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(16)何者

 そこから更に一時間半、やっと自分の番がやってきた。担当医は四十代ほどの男で、患者の話を長く聞いてくれる。それがこの混雑に繋がっているのだけれど、こういうジャンルの患者として思えば話を聞いてもらえる機会は非常に貴重で、だからこそ何時間でも待てる。需要と供給が合っているのだ。時間が無限だったら、この医者は何時間でも話を聞いてくれるだろう。そんな安心感がある。

 私は医者に今の生活を話す。できるだけ丁寧に暮らしていること、きのうはパンを焼いたこと、ケーキ作りに興味があること。今でも、街中を歩いて、小学生くらいの子どもとその親らしき存在を見かけるとひどく動悸がするということ。あの時の、責められ続け、全ての声が死ねと聞こえたあの瞬間がフラッシュバックし、涙が零れそうになったり、実際零れてしまったりすること。そういう日の夜はなかなか寝付けないこと。悪夢をよくみること。悪夢の中でも私はずっと責め立て続けられていること。昔の恋人の顔はもう思い出せないのに、あの人だ、と確実に認識できる真っ黒くて大きな何かが夢の中で私をぐにゃぐにゃと揺れながら「お前は真面目過ぎるんだよ」と大声で嗤ってくること。そういう全てを振り払いたくて、丁寧に暮らして、私の身は清いのだと言い聞かせているということ。それは虚無感との戦いだということ。この、虚無感が、取れない限り、前に進めそうにない、と、いうこと。

「そうですか」
 医者が言う。
「きちんとした、規則正しい生活を送ることは非常によいことです。フラッシュバックも、あれだけ責められたのだから起きて当然のことなのだと思います。それだけあなたは怖い思いをしたんですね。無理に前に進もうとしなくていいんです。今は、とにかく、生活を整えて、薬を飲んで、ゆっくりと眠って、心を落ち着かせて。次のことは、それから考えましょう。じゃあきょうの処方は前回と少し変えて――」
 ありがとうございました、と言って、診察室を出る。眠剤が増え、不安時に加え、不穏時の頓服が出、フラッシュバック用の頓服も出た。少し座って待っていると、会計に呼ばれる。金を払い、隣の薬局に処方箋を出し、金を払い薬と引き換える。

 気がつけばもう夕方近くで、何が予約時間だよ、と心で悪態を吐きながら、帰り道を急ぐ。薬が増えた分、リュックサックはガサガサとうるさい。このうるささが、煩わしさが、今の私の立ち位置なのだ。そんなことを思う。
 嘘だと言ってくれ。私は教師で、クラスを笑顔でまとめていて、恋人と職場結婚していて、幸せな生活を送っている。それこそが本当で、これはひどい悪夢の中にいるだけなのだと、誰か、誰もいい、言い切ってくれよ。

 頭の悪い妄想を止められないのは、私の頭が悪いからだ。馬鹿な奴は、教師になんてなるべきじゃなかったのだ。
 じゃあ、私は何にならなれたというのだろうか。
 私は、一体、何者になら、なれたんだろうか。
 この程度の、私ごときで。


(続)

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