現地の人を雇って、工場全体を動かすポジションについていた。その際に日本とベトナムの労働に対する、考え方の違いも痛感した。
「ベトナムの人は根がすごく真面目で、言われたことをきっちりやってくれるのがすごいと思った。でも、その逆で言われていないことについては、きっちりやらなかったりする。国を超えて一緒に働くことの難しさを感じた」
そんなときに思い出したのが、小さいときからのポリシー。
―自分自身を楽しませ、まわりの人も全力で楽しませること。
毎朝のミーティングで、誰か一人に司会を担当させて、仕事の話以外で面白エピソードを語ってもらった。もともと明るい国民性。朝から笑顔が広がり、職場に前向きな雰囲気が広がっていった。
(3)転職活動、そして入院・手術を経験して気がついたこと
5年間のベトナム勤務は神谷くんに大きな学びを与えてくれた。
日本では、友達間でも企業間でも約束したことを守ってくれる風土がある。ベトナムは必ずしもそうではない。イレギュラーなことが常に起こる、ということを想定して行動できるようになった。さらに日本と海外を比べて、日本に足りない部分についても考えるようになった。
「日本は秩序が保たれている反面、きっちりしすぎている。日本だと警察に捕まっちゃいそうなことでも、海外では実は動じていないことが多い。海外の人たちは、人間の本能のままに生きている感じがする」
ベトナムから帰国した後、改めて眺めた自分の職場。仕事が先の先まできちんと決められすぎている。物事の意思決定が遅く、見方によっては仕事が凝り固まっているとも感じた。そして、思い切って転職を決意した。
新しい職場は、転職を支援する企業。これまでの自身の経験と培ってきた人脈を生かせると思った。
しかし、転職活動の最中、神谷くんは体の異変を感じるようになった。
腎臓の病気だった。
「はじめは薬飲んで治るかな、くらいに思っていたら、どうやらそんなものじゃなかったらしく。これはまずいぞと思った。結果、大きな手術をすることになった」
これまで元気印で過ごしてきた神谷くんは戸惑った。常に楽しむことをモットーに過ごしてきたが、この時ばかりは襲いかかる不安を振り払うことができなかった。体重も10キロ近く落ちた。
「人間はいつ死ぬかわからない。やれるときにやれることをやっておかないとだめだということを強く感じた。それと同時に、家族や周囲に対して、日常のちょっとしたことに感謝の気持ちが生まれた。妻がご飯を作ってくれたこと、いま自分が仕事できていること、困っているときに同僚が声を掛けてくれたこと、生きていることすべてに感謝して過ごせるようになった」
神谷くんには、小学生の娘さんがいる。
パパとして娘さんと接しながら、同時に自分が若かりし頃の両親との関係を思い出すことがある。
「当時は両親のこと、きっちりしすぎて窮屈だなって思っていた。だから反発するようにふざけた行動をとったこともあったし、行き着いた先が海外の一人旅だったような気もする」
しかし、気がついた。
両親は自分たちのことよりも何よりも、すべてにおいて子どもを育てることを最優先してくれていたのだと。
「父親が亡くなって3年が経っていろいろなことを思い出すことがある。父親は週末に家族をいろいろな場所に連れ出してくれた。多くを語るタイプでもなかったし、一緒に飲み行ったことなんかもなかったから、想像するしかないけれど、子どもたちのことを一生懸命楽しませようとしてくれていたのだと思う。今なら父親の気持ちがわかる」
(4)未来へ向けて
神谷くんは、今、新たに目標を見つけている。
「自分の好きなことを仕事にしていきたいって思ってここまで来た。その中で、日本を元気にしたいという気持ちは今も変わっていない。そう考えた場合にいつか、日本酒を世界に広めたいと思い描いている」
神谷くんは、日本酒のソムリエ的な資格を取ろうと勉強している。
日本を盛り上げるために、世界に日本酒を広める。ワインだと一本何十万もするものもざらにあるが、日本酒の場合はそこまで高くない。安売りされている感じがする。
日本酒を世界の人に飲んでもらって日本はすごいんだぞ、ということをアピールしていきたい。
そのように語る神谷くんの眼差しは、大学時代と変わらない。
この日のインタビューは、カラオケBOXで行った。
インタビューの最後に1曲だけ、モンゴル800を熱唱して帰った。
「夢ならば覚めないで 夢ならば覚めないで あなたと過ごした時 永遠の星となる」
神谷くんにとっての「あなた」は誰を思っているのか。父親か、娘さんか。遠い地で出会ったベトナムの人だろうか。
これからも夢を追い続けて走り続ける神谷くんを、応援していきたい。
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